第2話 料理長の過去

第二章


 クロウィスが宮廷料理人としてこの王城に招かれる前のことだ。

 王都の南側、高級住宅街の近くに店を構える『黄金の鹿亭』は、貴族や富裕な商人たちが足繁く通う名店だった。石造りの重厚な建物は、外壁に這う蔦が季節ごとに色を変え、通りを行き交う人々の目を楽しませる。店内に入れば、磨き上げられた大理石の床が靴音を心地よく響かせ、天井から吊り下げられたシャンデリアが柔らかな光を落としていた。白いテーブルクロスの上には銀の燭台。どの席からも見える大きな暖炉では、冬になれば薪がぱちぱちと爆ぜる音を立てて燃えている。

 その厨房で、当時二十四歳だったクロウィスは、肉を捌いていた。

 まな板の上で包丁が踊る。柔らかな鶏肉の繊維を見極め、刃を滑らせる。一切の無駄がない。筋を取り除き、余分な脂を削ぎ、美しい形に整えていく。クロウィスの手は大きく、指は太い。料理人らしからぬ無骨な手だと、よく言われた。だが、その手が生み出す仕事は驚くほど繊細だった。

「クロウィス、次はどこだ」

 隣で野菜を刻んでいた先輩料理人のダニエルが声をかける。がっしりした体格の男で、髭を蓄えた顔には いつも笑みが浮かんでいた。

「ソースです。バターを溶かしておいてください」

「了解」

 厨房には香辛料の香りが漂っている。ローズマリー、タイム、セージ。鍋からは肉を煮込む芳醇な匂いが立ち上り、オーブンからは焼きたてのパンの甘い香りが漂ってくる。クロウィスは鼻腔をくすぐるそれらの香りを確認しながら、次の作業に移った。

 調味料棚から瓶を取り出す。その瞬間、彼の目が棚の隅に留まった。

 ほんの僅かな、埃の堆積。

 クロウィスの表情が変わる。包丁を置き、すぐさま厨房の隅に置いてある掃除用具入れへと向かった。そこから布巾と洗剤を取り出し、棚へと戻る。丁寧に、しかし素早く、棚の隅々まで拭き上げていく。布巾が棚の表面を滑る音。洗剤の清涼な香り。一度拭いて、もう一度拭く。完璧に汚れを除去するまで、彼の手は止まらない。

「また始まったな」

 ダニエルが苦笑する。

「ああ、クロウィスの日課だ」

 もう一人の料理人、若いフェリックスが包丁を研ぎながら答えた。細身で背の高い青年だ。クロウィスより二歳年下だが、この店での勤務歴は彼より長い。

「お前が来てから、この厨房、本当にきれいなんだよな」

 ダニエルがフライパンでバターを溶かしながら言った。

「そうそう。ゴキブリもネズミも一匹もいなくなった」

 フェリックスが相槌を打つ。

「歩くゴキブリホイホイだな」

「それじゃ集まっちまうだろうが!」

 ダニエルがフェリックスの頭を軽く叩く。フェリックスは大袈裟に痛がって見せた。

「違いねぇ」

 二人の掛け合いに、クロウィスは苦笑した。棚を拭き終え、布巾を洗いに流し台へ向かう。熱湯で布巾を濯ぎ、固く絞る。それから消毒液に浸し、専用の場所に吊るす。一連の動作に迷いがない。

