第20話 静かなる刃

王都の夜は、境界とは違う意味で静かだった。

 整えられた街路、閉ざされた門、計算された灯り。そこには自然のざわめきも、人の迷いも許されない秩序がある。


 王城の奥、限られた者しか立ち入れない小部屋で、数名の男たちが円卓を囲んでいた。

 使者ルドヴィクも、その一人だった。


「交渉は進んでいない」

 彼は正直に報告した。「境界側は、王国の管理下に入る意思を示していません」


 軍務大臣が、低く鼻を鳴らす。

「想定通りだ。あの女は、素直に首輪をはめられるタイプではない」


 王は、黙って話を聞いていた。

 感情を表に出さないその態度が、この場にいる者たちをより緊張させている。


「……では、第二案だ」

 王が、静かに口を開いた。


 卓上に、新たな書類が置かれる。

 それは軍事計画ではなかった。


「境界内部の分断を促進する」

 王の声は淡々としている。「交渉を“希望”と捉える者と、“拒絶”する者。その対立を煽る」


「具体的には?」

 参謀が問う。


「噂だ」

 王は即答した。「王国は境界を承認する予定だ、代表者は厚遇される、従えば安全が保証される――そうした話を、境界の内部に流す」


 ルドヴィクが、わずかに眉をひそめる。

「……虚偽情報、ですか」


「誇張だ」

 軍務大臣が言い換えるように言った。「完全な嘘ではない。交渉の余地はあるのだからな」


 王は視線を上げ、ルドヴィクを見た。


「君には、もう一度境界へ行ってもらう」


「私が……?」


「そうだ」

 王は静かに続ける。「今回は“正式な使者”ではなく、“善意の伝達者”として」


 ルドヴィクは理解した。

 交渉の場ではなく、非公式な接触。個人への言葉。

 それは、境界の結束を削るための刃だ。


「同時に」

 王は続ける。「境界に向かう者たちを、選別する」


 参謀が頷く。

「逃亡者、元兵士、罪人……彼らに“境界は王国と裏で繋がっている”という噂を流す」


 境界が“裏切った”という印象を植え付ける。

 そうすれば、境界は新たな人材を得られなくなる。


「剣を振るうより、安く済む」

 軍務大臣が、冷たく言った。


 王は何も言わなかった。

 だが、その沈黙は肯定だった。


 一方、境界では、別の異変が起き始めていた。


「聞いたか?」

「王国、交渉次第で保護するらしいぞ」


「代表だけは、城に招かれるって……」


 焚き火の周囲で、そんな囁きが交わされる。

 誰が最初に言い出したのかは分からない。だが、噂は不思議な速さで広がっていた。


 私は、その空気を肌で感じていた。

 視線が、微妙に変わる。

 敬意と共に、測るような目が混じり始める。


「……来たわね」


 セラが、私の隣で低く言った。


「ええ」

 私は答える。「王国の“本気”よ」


 その夜、数人が私のもとを訪れた。


「アリア……」

 言いづらそうに、若い男が口を開く。「王国と、もう話をつけてるって、本当か?」


 私は、即座に否定しなかった。

 否定すれば、噂は“隠している証拠”になる。


「交渉はあった」

 事実だけを言う。「でも、合意はしていない」


 男は安堵したようで、しかし不安も残っている。


「じゃあ……俺たちは、どうなる?」


「それを決めるのは、私一人じゃない」

 私ははっきりと言った。「境界の未来は、皆で決める」


 男は黙って頷き、去っていった。


 だが、全員がそうではない。

 夜の闇の中で、王国の噂を“希望”として語る者。

 逆に、それを理由に怒りを募らせる者。


 分断は、静かに進んでいた。


 焚き火の前で、私は深く息を吐く。


「剣より、厄介ね」

 ぽつりと呟く。


 セラが頷いた。

「心を切る刃は、見えないから」


 私は、拳を握りしめる。

 王国は理解している。

 境界を壊すには、外から叩くより、中から揺らす方がいいと。


 だが――。


「それでも」

 私は炎を見つめ、静かに言った。「私たちは、選べる」


 嘘に流されるか。

 疑いを超えて、話し合うか。


 境界は、まだ未完成だ。

 だからこそ、試されている。


 王国が差し出したのは、剣ではない。

 希望の形をした毒だった。


 その毒を、飲むか、砕くか。

 次に選ぶのは――私たちだ。

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