第7話 股引の騎士
第7話
股引の騎士
その日、板橋は本気を出していた。
空気が、痛い。
息を吸うと、肺の奥がきしむ。
吐いた白い息が、すぐに凍りつきそうな朝だった。
「……大寒波、か」
ヒカルは、学園の正門前で足を止めた。
マントの裾が、風に煽られてばさりと鳴る。
それだけで、太ももに冷気が突き刺さった。
(――まずい)
内心で、そう呟く。
「……美とは、耐えることにあらず」
誰にともなく、格言めいたことを口にする。
「美とは、環境に適応しつつ、なお優雅であることだ」
言い切った、その足取りは堂々としていた。
――上半身は。
問題は、下半身である。
ヒカルは、歩くたびに微妙に動きがぎこちない。
理由は、はっきりしていた。
(……股引、最高だな)
そう。
彼は今、履いていた。
しっかりと。
ぬくぬくと。
防寒性能に全振りした、実用一点張りの股引を。
昨夜、布団の中で真剣に悩んだ末の決断だった。
――美か、生存か。
そして彼は、選んだ。
(生き延びてこそ、美は語れる)
問題は、これが絶対にバレてはいけないという点だ。
「ヒカル」
背後から、声。
「……っ」
一瞬、背筋が凍る。
振り返ると、そこにいたのはエレンだった。
白い息を吐きながら、マフラーに顔を埋めている。
「おはようございます」
「……あ、ああ。おはよう」
ヒカルは、できる限り自然に立った。
――足を、開かないように。
「寒いですね……」
「寒さは、精神を鍛える」
「……それ、今言うことですか」
エレンは、少し呆れたように笑った。
その視線が、ふと、下に落ちる。
(来るな……来るな……)
ヒカルは、全身で祈った。
マントの裾が、風にめくられる。
「……」
エレンの視線が、一瞬、止まった。
ほんの一瞬。
ヒカルの脳内で、警鐘が鳴り響く。
(見た)
(今、見た)
沈黙。
風の音だけが、二人の間を吹き抜ける。
「……」
「……」
エレンは、何も言わなかった。
ただ、視線をすっと上に戻し、
何事もなかったように口を開く。
「今日は、すごく寒いですから」
「……ああ」
「無理しないでくださいね」
それだけ。
ヒカルは、内心で派手に転んだ。
(……言わないのか)
(いや、言うな。言うなよ)
「……ふむ」
ヒカルは、咳払いをして、話題を変える。
「今日の私は、“冬の美学”について語る予定だ」
「冬の……美学?」
「そうだ。
寒さの中でこそ、人は己の本質を知る」
堂々と言い切る。
エレンは、一瞬だけ目を伏せた。
そして。
「……そうですね」
小さく、微笑んだ。
その笑みは、
からかうでもなく、
憐れむでもなく。
ただ、
見てしまったものを、そのまま受け取った顔だった。
ヒカルは、その表情に、なぜか胸がざわついた。
昼休み。
中庭で、令嬢たちが集まっている。
「ヒカル様、寒くありませんの?」
「この程度で、身が縮むと思うか」
ヒカルは、胸を張った。
股引の存在を、全力で無視して。
その時。
「……っ」
今度は、別の視線。
アリスだった。
腕を組み、じっとこちらを見ている。
(やめろ……)
(見るな……)
アリスの視線が、ゆっくりと下へ。
――止まる。
「……」
アリスは、ほんのわずかに眉を動かした。
そして、ふっと息を吐く。
「……なるほど」
「な、何がだ」
「いえ」
アリスは、いつもの鋭さを抑えた声で言った。
「あなたなりに、考えているのね」
「……?」
それ以上、何も言わなかった。
ヒカルは、その場で固まった。
(なぜだ)
(なぜ、誰も突っ込まない)
風が吹く。
マントが揺れる。
股引は、今日も完璧に仕事をしていた。
放課後。
ヒカルは、一人で空を見上げた。
雲は低く、重い。
(……完璧じゃない、か)
美を語り、
恋を誤り、
股引を履く。
それでも。
誰かが、
それを見て、
何も言わなかった。
それが、
妙に胸に残った。
エレンは、少し離れた場所からヒカルを見ていた。
(……あの人)
(強がるけど)
(ちゃんと、生きようとしてる)
アリスもまた、別の場所で思っていた。
(……あんなところで、意地張らなくていいのに)
冷たい風の中で、
小さな視線が、
ヒカルを包む。
彼は知らない。
この日、
**完璧じゃない姿を見せたことで、
初めて“受け入れられた”**ことを。
股引の騎士は、
今日も堂々と、板橋を歩く。
寒さに勝ち、
美学に負けながら。
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