「でも本当に助かってるんだ」

 ダニエルが真面目な顔になった。

「以前はな、定期的に業者を呼んで害虫駆除をしてもらってたんだが、お前が来てからそれが要らなくなった。料理長も喜んでるぞ」

「そうですか」

 クロウィスは短く答え、再び肉の前に戻った。包丁を手に取り、リズミカルに刃を入れていく。切り分けた肉は均一な厚さだ。火の通りを計算した、完璧な厚さ。

 彼の手際を見ていたフェリックスが、感心したように息を吐いた。

「相変わらず早いな。俺なんかまだまだだ」

「慣れですよ」

「いや、慣れだけじゃないって。その段取りの良さ、どうやって身につけたんだ?」

 クロウィスは一瞬、手を止めた。遠い記憶が脳裏をよぎる。だが、すぐに首を振ってそれを追い払った。

「必要だったんです。時間を無駄にできなかった」

 それ以上は語らない。フェリックスも、それ以上は聞かなかった。厨房には再び、包丁の音、鍋の煮える音、皿の触れ合う音だけが響いた。


    *


 仕事を終えたクロウィスは、王都の西側にある自分のアパルトマンへと帰った。

 三階建ての建物の二階、角部屋。家賃は決して安くはないが、窓が二つあり、風通しが良い。それが何より重要だった。

 玄関の扉を開ける前に、クロウィスは一度大きく息を吸った。外の空気を胸いっぱいに吸い込み、それからゆっくりと吐き出す。扉の取っ手を握る。金属の冷たさが手のひらに伝わる。

 中に入ると、すぐに上着を脱いだ。玄関脇に設けた着替え用の棚に、外で着ていた服を置く。そこから部屋着を取り出し、素早く着替える。靴も外用と部屋用で完全に分けていた。外の埃や汚れを、この部屋には一切持ち込まない。

 着替えを終えると、まっすぐ浴室へ向かった。

 湯を張った浴槽に身を沈める。熱い湯が疲れた筋肉を解きほぐしていく。クロウィスは目を閉じ、一日の汚れが流れ落ちていくのを感じた。石鹸で体を洗う。二度洗う。髪も丁寧に洗う。すべてを清潔にする。それが彼の日課だった。

 浴室を出ると、部屋はすでに夕暮れの光に染まっていた。

 クロウィスの部屋は、驚くほど整然としていた。

 どこを見ても埃一つない。床は磨き上げられ、鏡のように光を反射する。窓ガラスは透明で、一点の曇りもない。家具は最小限だ。ベッド、テーブル、椅子、棚。それだけ。装飾品は何もない。壁には何も掛けられていない。すべてが機能的で、すべてが清潔だった。

 部屋のあちこちに、計算されたように布巾と洗剤が配置されていた。

 窓際に一つ。テーブルの下に一つ。ベッドの脇に一つ。どこにいても、すぐに手が届く。汚れを見つけたら、即座に対処できる。それがクロウィスの世界だった。

 簡単な夕食を作る。

 野菜を刻む。人参、玉ねぎ、セロリ。クロウィスの包丁さばきは自宅でも変わらない。正確で、速い。野菜の皮は薄く剥かれ、芯まで無駄なく使われる。生ゴミは最小限だ。

 これもまた、クロウィスの技術だった。

 ゴキブリやネズミの餌となる野菜クズを、極力出さない。皮は出汁に使う。芯は刻んで料理に混ぜ込む。余った部分は小さく切って即座に処理する。大きな生ゴミは作らない。匂いを出さない。害虫を寄せ付けない。

 鍋で野菜を煮る。シンプルなスープだ。塩と胡椒で味を調え、少量のハーブを加える。香りが立ち上る。クロウィスは深く息を吸った。清潔な部屋で作る料理は、格別に美味い。

 食事を終えると、すぐに後片付けだ。

 皿を洗う。まず水で流し、次に洗剤で洗い、最後に熱湯ですすぐ。完璧に油分を落とす。布巾で拭き上げ、棚に戻す。鍋も同じように洗う。流し台も磨く。どこにも水滴を残さない。排水口も確認する。ゴミ受けを外し、中を洗う。髪の毛一本、食べかす一つ残さない。

