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死んだのだろうか。


目を覚ましたとき、最初に頭に浮かんだことがそれだった。


徐々に視界がはっきりとしてきて、石で埋め尽くされた天井が目に飛び込んできた瞬間、そうでないと容易に察することができた。


深く、眠っていたようだ。試しにゆっくりと上体を起こしてみると、なんとなく頭が重くてだるい。

いつの間にか室内の、それも硬いベッドの上にいた。最後にいたのは、冷たい雪の上だったはずだ。あの時たしか、赤い瞳をした女性が——


そこまで思い出した途端、肌がぶわっと粟立った。反射的に首元を手で押さえてしまう。急いで周囲を見渡しても、自分の他に人はいなかった。

ほっとして、息を吐く。ほんのりと温かい皮膚の下で、脈が一定の拍を刻んでいた。身体の一部が猛烈に痛むようなことも、今のところはない。


恐らく私は、月夜に出会ったあの女に救出された。

意識を失う前に何か言われた気がするが、一体、なんだっただろうか……。


とりあえずベッドから出ようと、身体にかかっていた薄い毛布をぱさっとめくった。足元を見ると、膝丈ほどのスカートは裾が裂け、所々に跳ね散った泥が乾燥して、こびりついている。最後に倒れた時と同じ格好をしていた。

ここに辿り着く前からもう何日も汗や汚れに塗れた服を着続けていて、正直不快だった。早く着替えたい。でも、自分が今どういった状況に置かれているかも分からない中、そればかり気にしているわけにもいかなかった。


そうして部屋の内部に意識を移したとき、思わず声に出してしまった。


「牢屋?」


目覚めた直後は内装にまで気を配っている余裕はなかったが、改めて見てみると、あまりにも殺風景な空間だった。周囲を取り囲む床や壁まで全て石造りなせいで、空気はどんよりと滞っている。家具に至っては、このベッドと低いテーブル以外に見当たらない。

きょろきょろと部屋中を見渡していると、ベッドの背の向こうにやけに分厚いカーテンが掛かっていた。あの布の向こうに、窓があるのかもしれない。


私はカーテンのほうへと近付き、手を伸ばした。

こんなにも一面灰色なのだ。外からの光が入れば、この滅入った気分もまだましになるかもしれない。加えてここがどこなのか、少しでも手がかりが欲しい。


特に深くは考えず、埃っぽい布の端を掴んだその時だった。


「開けないほうがいいぞ」


背後から声がした。

驚いて振り向くと、あの銀髪の女が立っていた。いつの間にか部屋の扉が開いている。こうして声をかけられるまで、一切の物音がしなかった。


「っ⁉」


突然の訪問者を前に、全身で警戒する。

しかし女は構わず室内へと足を踏み入れた。長いドレスの裾を揺らしてコツコツと靴音を鳴らしながら、ゆったりと歩み寄ってくる。


後ずさろうとして、たちまち背中が壁にぶつかった。元々、さほど広くない部屋だ。私は、立ち塞がる女を見上げた。


こうして対峙してみると、自分より頭一つ分上背がある。私とて、同じ年頃の少女たちと比べても際立って小柄なわけではない。彼女が、かなりすらりとしているのだ。年は自分と一回りも離れていないだろうに、浮世離れした雰囲気のせいか、やけに貫禄があった。


「そう身構えるな」


女はにこりともせずに言った。

しかし、そう言われて素直に肩の力を抜けるはずがない。


「あなたは」


記憶が定かなら、この人は私を喰おうとした。血をもらうなどと、奇妙なことを口にして。

暗闇の中で尖った牙が光に反射して、それから……。


また、あの夜のことを思い出そうとした。やはりどうにも曖昧で、その先の記憶までは、はっきりと呼び起こせなかった。

いずれにせよ、ここは紛うことなくの中だ。彼女がこの国の者である以上、容易に心を許すわけにはいかない。


「ふむ。人の住処を牢屋呼ばわり。その上、自ら名乗りもしないとは。相変わらず人間の無礼は目に余る」


女は腕を組んだまま見下ろしてくる。血が滲んだような色の瞳の奥で、縦長の瞳孔がわずかに縮まった。またしても背筋がぞわりとして、心臓が早鐘を打っていた。

彼女が何者なのかは知らない。しかし、心が危険を知らせている。


「まあよいだろう。まだ目覚めて……いや、生まれて間もない小娘だ。我が名はセレン。この名を呼ぶことを許そう」

「セレン?」

「呼び捨てを許容した覚えはない」


女の視線が鋭く細められた。

先程から、なんとも尊大な態度だ。

私はつい、顔を顰める。


「では、私だって"小娘"ではありません。ミアという生まれもっての名があります」

「どうでもよい。どうせ覚えてはおらぬ」


無礼を指摘してきたかと思えば、この言い様だ。言い返したいことは山ほどあった。しかし何も分かっていない今、彼女の機嫌を損ねるのは賢明ではない。それに、この気難しそうな女は、こちらが譲歩しなければ話を聞いてくれそうもない。

