潔癖料理長とネクロマンサーの仁義なき戦い
@kossori_013
第1話 潔癖料理長と不潔なる敵
第一章 潔癖料理長と不潔なる敵
朝の光が石畳に反射して、王都の喧騒が城門の向こうから聞こえてくる。ヴェルデマール王国は今日も賑やかだ。八百年の歴史を誇るこの国は、大陸の中央に位置する交易の要衝として栄えてきた。城壁に囲まれた王都には各国の商人が行き交い、市場には見たこともない食材が並ぶ。香辛料の香り、焼きたてのパンの匂い、魚を売る声、果物を積んだ荷車の軋む音。すべてが混ざり合って、この街独特の空気を作り出していた。
「おい、聞いたか。また南の部族が動き出したって話だ」
「やめとけ。そんな物騒な話、城の近くでするもんじゃねえ」
門番の会話が風に乗って消える。王城は巨大で、いかめしい。何度も増築を繰り返した結果、迷路のような複雑な構造になっているが、それでもなお威厳を保っている。灰色の石造りの壁は苔一つ生えておらず、尖塔の先端には王家の紋章が翻る。朝日を浴びた城は、まるで巨人のようだった。
その城の奥深く、地下にほど近い場所に、宮廷の厨房はある。
扉を開けた瞬間、目に飛び込んでくるのは眩いばかりの清潔さだ。床は磨き上げられて鏡のように光を反射し、壁のタイルには一点の汚れもない。銅製の鍋は太陽のように輝き、包丁は刃こぼれ一つなく整然と並んでいる。調理台の大理石は純白で、触れれば冷たく滑らかな感触が指先に伝わるだろう。空気は乾いていて、かすかにハーブの香りが漂っている。ローズマリー、タイム、バジル。どれも新鮮で、生命力に満ちた香りだった。
厨房の中央に立つ男がいる。クロウィス・アルジャントだ。
一メートル八十五センチの長身に、赤い髪が朝日を受けて燃えるように輝いている。無骨な顔立ちだが、整っている。角張った顎、高い鼻梁、意志の強そうな眉。だが今、その表情は穏やかで、弟子たちに何かを説明しているようだった。白い料理服は糊がきいていて、袖口まで完璧に折り返されている。手は大きいが、指は驚くほど繊細で、今まさに飴細工を作り出そうとしていた。
「いいか、火加減はこうだ」
クロウィスの声は低く、落ち着いている。銅鍋の中で琥珀色の飴が静かに溶けていく。甘い香りが立ち上り、弟子たちは息を呑んで見守った。彼の手が動く。まるで魔法のように、飴が形を変えていく。花びらが一枚、また一枚。薔薇の花が生まれる瞬間だった。透明な飴の中に、赤い色が滲んでいく。
「すげえ……」
若い弟子の一人が呟いた。クロウィスは薔薇を皿に置くと、弟子を見た。
「おまえもできるようになる」
その言葉に嘘はない。クロウィスの瞳は真剣で、温かかった。
「本当ですか? 俺、不器用で……」
「俺も最初からこうじゃなかった」
クロウィスは自分の手を見る。傷だらけの手だ。火傷の痕、包丁の痕、無数の失敗の記録がそこにある。
「おまえも俺みたいになれる。いや、俺なんかすぐに超えるさ」
弟子の目に光が宿った。クロウィスは彼の肩を叩く。ぽん、という乾いた音が厨房に響いた。
厨房は活気に満ちている。二十人近い料理人たちが、それぞれの持ち場で動いている。野菜を刻む音、肉を焼く音、スープの沸く音。リズムがある。まるで楽団の演奏のようだった。クロウィスはその指揮者だ。
「第一王女殿下のご朝食、準備はどうだ」
「間もなくです、料理長」
若い料理人が答える。彼の手元には、美しく盛り付けられた皿が並んでいた。焼きたてのクロワッサン、湯気の立つスープ、色とりどりのフルーツ。どれも完璧だ。
やがて、給仕係が料理を運んでいく。厨房に束の間の静寂が訪れた。
そして、一時間後。
「クロウィス、素晴らしいわ」