 すべてを終えると、クロウィスはようやくテーブルに座った。

 ろうそくに火を灯す。小さな炎が揺れる。その光を見つめながら、彼は深く息を吐いた。

 この静寂が好きだった。

 誰もいない、清潔な部屋。余計なものが何もない空間。ただ自分だけがいる世界。ここでは、何も彼を脅かさない。

 だが、その静寂の中で、時折、古い記憶が蘇る。

 クロウィスは目を閉じた。


    *


 孤児院の記憶は、いつも夜の闇と共にやってくる。

 あの頃、クロウィスはまだ七歳だった。

 王都の北側、貧民街に近い場所にあった聖エルミナ孤児院。二階建ての古い建物で、壁には亀裂が走り、窓枠は歪んでいた。だが、そこで暮らす子供たちにとって、それは唯一の家だった。

 クロウィスが最も嫌だったのは、夜だった。

 大部屋に並べられた簡素なベッド。薄い毛布。暗闇の中、どこからともなく聞こえてくる、あの音。

 カサカサ。

 カサカサ。

 壁を這う音。床を走る音。

 ゴキブリだ。

 数え切れないほどのゴキブリが、夜になると這い出してくる。壁を這い、天井を這い、床を這う。時には、ベッドの上まで這い上がってくる。

 幼いクロウィスは、毛布を頭まで被って震えていた。

 触覚が肌に触れる感覚。硬い殻が服の上を這う感触。それを思い出すだけで、全身に鳥肌が立つ。息が苦しくなる。吐き気がこみ上げる。

 そして、ネズミだ。

 キィキィという鳴き声が、壁の中から聞こえてくる。時には、床の隙間から灰色の体が姿を現す。黒い目がこちらを見る。長い尻尾が床を叩く。

 クロウィスは目を逸らした。見たくなかった。でも、耳を塞いでも音は聞こえてくる。

 食事の時間はもっと辛かった。

 質素な食事が並ぶテーブル。硬いパン、薄いスープ、時々出る煮込み料理。それ自体は悪くない。シスター・マリアが一生懸命作ってくれているのは分かっていた。

 だが、厨房を見てしまった。

 配膳を手伝いに行った時、厨房の床を走るネズミを見た。食材が置いてある棚に、ゴキブリがいるのを見た。鍋の縁に、小さな黒い点々を見た。

 それから、クロウィスは食事に手をつけられなくなった。

 喉を通らない。口に入れた瞬間、吐き気がする。あのゴキブリが這った床。あのネズミが走った棚。そこにあった食材で作られた料理。

 考えただけで、胃が痙攣した。

 体重が落ちた。頬がこけた。シスター・マリアが心配そうに見つめていたのを覚えている。

「クロウィス、食べなさい。大きくなれないわよ」

 優しい声。でも、クロウィスは首を横に振るしかなかった。

 ある日の朝、クロウィスは決心した。

「シスター!」

 掃除をしていたシスター・マリアに駆け寄る。彼女は四十代半ばの、ふくよかな女性だった。いつも笑顔で、子供たちに優しかった。

「どうしたの、クロウィス」

「おれ、掃除するよ!」

 シスター・マリアは驚いたように目を丸くした。

「掃除? あなたが?」

「うん! この孤児院、全部きれいにする!」

 幼い顔に、強い決意が浮かんでいた。シスター・マリアは少し考えてから、優しく微笑んだ。

「そう。じゃあ、お願いしようかしら」

 それから、クロウィスの戦いが始まった。

 まず、大部屋から始めた。

 ベッドを全部動かす。当時のクロウィスはまだ小さかったが、体格は良かった。力も人並み以上にあった。一つずつ、ベッドを引きずって動かしていく。

 床が露わになる。

 そこには、埃、ゴミ、そして無数のゴキブリの死骸と糞があった。

 クロウィスは唇を噛んだ。吐き気を堪える。でも、やらなければならない。

 箒を手に取った。掃き始める。埃が舞い上がり、鼻腔を刺激した。咳き込みながらも、手を止めない。隅々まで掃く。床板の隙間に詰まったゴミも、細い棒で掻き出す。

 次に、雑巾で拭く。

 バケツに水を汲み、床を拭いていく。最初の雑巾はすぐに真っ黒になった。水を替える。また拭く。また黒くなる。また水を替える。

