第6話 末摘花の家庭教師

第6話

末摘花の家庭教師


 午後の陽射しは、静かだった。


 学園の北棟。普段はあまり使われない小さな自習室。

 窓から入る光が、机の上の紙をやわらかく照らしている。


「……えっと」


 エレンは、手元の教科書を見つめたまま、固まっていた。


「その……」


 声が小さい。


 紙の上には、古文の一節。

 墨で刷られた文字が、まるで動かない壁のように並んでいる。


「……やっぱり、難しいです」


「うん」


 ヒカルは即答した。


「難しいな」


「え?」


 エレンが顔を上げる。


「え、あの……“うん”って……」


「難しい。これは素直に難しい」


 ヒカルは椅子に深く腰かけ、肘をついた。


「前世の私なら、十歳で暗唱させられていたが……今の君にそれを求めるのは酷だ」


「……また前世」


「だが安心しろ」


 ヒカルは、机の上の紙を指で軽く叩いた。


「これは“覚えるもの”ではない。

 “眺めるもの”だ」


「……ながめる?」


「そう。まずは意味を理解しようとしない。

 音を、聞く」


 ヒカルは、ゆっくりと声に出して読んだ。


 抑揚は少なく、だが滑らか。

 言葉が、空気に溶ける。


 エレンは、思わず息を止めていた。


 意味は、分からない。

 けれど、不思議と耳に残る。


「……綺麗」


 ぽつりと、エレンが言った。


「だろう」


 ヒカルは、少しだけ得意げに笑った。


「和歌も古文も、

 “分かる”前に“感じる”ものだ」


 そう言って、ヒカルは紙の端に、さらりと文字を書き足した。


「これは?」


「意訳だ。

 難しくしない」


 紙に並ぶ、やさしい言葉。


 ――春を待つ心。

 ――触れられない想い。

 ――それでも続く日々。


 エレンは、しばらく黙ってそれを見ていた。


「……なんだか」


「うん?」


「誰かの、日記みたいですね」


 ヒカルは、一瞬だけ目を瞬いた。


「……ああ」


 そして、ゆっくり頷く。


「そうだ。

 だから、人は共感する」


 沈黙。


 外から、遠くで鐘の音が聞こえた。

 風が、窓辺のカーテンを揺らす。


「……ヒカル」


 エレンが、少しだけ勇気を出して口を開く。


「どうして……家庭教師なんて」


「勉強が苦手だと聞いた」


「それだけですか?」


「それだけだ」


 即答だった。


 エレンは、少し拍子抜けした顔をする。


「……もっと、その……」


「?」


「“攻略”とか……」


 言いかけて、エレンは口を閉じた。


 ヒカルは、ゆっくりと首を傾げる。


「攻略?」


 そして、ああ、と一人で納得したように息を吐いた。


「なるほど。

 そういう目で見ていたか」


「……違います!」


 エレンは慌てて否定する。


「ただ……ヒカル、いつも……」


「近い、だろう」


「……はい」


 ヒカルは、初めて苦笑した。


「それは、すまなかった」


「え?」


「距離の取り方を、私は学んでいない」


 そう言って、ヒカルは椅子をほんの少し後ろに引いた。


 それだけで、空気が変わる。


 エレンは、胸の奥がすっと軽くなるのを感じた。


「……今は」


 ヒカルは、静かな声で続ける。


「君を“攻略対象”として見ていない」


 エレンの心臓が、跳ねた。


「……え?」


「教える相手として。

 目の前にいる、一人の少女として見ている」


 その言葉は、飾り気がなかった。


 だからこそ、

 エレンの胸に、まっすぐ落ちた。


「……」


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 紙をめくる音。

 鉛筆が転がる音。


「……あの」


 エレンが、再び口を開く。


「この歌……」


「うん」


「嫌いじゃないです」


 ヒカルは、少しだけ目を細めた。


「それでいい」


 その笑みは、

 誰かを口説くためのものではなかった。


 ただ、

 共有できた時間を、確かめるような笑み。


 午後の光が、ゆっくりと傾いていく。


 エレンは思った。


(……この人)


(今までと、違う)


 ヒカルもまた、気づいていた。


 この沈黙が、心地いいことに。

 この距離が、壊したくないものだということに。


 ――恋。


 それは、

 落とすものでも、

 勝ち取るものでもない。


 ただ、

 こうして隣に座って、

 同じ紙を見ることなのかもしれない。


 ヒカルは、初めてそう思った。


 ゲームの音は、もう聞こえなかった。




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