厨房に姿を見せたのは、第一王女ペトラ・リヴィエールだった。二十二歳の若き王女は、栗色の巻き毛が肩に流れ、琥珀色の瞳が朝日を受けて輝いている。豊満な体つきで、深緑のドレスが彼女の曲線を際立たせていた。美貌を誇る王女として知られ、多くの貴族が彼女に求婚している。侍女を連れているが、気取ったところがない。
「あなたを料理長にしてから、毎日が最高ですわ。今朝のスープは格別だった。あの繊細な香り、どうやって出すの?」
「ハーブの配合です。タイミングも重要ですが」
クロウィスは簡潔に答える。ペトラは満足そうに微笑んだ。
「また新しいメニューを期待しているわ。でも、無理はしないでね」
王女が去った後、弟子たちは安堵の息をついた。クロウィスは額の汗を拭う。白いハンカチが汗を吸い取っていく。
「さて、昼食の準備だ」
クロウィスが言った瞬間だった。
カサリ。
小さな音。だが、クロウィスの耳は逃さなかった。
彼の表情が一変する。温和だった顔が、一瞬で凍りついた。目が細まり、眉間に深い皺が刻まれる。顎の筋肉が緊張し、歯を食いしばっているのがわかる。
「……どこだ」
声が低い。恐ろしいほど低い。弟子たちが息を呑む。
カサリ、カサリ。
音が近づいてくる。調理台の下だ。クロウィスが一歩踏み出す。その足音だけで、厨房の空気が変わった。重い。圧迫感がある。まるで嵐の前触れのようだった。
そして、それは姿を現した。
ゴキブリだ。
黒光りする殻、震える触角、素早く動く六本の脚。生理的な嫌悪感を引き起こす、あらゆる要素を備えた生き物。それが、この完璧に清潔な厨房に、侵入していた。
「貴様ァアアアア!!!」
クロウィスの怒号が厨房を震わせた。
次の瞬間、彼の手が動いた。包丁を掴み、振り下ろす。刃が床に激突する。鈍い音と共に、ゴキブリは無惨に潰された。茶色い体液が飛び散り、床に染みを作る。
「消毒液! 今すぐだ!!」
クロウィスが叫ぶ。弟子たちが慌てて動く。クロウィスは懐から三本の小瓶を取り出した。消毒液だ。それを惜しげもなく床に撒き、雑巾で拭き取る。一度、二度、三度。納得するまで何度も何度も繰り返す。
弟子たちは壁際に固まって、その様子を見ていた。
「普段はめちゃくちゃ温厚な料理長なのにな」
一人が小声で囁く。
「ありゃ悪鬼だぜ……おーこわ……」
「おれこないだ殺されるかと思ったもん。調理台に小麦粉こぼしちまってさ」
「生きててよかったな」
「先週なんて、もっとすごかったぜ」
年配の料理人が震えた声で言った。
「ゴキブリが五匹、一度に出やがった。料理長、あの時の顔……まるで死神だった」
「見たのか?」
「ああ。包丁五本を瞬時に投げて、全部命中。そのあと消毒液を三種類全部使って、床を磨き始めた。一時間以上、ずっと磨いてたぜ。まるで浄化される死霊を見ているかのようだった」
「呪術師でも見たことないような光景だったな……」
別の弟子が付け加える。
「あれ以来、ゴキブリを見るだけで震えが止まらねえ」
「俺はもっとひどい目にあった」
若い料理人が青ざめた顔で言った。
「肉の汁をこぼして、雑巾で拭いただけで放置しちまったんだ。そしたら料理長が……」
彼の声が震える。
「『目が悪いのか』って、こう、すぐ目の前まで顔を近づけてきて……あの時は本当に命の危険を感じた。その後、床磨きを三時間やらされて、二度とこぼすなって」
「でも不思議だよな」
一人が呟いた。
「料理長、魔術は全く使えないんだろ?」
「ああ、この国じゃ魔術使えない奴は身分が低いはずなのに……」
「なのに、あの害獣を捕まえる速さ、厨房をあっという間に磨き上げるあの手際。魔術でしかないぜ」
「魔術じゃねえよ。あれは……」
年配の料理人が言った。
「修羅だ」