 何度水を替えただろう。

 何時間かけただろう。

 やがて、床は本来の色を取り戻し始めた。木の板が、薄く光を反射する。

「まあ……」

 様子を見に来たシスター・マリアが、驚きの声を上げた。

「クロウィス、あなた、こんなに……」

「まだ終わってないよ」

 クロウィスは汗を拭いながら答えた。顔は真っ赤で、服は汗でびっしょりだった。でも、目は輝いていた。

 壁も拭いた。窓も拭いた。天井の蜘蛛の巣も取り除いた。ベッドの脚も一本一本磨いた。

 一週間かけて、大部屋は見違えるほどきれいになった。

 次は食堂だ。廊下だ。階段だ。

 クロウィスは休むことなく掃除を続けた。他の子供たちも手伝ってくれた。みんなで協力して、孤児院中を磨き上げていく。

 神父のヨハネスが、唖然とした表情で佇んでいた。

「これは……信じられん」

 年老いた神父は、眼鏡の奥の目を見開いていた。

「子供たちが、ここまで……」

「クロウィスがやったんです」

 シスター・マリアが誇らしげに言った。

「あの子、すごいんですよ。掃除の才能があるんです」

 だが、クロウィスは満足していなかった。

 確かにきれいにはなった。でも、まだいる。

 夜になると、やはりあの音が聞こえる。

 カサカサ。

 キィキィ。

 ゴキブリとネズミは、まだそこにいた。

 クロウィスは考えた。どこから来るのか。なぜ減らないのか。

 彼は孤児院中を調べ始めた。

 窓の隙間。壁の穴。床板の隙間。排水口。排気口。

 すべてを確認し、すべてを塞いだ。

 神父に頼んで、木材と釘をもらった。窓の隙間に詰め物をした。壁の穴は板で塞いだ。小さな穴には、粘土を詰めた。

 排水口には金網を張った。排気口も同じだ。隙間という隙間を、すべて塞いでいく。

 そして、粘着テープだ。

 商人から余りものをもらってきて、孤児院のあちこちに仕掛けた。ゴキブリの通り道。ネズミの通り道。すべてに罠を張る。

 毎朝、クロウィスはそれらを確認した。

 粘着テープには、無数のゴキブリとネズミがかかっていた。

 黒光りする体。必死にもがく足。キィキィと鳴くネズミ。

 クロウィスは唇を噛んだ。気持ち悪い。触りたくない。でも、これをやらなければならない。

 ゴミ袋を持ってきて、一つ一つ剥がしていく。袋の中に放り込む。ずっしりと重くなる袋。中で動く何か。

 他の子供たちは、それを見て顔を背けた。

「クロウィス、よくそんなことできるな……」

「おれ、無理……」

 でも、クロウィスは止めなかった。

 毎日、毎日、死骸を集める。袋いっぱいになった死骸を、孤児院の外に運び出す。それを繰り返す。

 一ヶ月が過ぎた。

 ゴキブリの数が減った。ネズミも減った。でも、まだいる。

 クロウィスは考えた。なぜだ。なぜまだいる。

 ある日、彼は気づいた。

 生ゴミだ。

 孤児院の厨房から出る生ゴミ。野菜の皮、肉の切れ端、骨。それらが、害虫と害獣を呼んでいる。

 クロウィスは厨房に向かった。

 シスター・マリアが野菜を切っている。人参の皮を厚く剥いている。玉ねぎの外側を何枚も捨てている。キャベツの芯を丸ごと捨てている。

 大量の生ゴミが、桶に溜まっていた。

「シスター」

「どうしたの、クロウィス」

「それ、全部使えるよ」

「え?」

 シスター・マリアが不思議そうに首を傾げた。

「この皮? でも、硬いでしょう」

「煮れば柔らかくなる。それに、栄養もある」

 クロウィスは桶を覗き込んだ。確かに、通常なら捨てる部分だ。でも、工夫すれば使える。

「芯も刻めば食べられる。骨は出汁になる。全部、料理に使えるよ」

「でも、私、そんな料理知らないわ」

「おれが教える」

 クロウィスの目が輝いた。

 それから、彼は厨房に入り浸るようになった。

 シスター・マリアに教えを請い、料理の基礎を学んだ。そして、自分で工夫を始めた。

