第5話 板橋の怪火と嫉妬の炎
第5話
板橋の怪火と嫉妬の炎
最初に異変に気づいたのは、焦げた匂いだった。
甘くもなく、刺激的でもない。
ただ、喉の奥にざらりと残る、嫌な匂い。
「……?」
ヒカルは足を止めた。
学園から続く裏道。古い商家と倉庫が並ぶ一角だ。
風に乗って、かすかな煙が流れてくる。
「火事……か?」
次の瞬間。
「きゃああああっ!!」
甲高い悲鳴が、空気を切り裂いた。
ヒカルは、考える前に走っていた。
「おい! 誰かいるのか!」
角を曲がった先。
古い倉庫の裏手から、赤い炎が舌を伸ばしている。
ぱちぱち、という乾いた音。
木が爆ぜる音。
熱気が、肌を刺す。
「た、助けて……!」
煙の向こうで、令嬢たちがうずくまっていた。
逃げ道は、すでに炎に塞がれている。
――ああ。
ヒカルの頭の中で、何かが切り替わった。
(この匂い……この熱……)
前世。
夜の都。
争いの後の館。
炎に包まれた回廊。
逃げ遅れた女たちを、何度も見た。
「大丈夫だ」
ヒカルの声は、不思議なほど落ち着いていた。
「泣くな。煙を吸うな。低く」
「で、でも……!」
「いいから聞け!」
その一喝に、令嬢たちがびくりと肩を震わせる。
ヒカルは外套を脱ぎ、井戸桶の水をかぶせた。
布が濡れる、重たい感触。
「これを口に当てろ。
火は上に行く。床を這え」
「あなたは……?」
「私は後だ」
迷いはなかった。
順番を決め、距離を測り、炎の流れを読む。
熱が、頬を焼く。
煙が、肺を刺す。
それでも、足は止まらない。
「次!」
「きゃっ……!」
転びかけた令嬢を、ヒカルは乱暴に引き寄せた。
「走れ!」
最後の一人を外に押し出した瞬間、
梁が、音を立てて崩れ落ちた。
どん、と地面が揺れる。
「ヒカル!!」
その声が、はっきりと聞こえた。
外。
騒ぎを聞きつけた人だかりの中に、アリスがいた。
顔が青ざめ、唇を噛みしめている。
「……っ」
ヒカルは、煙にむせながら、外へ飛び出した。
その瞬間。
アリスは、何も考えずに駆け寄っていた。
「……っ、バカじゃないの……!!」
拳が、胸元に叩きつけられる。
「死ぬ気!?」
「いや……」
ヒカルは、かすれた声で答えた。
「死ぬのは……慣れてない」
「何それ……!」
怒りと、恐怖と、安堵が混ざった声。
アリスの手は、震えていた。
「あなた……あんなこと……」
言葉が続かない。
さっきまで。
浮気未遂で。
最低な男で。
軽蔑の対象だったはずなのに。
――目の前の男は。
煤で汚れ、髪は乱れ、息も荒い。
それでも、目だけは冷静だった。
「……助かったの?」
アリスが、令嬢たちを見る。
「はい……」「ありがとうございます……」
口々に礼を言われ、ヒカルは困ったように頭を掻いた。
「礼はいらん。
火事は、嫌いなんだ」
「……どうして」
アリスの問いに、ヒカルは一瞬だけ黙った。
そして、肩をすくめる。
「燃えると、全部なくなるだろ」
それだけ言って、視線を逸らした。
その横顔を、アリスはじっと見つめていた。
(……なに、それ)
(ずるい)
クズで。
自分勝手で。
最低な男のはずなのに。
こんな時だけ、
何も考えずに、
正しいことをする。
胸の奥で、何かがちり、と音を立てた。
――嫉妬。
エレンが、令嬢たちに囲まれるヒカルを見て、そっと息を吐く。
「……また、目立ってる」
アリスは、その言葉に反応した。
「……そうね」
でも、その声は、さっきまでより低かった。
炎は鎮まり、
黒い煙だけが、空に残る。
ヒカルは、ふと自分の手を見た。
煤で真っ黒だ。
「……」
前世でも、今世でも。
考えるより先に、身体が動く。
それが、
生き残ってきた理由。
アリスは、その背中を見つめながら、唇を噛んだ。
(……ただのクズ、じゃない)
その事実が、
なぜか腹立たしくて、
なぜか、胸を熱くさせた。
板橋の空に、
まだ、微かな焦げ臭さが残っていた。
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