第16話 崩れぬ境界
森が、怒っているように感じられた。
風は強く、木々は軋み、地面を覆う落ち葉が不規則に舞い上がる。その自然のざわめきに紛れるように、王国軍の動きがあった。前回の撤退は様子見ではなかった。今回こそが、本当の攻勢だった。
境界の見張り台から、煙が上がるのが見えた。
焚き火の煙ではない。整然とした陣形、複数方向からの接近――明らかに包囲を意識した動きだ。
「来たわね……」
私の言葉に、周囲の空気が張り詰める。
今回の王国軍は違っていた。
数だけではない。動きに迷いがなく、森の中での戦いを前提にした編成だ。軽装の歩兵、斥候、弓兵、そして後方に控える重装兵。前回の失敗を踏まえ、境界を“敵勢力”として認識している。
「境界はもう、見逃される存在じゃない」
セラが静かに言った。
私は頷き、住人たちに視線を向ける。
かつて追放者だった者、行き場を失った者、王国に裏切られた者――彼らの表情には恐怖よりも、覚悟が宿っていた。
「これより、全面防衛に移る」
声は自然と低くなる。「撤退路は確保する。でも、境界の中心は絶対に渡さない」
誰一人、反論しなかった。
それが、私たちが築いてきた信頼の証だった。
戦いは、ほぼ同時に三方向で始まった。
森の東で弓の応酬。南では斥候同士の小競り合い。西では王国軍が罠を突破しようと動き出す。
境界側は即座に分散し、連携する。
合図は最低限、声を出さず、合図と動きで意思を伝える。訓練ではなく、実戦の中で身についた連携だった。
王国軍は強かった。
統率が取れており、個々の兵の練度も高い。だが――森は、彼らの味方ではなかった。
「左、来る!」
短い声と同時に、倒木が転がり、進路を塞ぐ。
その瞬間を逃さず、境界の弓兵が牽制射撃を放つ。致命傷を狙わない。進ませないための矢だ。
「……上手い」
王国側の指揮官が呟いたのが、かすかに聞こえた。
私は中央の高台から戦況を見下ろしていた。
感情を切り離し、全体を見る。誰が動けていて、どこが危険か。どこに余力があり、どこが限界か。
この位置に立つことを、かつての私は恐れていた。
人の命を預かる重さ。判断一つで、誰かが傷つく現実。
けれど今は、迷わない。
守ると決めたからだ。
「中央部隊、後退。罠区域へ誘導して」
私の指示で、境界側が一斉に動く。
王国軍は勢いに乗って追撃するが、それこそが狙いだった。
踏み込んだ瞬間、地面が崩れ、動きが止まる。致命的ではないが、混乱が生じる。
その隙に、境界の兵が距離を取る。
「……これは、ただの寄せ集めじゃない」
王国の指揮官が、はっきりと警戒を口にした。
戦いは数時間に及んだ。
激しい衝突もあった。負傷者も出た。それでも、境界は崩れなかった。
夕刻、王国軍は進軍を止め、後退を選択した。
全面撤退ではないが、これ以上の進行は不可能と判断したのだ。
森に、静けさが戻る。
その静寂の中で、私はゆっくりと息を吐いた。
住人たちが集まり、互いの無事を確かめ合う。
疲労は濃いが、恐怖はない。代わりにあるのは、確かな手応えだった。
「……私たち、王国を止めたのよね」
誰かが、信じられないように呟く。
「ええ」
私ははっきりと答えた。「今日、境界は“守られる場所”じゃなく、“抗う勢力”になった」
それは、もはや後戻りできないことを意味している。
王国は次、必ず政治的にも軍事的にも、より大きな手を打ってくる。
それでも――。
焚き火の前に立ち、皆の顔を見る。
そこに後悔の色はなかった。
「これが、私たちの選んだ道よ」
静かに、しかし確かに告げる。「誰かに与えられる居場所じゃない。自分たちで、守り、築く場所」
炎が揺れ、夜が深まる。
境界は、まだ小さい。だが確実に、世界に存在を刻み始めていた。
王国がどう動こうと関係ない。
ここは、もう消せる場所ではないのだから。
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