 人参の皮は細切りにして、炒める。玉ねぎの外側は刻んでスープに入れる。キャベツの芯は薄切りにして煮込む。骨は長時間煮出して、濃厚なスープを作る。

 野菜は丸ごと使う。肉も骨まで使う。魚も頭から尻尾まで使う。

 生ゴミが激減した。

 そして、食事の量が増えた。

 同じ食材から、より多くの料理が作れるようになった。子供たちの皿に盛られる量が増えた。みんなが喜んだ。

 

 ある日、孤児院に東方の行商人が訪れた。

 リン・チャオという名の、痩せた老人だった。白い長い髭を蓄え、深い皺の刻まれた顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。背中には大きな荷物を背負い、杖をついて歩いていた。

 神父のヨハネスが客人として迎え入れ、食事を振る舞うことになった。

 厨房でシスター・マリアと共に準備をしていたクロウィスは、配膳のために食堂へ向かった。そこで、リンと目が合った。

「おや、君が作ったのかい?」

 老人の目が、興味深そうに細められた。

「いえ、手伝っただけです」

 クロウィスは謙遜して答えた。

 リンは一口スープを飲み、野菜の炒め物を口に運んだ。そして、ゆっくりと頷いた。

「素晴らしい。無駄がない」

「え?」

「この料理、野菜を丸ごと使っているね。皮も、芯も。そして、それぞれの部位が持つ味を最大限に引き出している」

 老人の言葉に、クロウィスは驚いた。確かに、その通りだった。

「君は、一物全体という考えを知っているかい?」

「いちぶつぜんたい?」

 クロウィスは首を傾げた。聞いたことのない言葉だ。

「我が故郷、遥か東方の国に伝わる食の哲学だよ」

 リンは箸を置き、穏やかな声で語り始めた。

「すべての食材は、その全体で一つの完全な命だ。根があり、茎があり、葉がある。皮があり、実がある。それらすべてが調和して、その食材の本当の力となる。だから、できる限り丸ごと食べる。それが、体にとっても最も良い」

 クロウィスは聞き入っていた。

「皮には皮の栄養がある。芯には芯の力がある。捨てる部分と思われているところにこそ、大切なものが詰まっていることが多いんだ」

「だから、全部使うんですか」

「そうだ。そして、それは生ゴミを減らすことにも繋がる。食材を無駄にしない。命を無駄にしない。それは、調理する者の務めでもあるのだよ」

 老人の言葉は、クロウィスの心に深く染み込んだ。

 自分がやっていたことは、単に生ゴミを減らすための工夫だと思っていた。だが、それは同時に、食材の命を全うすることでもあったのだ。

「東方には、こうした考えに基づいた料理法がたくさんある」

 リンは続けた。

「穀物を丸ごと食べる。野菜も皮ごと、根ごと調理する。調味料も自然なものを使う。身土不二といってね、自分が住む土地で採れたものを食べるのが一番良いという教えもある」

「しんどふじ……」

「ああ。体と土地は一つ。その土地の気候、風土に合った食材が、その土地に住む人々の体に最も適している、ということだ」

 クロウィスの目が輝いた。

「もっと教えてください」

 それから、リンが孤児院に滞在した三日間、クロウィスは老人に付きっきりだった。

 東方の料理法。食材の選び方。切り方。火の通し方。調味料の使い方。そして、何より、食べ物と体の関係についての深い知恵。

 リンは、ある食材が体を温め、ある食材が体を冷やすことを教えてくれた。季節に応じた食材の選び方。陰と陽のバランス。すべてが、クロウィスにとって新鮮な驚きだった。

「料理とは、ただ美味しいものを作ることではない」

 別れの日、リンはクロウィスの頭に手を置いた。

「食べる人の健康を守り、命を養うことだ。君にはその才能がある。大切に育てなさい」

「はい」

 クロウィスは深く頷いた。

 リンは去って行ったが、その教えはクロウィスの中に残った。

 それから、彼はさらに工夫を重ねた。東方の知恵と、自分の経験を組み合わせて、新しい料理法を編み出していく。

 