ひそひそと交わされる会話。だが、クロウィスの耳には届いていない。彼は床を磨き続けていた。汗が額から滴り落ちる。それでも手を止めない。
やがて、床は再び完璧な輝きを取り戻した。クロウィスは立ち上がり、深呼吸をする。表情が少しずつ和らいでいく。
「……すまない。取り乱した」
その言葉に、弟子たちはほっとした。いつものクロウィスが戻ってきた。
「昼食の準備に戻ろう。時間がない」
厨房に再び活気が戻る。クロウィスは食材を見定めていた。市場から届いたばかりの野菜、肉、魚。どれも新鮮だ。彼の目は瞬時に質を見抜く。長年の経験が培った勘だった。
「この鶏肉はいい。脂の乗りが完璧だ」
手に取った鶏肉は、指で押すと弾力がある。皮は薄く、肉は締まっている。最高の品質だ。
「この魚は少し古い。スープに使おう」
魚の目を見る。少し濁っている。鮮度は落ちているが、まだ使える。無駄にはしない。それがクロウィスの流儀だった。
彼の手が動き始める。包丁が閃く。野菜が瞬く間に刻まれていく。玉ねぎ、人参、セロリ。均一な大きさ、完璧な角度。無駄な動きは一切ない。
「料理長、この肉の下処理、どうしたら……」
「見ていろ」
クロウィスは弟子に実演する。筋を取り除き、余分な脂を削ぐ。手際がいい。三十分かかる作業を、彼は十分で終わらせた。
「わかったか?」
「は、はい!」
弟子は目を輝かせている。クロウィスは満足そうに頷いた。
厨房の片隅で、若い料理人が飴細工に挑戦している。だが、うまくいかない。飴が固まってしまい、形にならない。彼の肩が落ちた。
「どうした」
クロウィスが近づいてくる。料理人は俯いた。
「すみません。俺、才能ないのかもしれません」
「そんなことはない」
クロウィスは彼の横に立つ。
「火加減を見ろ。飴は生き物だ。温度が少し変わるだけで、性質が変わる」
彼の手が鍋を傾ける。飴が滑らかに流れ始めた。
「ほら、こうだ」
クロウィスの指が飴に触れる。熱いはずだが、彼は躊躇しない。飴が形を変えていく。鳥の羽、尾、嘴。小さな鳥が完成した。
「すごい……」
「おまえにもできる。何度でも挑戦しろ。俺が教えてやる」
料理人の目に涙が浮かんだ。クロウィスは彼の頭を軽く叩く。
その時だった。
チュウ、という鳴き声が聞こえた。
クロウィスの体が硬直する。弟子たちも動きを止めた。嫌な予感が厨房を満たしていく。
調理台の下から、灰色の影が飛び出した。
ネズミだ。
丸い目、尖った鼻、長い尻尾。素早く床を走り、食材の方へ向かっていく。
クロウィスから、何かが溢れ出した。
殺気だ。
いや、それ以上の何かだ。凄まじい闘気が彼の全身から噴き出し、厨房の空気を凍てつかせた。温度が下がったような錯覚がある。弟子たちは身動きできなくなった。足が竦み、声も出ない。
「……許さん」
クロウィスの声は氷のように冷たい。
彼が動いた。
一瞬だった。人間の目では追えないほどの速さで、クロウィスはネズミに迫った。手が伸びる。掴む。握る。
ぐちゃり。
鈍い音がした。
クロウィスの手の中で、ネズミは息絶えていた。手を開くと、肉片と化したそれが床に落ちる。血が広がっていく。
「この肉は食用にはならんのだ……」
クロウィスが呟いた。
弟子たちは震えている。あまりの迫力に、誰も声を出せなかった。クロウィスは手を洗う。一度、二度、三度。石鹸を泡立て、爪の間まで丁寧に洗っていく。そして消毒液を使う。三種類すべてだ。
「厨房の清潔は絶対だ!!」
クロウィスが振り返り、弟子たちを見据える。
「どんなに料理の腕が良くとも、不潔な厨房は滅ぶ! 肝に命じろ!!」
「サー! イエッサー!!!」
弟子たちが一斉に答える。まるで軍隊のようだった。
「排気口確認!」
「異常なし!」
「壁の穴は!」
「異常なし!」
