第8話 2億円の最終決戦

第8話

2億円の最終決戦


「……ふむ。やはり美しさだけでは、米の一粒も購えぬというわけか」


光(ヒカル)は、豪奢な学園のバルコニーで、手にした一枚の書状を眺めて溜息をついた。かつて平安の空を焦がした、あの「光源氏」としての記憶。だが、今の彼を縛っているのは、怨霊の呪いでもなければ、帝の勅命でもない。


「二億……。この数字、余(よ)には些か風情が足りぬように思えるのだが」


父が投資でこしらえた、天を突くような借金の山。 放蕩の限りを尽くした前世の彼からすれば、金など水のように流れるもの。だが、現代という「契約」の世において、水は時として首を絞める綱になる。


学園祭最終日。 校舎の至る所から、揚げ物の匂いや、浮かれた若者たちの喧騒が風に乗って運ばれてくる。その中で、学園一の広さを誇る大ホール前だけが、異様な静寂と熱気に包まれていた。


「ヒカル様、準備は整いましたわ。本当に……やるのですか? この、血生臭い出し物を」


婚約者であるアリスが、眉をひそめて歩み寄る。彼女の瞳には、かつての「軟弱な遊び人」を見る冷たさはない。代わりに宿っているのは、得体の知れない獣を見るような、鋭い警戒心だ。


「アリス、美しき我が婚約者よ。血の匂いと花の香りは、根源において等しい。生という名の煌めきを、今から君に見せよう」


ヒカルは、ふわりと彼女の頬をかすめるような距離で微笑んだ。かつてならこれだけで、どんな女も紅を差したように頬を染めたはずだ。だが、アリスは一歩下がり、氷のような声で告げた。


「その距離感、いい加減に直して。不快です。……それより、客の入りは保証されているのでしょうね?」


「案ずるな。人の欲とは、常に『希少』と『驚愕』に集うものだ」


ヒカルは袖を翻し、ホールの舞台へと足を踏み入れた。


舞台の上。 スポットライトが当たったのは、絢爛豪華な御簾(みす)でも、優雅な和歌の短冊でもなかった。


それは、氷の台の上に横たわる、一頭の巨大な本鮪であった。


「皆々様、お集まりいただき感謝に堪えぬ」


ヒカルの声が響く。それは、前世で数多の女性の耳を溶かしてきた、絹のような調べ。客席には、ヒカルに心酔する令嬢たち、そして「没落貴族の息子が、ついに狂ったか」と冷笑を浮かべる野次馬たちがひしめいている。


「雅(みやび)とは、静寂の中にのみあるのではない。生を奪い、糧とする。その剥き出しの躍動こそが、真の美。今宵、余が披露するのは、異国と前世の知識を織り交ぜた、命の祝祭である!」


ヒカルは、特注の日本刀にも似た包丁を抜いた。 その瞬間、空気が変わった。


彼は平安の貴公子だが、同時に「生存本能」の塊でもあった。宮中での修羅場を潜り抜けてきた男の集中力は、凄まじい。


ザシュッ。


鈍い音と共に、包丁が銀色の肌に沈む。 鮪の脂が、ライトを反射して宝石のように光る。ヒカルの手つきは、まるで舞を舞っているかのようだった。前世で学んだ装束の裁断や、儀式の所作が、現代の「解体」という暴力的な行為に、あり得ないほどの気品を与えていく。


「見て、あの手つき……。なんて、残酷で……綺麗なの……」


令嬢の一人が、うっとりと吐息を漏らす。 ヒカルは無意識に、一番前の席にいたエレンへ視線を向けた。彼女は他の者たちのように見惚れてはいなかった。ただ、一人の男が必死に泥を這いずり、生きようとするその「足掻き」を、見定めるように見つめていた。


「エレン。君の瞳には、この赤身はどう映る?」


解体しながら、ヒカルは不意に問いかけた。 突然の指名に、場がざわつく。エレンは困惑したように立ち上がり、しかし逃げずに彼を見返した。


「……美味しそうだけど、ちょっと怖いです。あなたが、その魚と自分を重ねているみたいで」


ヒカルは一瞬、包丁を止めた。 面白い。 これほどまでに自分を「美」の象徴ではなく、ただの「肉」として見る女が、前世にいただろうか。


「重ねる、か。左様。余も、この鮪も、まな板の上よ。ならば、最高値で売れて見せるのが、最後の意地というもの!」


ヒカルは笑った。 前世で、帝から愛でられ、女たちに傅(かしず)かれたあの自尊心が、今は「二億を稼ぐ」という、この上なく卑俗で切実な目標へと変換される。


「さあ、競り(せり)を始めよう! この大トロの一片、余が直々に握り、その口へ運ぶ特権を添えて。価格は――汝らの『欲』のままに!」


ヒカルの言葉が引き金となり、会場は狂乱の渦へと変わった。 雅な書を添えた、鮪の希少部位の即売会。現代の経済知識――「限定」「体験型消費」「インフルエンサー効果」を、彼は無意識に、しかし完璧に使いこなしていた。


札が飛ぶ。 数字が踊る。 令嬢たちが、普段は隠している金欲と独占欲を剥き出しにし、ヒカルとの一瞬の「縁」を求めて、父の借金を、文字通り食い潰していく。


祭りの後。 ホールには、潮の香りと、嵐の後のような脱力感が漂っていた。


「……計算が終わりましたわ」


アリスが帳簿を閉じ、深い溜息をついた。 その表情には、呆れと、そして認めたくない敬意が混ざっている。


「完済とまではいかないけれど……利息の支払いを止め、元本の半分を返すには十分すぎる金額です。ヒカル、あなたは本当に……最低で、最高に悪趣味な男ね」


「褒め言葉として受け取っておこう」


ヒカルは、返り血がついた白いシャツの袖をまくり、舞台の縁に腰掛けた。 そこへ、片付けを終えたエレンが歩み寄ってくる。彼女はヒカルに、一杯の温かいお茶を差し出した。


「お疲れ様でした、ヒカルさん」


「エレン。余の舞はどうであった? 二億の借金を背負った、道化の姿は」


「すごかったです。でも……」


エレンは少し困ったように笑い、言葉を継いだ。


「あんなに大勢の人を夢中にさせておいて、最後、誰の手も取らなかったんですね。……あ、お茶。熱いので気をつけてください」


ヒカルは差し出された湯呑みを受け取ろうとして、いつもの癖で彼女の指先に自分の指を絡めようとした。 だが、エレンはひょいと手を引いた。


「そういうの、いりませんから。また『地雷』、踏んでますよ」


「……っ。……ふ、ふふ。はははは!」


ヒカルは天を仰いで笑った。 二億の金を動かし、国を動かすほどの美貌を持ちながら、目の前の一人の少女の心には、指先一つ触れられない。


平安の御代であれば、歌一つで手に入ったはずのものが、この「対等」な世界では、どれほどの金よりも遠い。


「面白い。実に見事な世だ」


ヒカルは熱い茶を一気に啜り、舌を焼いた。 痛みと熱が、自分が今、ここに生きていることを教えてくれる。


「父上! 聞いているか! 借金は、余が必ずカタを付けてやる。だから……勝手にまた投資などするではないぞ!」


舞台の袖で、情けなく泣き崩れている父に向かって、ヒカルは傲慢に言い放った。 二億の借金。崩壊した恋愛倫理。そして、自分を「ただの男」として扱うヒロインたち。


光源氏の、本当の「放蕩記」は、まだ始まったばかりであった。


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