第9話:月夜の告白、雪の罠

第9話:月夜の告白、雪の罠


窓の外は、すべてを飲み込むような白一色の世界だった。 十二月十九日。学園の古びた時計塔が、夜の帳が降りたことを告げる鐘を鳴らす。 しんしんと降り積もる雪は、音を吸い込み、世界を恐ろしいほどに静謐(せいひつ)な静寂へと変えていた。


「……まるで、あの冬の夜のようだ」


ヒカルは、バルコニーの欄干に積もった雪を指先でなぞった。 前世、光源氏として生きた記憶の中で、雪は常に情愛の背景だった。凍える夜だからこそ、衣の重なりは温かく、吐息は白く、想いは切なく募る。借金返済の目処が立ち、心に余裕が生まれたせいだろうか。彼の胸には、かつて千年の時を超えて持ち越してきた「貴公子」としての傲慢な自信が、満月のように膨らんでいた。


今宵、彼は二人の女をこの場所に呼んでいた。 一人は、氷のような気高さを持つ婚約者、アリス。 もう一人は、野に咲く花のような素朴さで彼を惑わす、エレン。


「お待たせしたね」


背後で扉が開く音がした。 振り返ると、そこには対照的な装いの二人が立っていた。毛皮の襟巻きをきつく巻き、毅然と顎を引いたアリス。そして、寒さに身を縮めながらも、真っ直ぐな瞳でこちらを見るエレン。


「ヒカル。こんな大雪の夜に呼び出すなんて、何の真似? 借金返済の目処がついたからといって、浮かれすぎよ」


アリスの声は、冷気を含んで鋭かった。 ヒカルは優雅に微笑み、彼女たちとの距離を詰める。雪の結晶が彼の長い睫毛に落ちて、宝石のように砕けた。


「アリス、エレン。余は今、この上なく澄み渡った心地だ。この雪のようにね。借金という枷(かせ)が外れかけ、ようやく本来の『余』として、二人に愛を語れる」


彼は、まずアリスの凍えた手を、次いでエレンの戸惑う手を取り、自身の胸元へと引き寄せた。


「余は決めたのだ。アリス、君は余の正妻として、この家の誇りと伝統を共に守ってほしい。そしてエレン、君は余の心の拠り所、最愛の伴侶として、常に傍にいてほしい」


ヒカルの瞳には、微塵の悪意もなかった。 前世において、それは最も誠実な、そして贅沢な「愛の形」だったからだ。複数の女を愛し、そのすべてに責任を持ち、養い、慈しむ。それが貴公子の美学であり、救いであると信じて疑わなかった。


「……二人とも、余の妻になればよい。誰一人として欠けることなく、余の光の中で幸せにする。それが余の出す、究極の答えだ」


沈黙が降りた。 雪が地面に落ちる音すら聞こえそうな、暴力的なまでの静寂。 ヒカルは、二人が感激に震え、あるいは愛の深さに涙するのを待った。


だが、最初に響いたのは、乾いた笑いだった。


「……正妻、と、最愛の伴侶?」


アリスが、ヒカルの手を振り払った。彼女の瞳には、怒りを超えた「絶望的な拒絶」が宿っていた。


「ヒカル。あなたは私を『地位』という箱に入れ、エレンを『癒やし』という棚に飾るつもりなのね。それがあなたの言う『愛』? 冗談じゃないわ」


「アリス、なぜ怒る? 君の誇りも、彼女の純真も、余は等しく……」


「等しくなんてない! 私が欲しいのは、たった一人に選ばれる誇りよ! あなたのコレクションの一番いい席じゃない!」


アリスの叫びが、冷たい空気を切り裂く。彼女の頬は怒りで紅潮し、目元には薄っすらと涙が浮かんでいた。それは、裏切りを許さない、一人の誇り高い女の魂の叫びだった。


「ヒカル様」


次に声を上げたのは、エレンだった。 彼女の声は、アリスとは対照的に、静かで、そして重かった。


「私、あなたのこと、少しだけ素敵だなって思ってました。借金のために泥臭く頑張る姿を見て、この人は本当は、誰よりも一生懸命に生きてるんだって」


エレンは、繋がれていた手を、自ら静かに、しかし力強く引き抜いた。


「でも、今の言葉でわかりました。あなたは、私たちが『心』を持っていることを、本当の意味では理解していない。私は、あなたの『二番目』になるために生きているんじゃないんです」


「二番目などではない、エレン! 君への想いは、アリスへの敬意とはまた別の……」


「それが、一番いけないんです」


エレンは寂しげに首を振った。


「好きっていうのは、誰かを特別にすることです。その『特別』を分け合うことは、誰かを傷つけることと同じなんです。私は、あなたに選ばれたいんじゃない。……あなたを独り占めできないなら、私はあなたをいりません」


「拒絶……? 余を……拒むというのか?」


ヒカルの頭の中に、冷たい水が流れ込んだような衝撃が走った。 前世から今日まで、彼は常に「選ぶ側」だった。女たちが彼を奪い合い、嘆き、あるいは忍んで待つことはあっても、このように正面から「あなたはいらない」と突きつけられたことは一度もない。


「ヒカル、さようなら。……借金を返せばすべてが元通りになるなんて、大間違いよ。あなたは一番大切なものを、自分から壊したの」


アリスが背を向け、雪の中へと歩き出す。 エレンもまた、一度だけ悲しげにヒカルを見つめ、言葉もなく彼女に続いた。


二人の足音が、雪に吸い込まれて消えていく。 残されたのは、煌びやかな光を失い、ただの「時代錯誤な男」となったヒカル一人だけだった。


「……待て。待ってくれ。余が、間違っているというのか?」


ヒカルは叫ぼうとしたが、喉が凍りついたように動かなかった。 肺に吸い込む空気は刃のように冷たく、心臓を突き刺す。 前世の平安京では、月は優しく、雪は風流なものだった。だが、この現代の雪は、ただひたすらに冷酷で、現実的だった。


「選ぶ……責任……」


彼は、雪の上に残された二筋の足跡を見つめた。 一人は右へ、一人は左へ。 どちらの足跡も、重なり合うことはない。 二つの愛を同時に手にすることは、誰の手も握っていないことと同じなのだと、彼は初めて知った。


掌(てのひら)に残る、彼女たちの体温の残滓(ざんし)。 それは急速に雪の冷たさに奪われていく。 ヒカルは、震える手で自分の肩を抱いた。 美貌も、歌の才も、借金を返す機転も、ここでは無力だった。


「……余は、独りか」


月光が、雪原を青白く照らし出す。 その光の中に立つヒカルの姿は、あまりにも美しく、そしてあまりにも滑稽だった。 彼は初めて、自分の「価値観」という殻が、粉々に砕け散る音を聞いた。


命を削り、金を稼ぎ、ようやく手に入れた「自由」。 その行き着いた先が、この凍えるような孤独であったことを、彼は雪の夜に刻みつけられた。






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