私は自分の手を握りしめ、改めて彼女に尋ねた。


「セレン……様、先程の言葉はどういう意味ですか?」

「先程とは」

「このカーテンを、開けない方がいいと言っていました」

「そのままの意味だ」


セレンは壁に垂れ下がった分厚い布地に目を向ける。


「じきに夜が明ける。お前の身体は、日の光に耐えられまい」

「え?」


言っている意味が分からなかった。

眉を寄せ、セレンを見ても、相変わらず素っ気ない顔で立っているだけだ。

その表情のせいで、彼女が虚偽を口にしているのかどうかさえ分からない。もしかしたら、冷徹な仮面の下で私を揶揄しているのかもしれない。

一度そうかもしれないと思ってしまうと、途端に腹が立ってくる。

私はひとまず彼女の言葉を無視して、再びカーテンに手を掛けた。


「おい」


背後から低い声が響く。私は構わず、勢いよく布を押し分ける。


思った通り、そこには外を見渡せる窓が取り付けられており、ちょうど遠くの空が白んできた頃合いだった。

私は小さく笑い、背後を振り返った。


「ふん、何もないじゃないですか」


セレンはといえば、僅かに後ろに下がり、ただこちらを黙視していた。

脅しかけてみたものの、何も起こらなかったのが気に入らなかったのだろうか。いずれにせよ、とやかく口を挟んでこないのは幸いだった。

気を取り直して窓へと向き直り、前方に広がる景色へと目を移す。


「どこもかしこも、白と緑ばかり……」


周囲を取り囲むように生い茂った木々に、真っ白な雪。遥か遠くの方には、険しい山脈が連なっている。

私は、この眼下の森の中で倒れたのだろう。


もっと情報が欲しい。付近に街などはないだろうか。

ここまでの道中で、近場にそれらしきものは見当たらなかったが、別の方角までくまなく探せば、何かしらはあるかもしれない。

そうして、硝子に貼りつきそうなほど夢中で外を見ているうちに、あっという間に地平線からは太陽が顔を覗かせ始めていた。

ゆっくりと、純白の大地が色付いていく様に目を奪われる。辺りは、黄金色に輝きを放っていた。


「わあ......!」


冷えきった窓に手をつき、目を瞬かせる。こんな状況下でも、壮観だと認めざるを得なかった。朝日が昇る瞬間は、何度か目にしたことがある。しかしこのような開けた土地で眺めたことはなかった。


その間にも日は昇っていき、やがて窓から光が挿した。


——どくん。


刹那、言い表せないような、とてつもなく嫌な気配が胸を埋め尽くした。

それも、軽く流せる程度のものではない。鼓動が煩く、息が上がってくる。あの夜、セレンに首を絞めかけられた時の感覚が不意に蘇った。

なぜか、「逃げなければ」と直感した。

それでも動揺して立ち退けずにいると、やがて手の甲に陽光がさす。


「あ......ぐ、あぁ……」


無意識に呻いてしまっていた。

身を焦がすような鈍い痛みと共に、気味の悪い違和感がじわじわと体内を蝕んでいく。己が、少しずつ消滅していくような恐怖が足跡をつけていく。

ふと視線を下げると、手の甲がわずかに変色し、土のような気色の悪い色になっていた。


「いやっ!」


私は叫び、急いでカーテンを閉じる。

のけぞるようにして、窓辺から距離を取った。


気がつけば床に両手をついて項垂れていた。呼吸に合わせて、肩が大きく上下した。

出来れば見たくはないけれど、もう一度手の甲を確認する。日光から遮断された手の色は、ちゃんと人間らしい肌色に戻っていた。あの変容は幻だったのかと思うほどに、一瞬のうちに。

それでもまだ、身体を蝕んだあのおぞましい感覚が鮮明に脳裏にこびりついていた。


「先に忠告したであろう」


視界の隅に、尖った靴先が映りこむ。顔を上げずとも分かる。あの女がどれほど冷めた目で、今の私を眺めているのか。


私は呼吸を整えようと努めながら、ぽそりと呟いた。


「あなたは何者? 私に、何をしたの?」


こんなの普通ではない。

これまでの人生、私は周りの人たちと同じように太陽の下で生きてきた。

しかし今、自分の身体に起きたことは。

これでは、まるで——


短い沈黙のあとで、衣擦れの音がした。

突然顎を掴まれたかと思えば、無理やり上を向かされる。僅かに身を屈めたセレンと、私の視線が交差した。


「知りたいか?」


そこには、愉悦の色が浮かんでいた。

本当にどうしようもなく、性根しょうねが悪い。

私は、砕けてしまいそうなほど強く奥歯を噛みしめた。


「お前たちの生きる世界に合わせて、敢えて呼称するのであれば、たしか——」


セレンの口元が、歪に吊り上がる。


「人は我々を、吸血鬼と呼んでいた」


冷酷な眼差しに射竦められ、息を呑む。


吸血鬼。

伝承でしか耳にしたことがない、人の血や精気を啜る怪物。

彼らは、遠い昔に滅びたはずだ。書物庫の文献にそう記されていたのを、読んだことだってある。


「ああ……それと、私がお前に何をしたか。だったな?」


言葉を失う私に、セレンはまだ畳みかけてくる。

顎を鷲掴む手に、ぎしりと力が加わる。骨が軋む音に、目をすがめた。


「あの夜、死にかけていたお前を私が助けてやった。その際、お前を我が眷属とした」


平然と言い放つセレンを前に、私は裂けそうなほどに目を見開いた。

口からは、「は?」と掠れた声が零れる。

一度に押し寄せる事実に、脳の処理が追い付かなかった。

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どうせ尽きる命なら ~亡国の公女は吸血鬼にひざまづく~ 花置途 @Cherry_0817

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