第18話 使者来訪

 その日、境界の森は不自然なほど静かだった。

 風は止み、鳥の声も遠い。まるで森そのものが、何かを警戒して息を潜めているかのようだった。


 最初に異変に気づいたのは、東の見張りだった。

 決められた合図――短く、乾いた音が三度。


「……来たわね」


 私は焚き火の前から立ち上がり、外套を羽織る。

 周囲の空気が一斉に引き締まり、住人たちが自然と配置についた。武器は構えるが、構えすぎない。攻撃の意思は見せず、しかし隙も見せない。


 やがて、森の奥から人影が現れた。

 単独ではない。だが、軍勢でもない。


 白地に王国紋章をあしらった外套。

 武装は最低限。剣は腰にあるが、手は添えられていない。


「……使者、ね」


 セラが低く呟く。


 王国は、ついに“話す”ことを選んだ。

 それは敗北ではない。だが、力だけではどうにもならないと認めた証でもある。


 私は一歩、前に出た。

 境界の中央――誰の支配地でもない場所。


 使者も足を止め、ゆっくりと頭を下げた。


「私は王国より派遣された文官、ルドヴィクと申します」

 よく通る声だった。「本日は、剣を交えるためではなく、言葉を交わすために参りました」


 周囲がざわめく。

 追放者、元兵士、流民――誰もが王国の“言葉”を信じていない。


 私は黙って彼を見つめた。

 言葉ではなく、視線で問う。


 ――ここに来た理由は?


「ご存じの通り」

 ルドヴィクは続ける。「境界の存在は、王国にとって無視できぬものとなりました。これ以上の衝突は、双方にとって不利益です」


 遠回しだが、はっきりしている。

 潰せなかった。だから話し合う。


「単刀直入に申し上げます」

 彼は一呼吸置いた。「王国は、境界との交渉を望んでいます」


 一瞬、静寂。

 次の瞬間、抑えきれない怒りと嘲りが混じった声が上がった。


「今さらか!」

「追放しておいて、都合が悪くなったら交渉?」

「ふざけるな!」


 ルドヴィクは動じなかった。

 罵声を受け止める覚悟で来ている。その点だけは、本物だった。


 私は手を上げ、住人たちを制する。


「……交渉内容は?」


 使者の目が、わずかに鋭くなる。

 彼は、私が誰かを正確に理解していた。


「境界を、王国の正式な自治領として認める案です」

 その言葉に、どよめきが走る。


「自治……?」

「つまり、王国の中に戻れってことか?」


「条件付き、です」

 ルドヴィクは即座に補足した。「王国への敵対行為を停止すること。軍事的拡張を行わないこと。そして――」


 彼は、はっきりと私を見た。


「貴女が、境界の代表として王国と直接協議に応じること」


 空気が、凍りついた。


 ――なるほど。

 狙いは、私だ。


 象徴を引きずり出し、管理下に置く。

 それができれば、境界は“制御可能な存在”になる。


 私は微笑んだ。

 怒りでも嘲笑でもない、冷静な微笑み。


「ずいぶん、虫のいい話ね」


 ルドヴィクは一瞬だけ目を伏せた。

 否定はしない。できない。


「王国は、貴女を危険視しています」

 正直な言葉だった。「ですが同時に、貴女を無視できないとも判断しました」


 私は一歩、彼に近づく。

 距離は、あと数歩。だが、それ以上詰めない。


「教えてあげる」

 静かな声で言った。「私たちは、王国に戻る場所を失ったんじゃない。王国を“選ばなかった”の」


 周囲の住人たちが、黙って頷く。


「交渉を拒否するわけじゃないわ」

 私は続ける。「でも、条件は対等。管理される自治なんて、受け入れない」


 ルドヴィクの表情が、わずかに硬くなる。


「……では、貴女の条件は?」


 私は即答した。


「境界の完全な独立。王国軍の不干渉。住人への追及・処罰の永久放棄」

 一つ一つ、はっきりと告げる。「それが交渉の席につく最低条件よ」


 沈黙。

 使者は、しばらく言葉を失っていた。


 やがて、ゆっくりと息を吐く。


「……その条件は、王国にとって極めて重い」


「分かってる」

 私は視線を逸らさない。「でも、それだけの存在になったってことでしょう?」


 ルドヴィクは、小さく苦笑した。


「確かに……」

 そして、深く頭を下げた。「本日のところは、条件を持ち帰ります」


 彼は背を向け、森へと戻っていく。

 その背中は、来た時よりも重く見えた。


 使者が完全に見えなくなると、境界にざわめきが戻る。


「交渉なんて、信じていいのか?」

「罠じゃないのか?」


 私は焚き火の前に戻り、皆を見渡した。


「信じる必要はないわ」

 はっきりと告げる。「ただ、選択肢が生まれた。それだけ」


 王国は剣を引き、言葉を差し出した。

 それは平和への一歩かもしれない。

 同時に、最も危険な一手でもある。


 私は理解していた。

 ここからが、本当の戦いだ。


 剣ではなく、立場と意思の戦い。

 境界が、世界にどう在るのかを問われる戦い。


 焚き火の炎が、静かに揺れる。

 私はその火を見つめながら、心の中で確信していた。


 ――もう、誰にも決めさせない。

 この場所の未来は、私たちが選ぶ。

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