第19話 揺れる境界

使者が去った翌日、境界の空気はどこか落ち着かなかった。

 表向きはいつも通りだ。見張りは立ち、畑は耕され、焚き火も絶えず燃えている。だが、人々の会話は短く、視線はどこか定まらない。誰もが心の中で、同じ問いを抱えていた。


 ――王国と、どう向き合うのか。


 私は中央の広場で、住人たちの集まりを見渡していた。

 集落が大きくなるにつれ、意見の数も増える。信頼はある。だが、それだけでは一枚岩ではいられない。


「正直に言う」

 最初に声を上げたのは、元商人の男だった。「王国と交渉できるなら、した方がいい。あそこは敵が多すぎる」


 それに即座に反論が飛ぶ。


「何を今さら!」

 元兵士の女性が吐き捨てるように言った。「追放して、殺そうとして、都合が悪くなったら話し合い?信じられるか!」


「感情で決める話じゃないだろ」

 別の男が割って入る。「ここにいる全員が、ずっと戦えるわけじゃない。子供もいるんだ」


 ざわめきが広がる。

 誰も間違っていない。だからこそ、言葉が鋭くなる。


 私は黙って聞いていた。

 指導者として、すぐに答えを出すこともできた。だが、それでは意味がない。この場所は、命令で成り立つ組織ではない。


「……アリアは、どう思ってるんだ?」


 誰かが、私に問いを投げた。

 その瞬間、視線が一斉に集まる。


 私は一歩前に出た。


「私は、王国を信用していない」

 はっきりと告げる。「でも、交渉という“事実”を無視するのも違う」


 静まり返る。


「王国が交渉を持ちかけたのは、私たちを潰せなかったから」

 続ける。「それは、私たちが弱者じゃなくなった証拠よ」


 人々が、ゆっくりと頷く。


「でもね」

 声を少し落とす。「交渉は武器にも、毒にもなる。使い方を間違えれば、内部から崩される」


 その言葉に、何人かが息を呑んだ。

 理解している者も、そうでない者もいる。


 集会が終わった後も、小さな議論は続いた。

 焚き火のそばで、食事をしながら。

 水を汲みながら。

 夜の見張りの交代時にも。


 「王国と繋がれば、楽になるかもしれない」

 「でも、また裏切られたら?」


 その中で、私は一つの視線を感じていた。

 疑念だ。敵意ではない。ただの、不安。


 夜、セラが私のもとに来た。


「……分裂の兆し、出てきてる」

 低い声だった。


「分かってる」

 私は焚き火を見つめたまま答える。


「全員が同じ未来を描けるわけじゃない。でも、それを無理に揃えたら――それこそ王国と同じになる」


 セラは黙って頷いた。


「ただ」

 彼女は続ける。「王国は、そこを突いてくる」


「ええ」

 私は小さく笑った。「分断は、一番安上がりな攻撃だから」


 その夜、見張りの交代を終えた若者が、私に近づいてきた。


「……聞いてもいいか?」

 躊躇いがちに言う。


「なに?」


「もし、境界が王国と戦うことになったら……俺たちは、最後まで戦うのか?」


 私はすぐには答えなかった。

 代わりに、彼の目を見た。


「戦うかどうかを、他人に決めさせない」

 ゆっくりと言葉を選ぶ。「それが、ここを作った理由よ」


 若者は、しばらく考え込み、やがて深く息を吐いた。


「……分かった」


 その背中を見送りながら、私は理解していた。

 境界は、今、成長の痛みの中にある。


 敵が強くなったからではない。

 選択肢が増えたからだ。


 独立を守るのか。

 交渉の席につくのか。

 あるいは、その両方か。


 どの道を選んでも、犠牲はゼロにはならない。


 夜風が、焚き火の炎を揺らす。

 その揺れを見つめながら、私は心の中で決意した。


 ――境界は、割れさせない。

 意見は違っても、互いを否定させない。


 それができなければ、王国に勝つ前に、自分たちが壊れてしまう。


 遠くで、森が鳴った。

 それは警告のようでもあり、試されているようでもあった。


 境界は、今、真に問われている。

 “何と戦うのか”ではなく――

 “何を守るのか”を。

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