「排水溝掃除の当番は誰だ!?」
「ちゃんとやったっすよ!」
クロウィスは厨房を見回す。目が鋭い。どこか一つでも不潔な箇所があれば、見逃さない。
「よし。では侵入経路を特定する。全員、持ち場を離れるな。一人ずつ、順番に確認していくぞ」
「了解!」
厨房が動き出す。これは戦いだ。不潔との戦争だ。そして、この厨房は、その最前線なのだ。
クロウィスは壁を調べ始めた。手の平で触れ、僅かな隙間も見逃さない。壁は冷たく、滑らかだ。だが、どこかに穴があるはずだった。ネズミやゴキブリが侵入してくる経路が。
「料理長、ここです!」
一人の料理人が叫んだ。厨房の隅、床と壁の境目に、小さな亀裂があった。指が入るほどの隙間だ。
「よく見つけた」
クロウィスは近づく。しゃがみ込み、亀裂を観察する。確かに、そこから侵入したようだった。ネズミの毛が引っかかっている。
「すぐに塞ぐ。石工を呼べ」
「はい!」
料理人が走っていく。クロウィスは立ち上がり、深く息を吐いた。
厨房は再び静かになった。昼食の準備が進んでいる。鍋が煮え立ち、フライパンが熱せられる。香りが混ざり合い、食欲をそそる。
だが、クロウィスの表情は険しいままだった。
「最近、増えている」
彼は呟く。
「ゴキブリも、ネズミも。何かがおかしい」
弟子の一人が聞く。
「料理長、どうしてだと思いますか?」
「わからん。だが、調べる必要がある」
クロウィスは厨房を見渡した。この美しく、清潔な空間。彼が命を捧げて守ってきた場所。それが脅かされている。
「絶対に守る」
その決意は固かった。
昼食の時間が近づいてくる。料理が次々と完成していく。クロウィスは一つ一つを検分する。味、見た目、温度。すべてが完璧でなければならない。
「この肉、もう少し火を通せ」
「このソース、塩が足りない」
「この野菜、盛り付けが雑だ」
厳しい指摘が飛ぶ。だが、弟子たちは文句を言わない。クロウィスの言う通りにすれば、必ず良くなるからだ。
「よし、完成だ」
料理が皿に盛られていく。彩り豊かで、美しい。湯気が立ち上り、香りが広がる。給仕係が次々と運んでいく。
厨房に、また束の間の静寂が訪れた。
「よし、昼の休憩だ」
クロウィスが言った。
「三十分後、中庭に集合しろ」
弟子たちの顔が曇る。あれが始まるのだ。
中庭は王城の裏手にある。石畳の広場で、訓練場としても使われている。そこに、料理人たちが集まっていた。白い料理服のまま、整列している。
クロウィスが現れた。
「筋力トレーニングを始める」
彼の声が響く。
「研磨力を向上させるためには、腕の筋肉が必要だ。握力、腕力、背筋。すべてを鍛える」
「お願いします!」
料理人たちが声を揃える。
「まずは腕立て伏せ。五十回だ」
クロウィスが床に手をつく。弟子たちも同じ姿勢になる。
「始め!」
一斉に腕立て伏せが始まった。クロウィスの動きは正確で、速い。上下運動が機械のようだ。汗が額に浮かび、地面に滴り落ちる。
「三十……四十……五十!」
クロウィスが立ち上がる。弟子たちはまだ続けている。息を切らし、腕を震わせながら。
「遅い! もっと速く!」
クロウィスの叱咤が飛ぶ。
「床を磨くとき、この動きが活きる。体の重心を使え。腕だけじゃない、全身で磨くんだ!」
次は走り込みだ。
「害獣を捕まえるには、速度が命だ」
クロウィスは中庭を走り始めた。長い脚が大地を蹴る。赤い髪が風になびく。その速さは、まるで獣のようだった。
「ついてこい!」
弟子たちが走る。だが、クロウィスには追いつけない。彼は圧倒的に速かった。
「ネズミは素早い。ゴキブリはもっと速い。それを上回る速度で動かなければ、奴らを捕まえることはできん!」
三十分の訓練が終わった。弟子たちは地面に倒れ込んでいる。息が荒く、汗だくだ。