 シスター・マリアは、クロウィスの手際に舌を巻いた。

「あなた、才能があるわ」

「そうかな」

「ええ。私より上手よ」

 クロウィスは少し照れくさそうに笑った。

 だが、彼の目的は料理の腕を上げることではなかった。生ゴミを減らすこと。それだけだった。

 それでも、料理は楽しかった。

 食材を無駄なく使う工夫。限られた材料で最大限の料理を作る技術。それらを学ぶのは、掃除と同じくらい面白かった。

 そして何より、きれいな厨房で料理を作るのは気持ちが良かった。

 クロウィスが徹底的に磨き上げた厨房。ゴキブリもネズミもいない、清潔な空間。そこで作る料理は、心から美味いと思えた。

 ある日、クロウィスはシスター・マリアに言った。

「おれ、料理人になるよ」

 シスター・マリアは優しく微笑んだ。

「そう。きっと、素晴らしい料理人になるわ」

「うん。きれいな厨房で、おいしい料理を作るんだ」

 幼いクロウィスの顔には、強い決意が浮かんでいた。


    *


 記憶から戻ったクロウィスは、深くため息をついた。

 あれから十七年。

 彼は孤児院を出て、いくつかの料理店で修行を積んだ。そして今、王都でも有数の高級料理店で働いている。

 料理の腕も上がった。掃除の技術も磨かれた。

 だが、ゴキブリとネズミへの嫌悪感は、まったく消えていない。

 むしろ、年を重ねるごとに強くなっている気さえした。

 クロウィスはろうそくの火を吹き消し、ベッドに横になった。明日も早い。体を休めなければならない。

 目を閉じると、すぐに眠りに落ちた。


    *


 それから数日後のことだった。

 クロウィスが厨房で肉を焼いていると、料理長のギヨームが声をかけてきた。

「おい、お前、ちょっと来い」

 五十代半ばの料理長は、恰幅の良い体と立派な口髭が特徴だった。厳しいが公平な人物で、クロウィスも彼を尊敬していた。

「はい」

 クロウィスは火を弱めて、料理長についていった。

 向かったのは、バックヤードの食料庫だ。

 石造りの涼しい部屋に、食材が整然と並んでいる。肉、魚、野菜、果物。どれも新鮮で、良い匂いがした。

 ギヨームは扉を閉めると、クロウィスに向き直った。

「お前にスカウトが来ている」

「スカウト、ですか」

 クロウィスは首を傾げた。確かに、何度か他の店から誘いを受けたことはある。だが、この店の待遇に不満はなかった。

「どちらの店ですか」

「店じゃない」

 ギヨームは腕を組んだ。

「宮廷だ」

「宮廷?」

 クロウィスの目が見開かれた。

「ヴェルデマール王国の、王城の厨房だ」

 しばらく、沈黙が流れた。

 宮廷。王城。それは、料理人にとって最高の栄誉だった。王族や貴族たちに料理を提供する。料理人としての頂点。

「それは……光栄なことですが」

 クロウィスは言葉を選んだ。

「俺は、まだそこまでの腕では」

「いや、お前の料理の腕を買ってのことじゃない」

 ギヨームは首を横に振った。

「掃除だ」

「は?」

 クロウィスは聞き返した。今、何と言った?

