第21話 小さな裏切り
噂は、形を持たないまま人の心に入り込む。
そして、ある瞬間、行動という姿を与えられる。
異変に最初に気づいたのは、見張り役の少年だった。
「……食料庫の帳簿、合わない」
彼は震える声でそう報告してきた。
数が合わないのではない。記録そのものが、丁寧に書き換えられていた。
「一袋、二袋の話じゃない」
セラが帳簿を確認し、眉を寄せる。「意図的ね」
私は静かに頷いた。
盗みではない。
管理を理解している者の手だ。
調査は水面下で進めた。
疑心暗鬼を広げないためだ。
結果は、思ったより早く出た。
「……あの人、境界を出ていった」
名を聞いた瞬間、胸の奥がひやりとした。
境界に最初期からいた男。
争いを嫌い、交渉を望んでいた人物。
「王国側に向かった可能性が高い」
セラが続ける。「物資の量、見張りの交代時間、集会の雰囲気……全部、知ってる」
焚き火の音が、やけに大きく聞こえた。
「捕まえる?」
誰かが言った。
私は首を振る。
「追わない」
きっぱりと言う。「今追えば、噂が“事実”になる」
裏切り者を出した集団。
そう認識された瞬間、境界は弱くなる。
だが、何もしないわけにもいかない。
その夜、私は全員に向けて、短い通達を出した。
「食料管理を変更する」
「見張りは三人一組」
「噂話は、私かセラに直接聞いて」
理由は説明しなかった。
説明は、時に火種になる。
しかし、沈黙は別の形で波紋を生んだ。
「やっぱり、何か隠してるんじゃないか?」
「王国と繋がってるから、裏切りを公にしないんだろ」
そんな囁きが、耳に入ってくる。
私は、あえて止めなかった。
完全な静寂より、表に出た不安の方が、まだ扱える。
数日後、王国側から一通の書簡が届いた。
内容は、丁寧で、礼儀正しく、そして曖昧だった。
「境界の現状について、いくつか興味深い情報を得た」
それだけで、十分だった。
裏切りは、成立している。
私は書簡を焚き火にくべた。
文字が崩れ、灰になる。
「……許せない?」
セラが、静かに尋ねる。
「怒りはある」
正直に答える。「でも、それ以上に……理解もある」
男は、弱かったのだ。
境界を信じきれなかった。
王国が差し出した“安全”に、すがった。
それは、誰にでも起こり得る。
「だからこそ」
私は顔を上げる。「見せなきゃいけない」
「何を?」
「境界が、裏切りを出しても壊れないってこと」
翌日、私は集会を開いた。
噂ではなく、事実として語るために。
「境界を去った者がいる」
ざわめきが走る。「王国に情報を渡した可能性も高い」
驚きと怒り、恐怖。
様々な感情が渦巻く。
「でも」
私は声を張った。「彼は、私たちを滅ぼせなかった」
静まり返る。
「情報は古くなる。結束は、更新できる」
一人一人を見渡す。「境界は、人が去ることで弱くなる場所じゃない。残った者が、どう在るかで決まる」
誰かが、拳を握った。
誰かが、涙を拭った。
「王国は、私たちの中に恐怖を植えた」
私は続ける。「でも、恐怖に従うかどうかは、私たちが選べる」
沈黙の後、拍手が起こった。
大きくはない。だが、確かな音だった。
その夜、境界はいつもより静かだった。
噂は止まらない。
だが、方向が変わった。
「裏切りが出たって?」
「それでも、ここは続いてる」
小さな裏切りは、確かに傷を残した。
だが同時に、境界に“耐える力”を与えた。
私は星のない空を見上げる。
王国は、次の一手を打ってくるだろう。
もっと巧妙に。
もっと強く。
それでも――。
境界は、揺れながら、立っている。
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