だが、クロウィスは平然としている。少し息が上がっている程度だ。
「よくやった。では、厨房に戻るぞ」
「料理長、少し休まれては?」
年配の料理人が声をかける。クロウィスは首を横に振った。
「まだだ。夕食の準備もある。それに……」
彼は厨房を見る。
「掃除をしなければ。その前に、勉強会だ」
弟子たちの顔が引き締まった。週に三度行われる、クロウィス主催の勉強会。最初は料理を教えてもらえると期待していた弟子たちだったが、内容は全く違っていた。
「では始める。今日のテーマは洗剤だ」
クロウィスは棚から十数本の瓶を取り出した。
「これは酸性洗剤。油汚れに強い。だが、使いすぎると手が荒れる」
彼は一本ずつ説明していく。
「これはアルカリ性。タンパク質の汚れを分解する。肉や魚の汚れに最適だ」
「これは中性。日常的な掃除に使う。肌に優しいが、頑固な汚れには効果が薄い」
弟子たちは真剣にメモを取っている。
「それぞれの洗剤には得意分野がある。それを理解し、適材適所で使う。それが効率的な清掃だ」
「質問!」
一人が手を挙げた。
「酸性とアルカリ性を混ぜたらどうなりますか?」
「いい質問だ」
クロウィスは頷く。
「混ぜると中和反応が起きる。洗浄力が落ちるだけでなく、有毒ガスが発生する場合もある。絶対に混ぜるな」
弟子たちの顔が真剣になる。
「次に、消毒液だ」
クロウィスは別の瓶を取り出す。
「アルコール系、塩素系、次亜塩素酸。それぞれ殺菌力が違う。アルコールは速乾性があり、日常使用に向く。塩素系は強力だが、匂いがきつい。次亜塩素酸は食材にも使えるが、保存が難しい」
一時間の勉強会が終わった。弟子たちの目は輝いている。
「最初は料理を教えてもらえると思ってたのに」
若い料理人が笑った。
「でも、面白いよな。こんなこと、他じゃ教えてくれない」
「料理長の知識、半端ないぜ」
「あの人、本当に魔術使えないのか? 魔法みたいだ」
そんな会話が聞こえてくる。クロウィスは満足そうに頷いた。
実は、彼がこの宮廷厨房に赴任してから、まだ三ヶ月しか経っていない。だが、その三ヶ月で、厨房は劇的に変わった。
王城の他の部署では、こう呼ばれている。
「鬼軍曹と最強戦闘集団」
給仕係の一人が、廊下でそう噂しているのを聞いたことがある。
「あの厨房、本当に軍隊みたいだぜ」
「料理長が鬼軍曹で、料理人たちが兵士だ」
「でも、あそこで鍛えられた奴は、どこへ行っても通用するって」
「最強戦闘集団ってのは、そういう意味か」
「ああ。不潔という敵と戦う、最強の集団だ」
クロウィスはその噂を聞いて、少し笑った。悪くない評価だと思った。
弟子たちは顔を見合わせた。掃除。それは、この厨房で最も重要な仕事だった。
「では、始めるぞ」
クロウィスが言った。
「全員、配置につけ!」
「了解!」
厨房が動き出す。箒、雑巾、バケツ。武器を手にした兵士のように、料理人たちは持ち場につく。
「床担当、開始!」
数人が床を磨き始める。水を流し、ブラシでこする。汚れを浮かせ、雑巾で拭き取る。一度では終わらない。二度、三度と繰り返す。
「壁担当、開始!」
別の者たちが壁を拭く。上から下へ、丁寧に。タイルの目地も忘れない。小さな汚れも見逃さない。
「調理台担当、開始!」
大理石の表面が磨かれていく。油汚れを落とし、消毒液で拭く。光沢が戻ってくる。
クロウィスは指揮を執りながら、自らも動く。排気口を外し、内部を掃除する。油が固まって付着している。それを削ぎ落とし、洗剤で洗う。時間がかかる作業だが、手を抜かない。
「料理長、ここ、どうしましょう」
天井近くの梁に、埃が溜まっているのを弟子が見つけた。
「脚立を持ってこい」