「掃除の腕だ」

 ギヨームは真面目な顔で繰り返した。

「宮廷の厨房では、最近、突然ネズミとゴキブリが増えて困ってるらしい」

 クロウィスの表情が変わった。

「どれくらい?」

「相当らしい。前の料理長が、それに耐えきれず辞めた」

「辞めた?」

「ああ。で、後任を探してるんだが、誰もなり手がいない。厨房がひどい有様だと聞いてな」

 ギヨームは肩をすくめた。

「それで、掃除に定評のある料理人を探してたらしい。で、お前の名前が挙がった」

 クロウィスは黙って聞いていた。

 宮廷の厨房。ネズミとゴキブリ。

 彼の中で、何かが燃え上がるのを感じた。

「料理長として、だそうだ」

「え?」

「料理長だ。いきなり」

「それは……おかしいでしょう」

 クロウィスは首を振った。

「料理の腕も、俺は大して」

「だから、掃除だっつってんだろ」

 ギヨームは少し苛立ったように言った。

「宮廷が欲しいのは、お前の掃除の技術だ。料理はその次だ」

 クロウィスは言葉を失った。

 料理人として、それは屈辱的とも言える評価だった。だが、同時に、彼の本質を見抜いている評価でもあった。

「俺は、別に妬んでないぞ」

 ギヨームが付け加えた。

「もし料理の腕で選ばれたんなら、とことん妬んでたかもしれん。だが、掃除だ。俺には真似できん技術だ。素直に認めるさ」

 クロウィスは料理長の顔を見た。その目には、確かに妬みはなかった。むしろ、誇らしげな光さえ浮かんでいた。

「それから、な」

 ギヨームは声を低めた。

「どうやら、王女直々のスカウトらしい」

「王女?」

「ああ。第一王女、ペトラ・リヴィエール殿下だ」

 クロウィスの心臓が、大きく跳ねた。

 ペトラ王女。

 その名前を知らない者はいない。若くして食料問題に取り組み、農業改革を推進した姫君。飢饉を防ぎ、民を救った英雄。

 クロウィスは、彼女を尊敬していた。

 孤児院時代、食べるものがなくて苦しんでいた頃。ペトラ王女の政策によって、食料の流通が改善された。孤児院にも、以前より多くの食材が届くようになった。

 あの人のおかげで、みんなが救われた。

 クロウィスの胸に、熱いものが込み上げてきた。

「……わかりました」

 彼は静かに言った。

「受けます」

 ギヨームは満足そうに頷いた。

「そうか。なら、話は早い」

 料理長は懐から一通の手紙を取り出した。

「これが正式な招聘状だ。一週間後に王城に来い。詳細はここに書いてある」

 クロウィスは手紙を受け取った。封蝋には、王家の紋章が押されている。

 重い。

 手紙の重さではない。その意味の重さだ。

「頑張れよ」

 ギヨームが肩を叩いた。

「お前なら、あの厨房をきれいにできる」

「はい」

 クロウィスは深く頷いた。

「必ず、きれいにします」

 その日の夜、クロウィスは自室で手紙を読んだ。

 流麗な筆跡で書かれた文面。王女の署名。そして、最後に添えられた一文。

 『清潔な厨房から生まれる料理こそ、民の健康と幸福の礎です。どうか、あなたの力を貸してください』

 クロウィスは手紙を胸に当てた。

 ああ、そうだ。

 これは、自分が生涯をかけてやるべき仕事だ。

 清潔な厨房を作る。ゴキブリとネズミを駆逐する。そして、安全で美味しい料理を提供する。

 それが、自分の使命だ。

 クロウィスは立ち上がった。

 窓の外には、夜空に浮かぶ王城が見えた。無数の窓に灯りが灯り、まるで星のように輝いている。

 あそこに行くのだ。

 あの巨大な城の厨房を、きれいにするのだ。

 クロウィスの目に、強い決意の光が宿った。

 一週間後、彼は王城への道を歩き始める。

 新しい戦いの場へ。

 新しい挑戦の場へ。

 そして、運命の出会いが待つ場所へ――。


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