クロウィスが登る。高い場所だが、躊躇しない。雑巾で拭き取り、埃を落とす。
一時間が過ぎた。二時間が過ぎた。
厨房は、さらに輝きを増していた。床も壁も調理台も、すべてが完璧だ。空気も清浄で、心地よい。
「よくやった」
クロウィスは満足そうに頷いた。
「今日はここまでだ。夕食の準備に入る」
弟子たちは疲れた顔をしているが、誰も不満を言わない。この厨房で働けることを、皆誇りに思っていた。
「あの料理長のもとで修行したのなら絶対に大丈夫」
それは、王都の料理人たちの間で語られる言葉だった。クロウィスの厨房を経験した者は、どこへ行っても通用する。料理の腕だけでなく、衛生管理、時間管理、すべてにおいて一流になれるからだ。
夕食の準備が始まる。市場から新しい食材が届いた。クロウィスは目利きをする。魚、肉、野菜。どれも良質だ。
「今夜は魚料理だ」
彼が言った。
「この鯛は素晴らしい。鮮度が抜群だ」
鯛の目は透明で、鰓は鮮やかな赤だ。身を指で押すと、弾力がある。最高の品質だった。
「この鯛をどう料理するか、考えろ」
クロウィスは弟子たちに問う。
「蒸し料理はどうでしょう」
「悪くない。他には?」
「焼き魚も……」
「それもいい。だが、今夜は違う方法を試す」
クロウィスは包丁を手に取った。
「鯛の昆布締めだ」
彼の手が動く。鱗を取り、内臓を抜く。丁寧に、素早く。そして三枚におろす。包丁の刃が滑らかに動き、骨と身が分かれていく。
「昆布で挟み、一晩寝かせる。味が染み込み、身が締まる。明日の昼食に出す」
弟子たちは真剣に見ている。クロウィスの技術を、一つでも多く盗もうとしている。
「今夜の夕食は、この鶏肉を使う」
クロウィスは別の食材を取り出した。
「ローストチキンだ。シンプルだが、奥が深い」
鶏肉に塩と胡椒を擦り込む。ハーブを詰め込む。ローズマリー、タイム、ニンニク。香りが立ち上る。
「オーブンの温度は二百度。最初は強火で表面を焼き、その後は弱火でじっくりと」
鶏肉がオーブンに入れられる。扉が閉まり、熱が循環し始める。
厨房には、再び活気が戻った。スープを作る者、サラダを準備する者、デザートを仕上げる者。それぞれが持ち場で動いている。
クロウィスは全体を見渡しながら、自らも手を動かす。野菜を刻み、ソースを作り、味を調える。彼の動きには無駄がない。最短距離で、最高の結果を出す。
「料理は時短が重要だ」
彼は弟子に教える。
「だが、味を犠牲にしてはならない。速く、そして美味く。それが俺たちの目指すものだ」
「はい!」
弟子たちは答える。
オーブンから、香ばしい匂いが漂ってきた。鶏肉が焼けている。皮がパリッとして、肉汁が滴っている。完璧だ。
「よし、取り出せ」
鶏肉が皿に盛られる。黄金色に輝く皮、ふっくらとした身。付け合わせの野菜が彩りを添える。
「これで完成だ」
クロウィスは満足そうに頷いた。
夕食が次々と運ばれていく。厨房に残されたのは、疲れた料理人たちと、そしてクロウィスだった。
「今日も一日、よく働いた」
彼は弟子たちを見る。
「だが、まだ終わりではない。明日も、明後日も、俺たちは戦い続ける」
「不潔との戦いですね」
一人が笑って言った。クロウィスも微笑む。
「そうだ。この厨房を守るため、俺たちは戦う。それが俺たちの使命だ」
弟子たちは頷いた。
厨房の灯りが消えていく。だが、その清潔さは変わらない。床も壁も調理台も、すべてが完璧に磨かれている。
明日も、この厨房は輝き続けるだろう。クロウィス・アルジャントがいる限り。
そして、不潔なる敵との戦いは、まだ始まったばかりだった。
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