どうせ尽きる命なら ~亡国の公女は吸血鬼にひざまづく~
花置途
プロローグ
雪を踏みしめる音がした。
ゆるやかに近づいてきたそれは、やがて頭の先でぴたりと止まった。
「何かと思えば……死体が転がっているとは」
抑揚のない声が冷たい空気に溶けて、耳元に落ちてくる。
「
低く落ち着いた、女の声だった。
重たい瞼を震わせ、私は薄っすらと目を開けた。空を仰ぐ体勢で横たわっていたため、視界いっぱいに同じ景色が広がっている。鬱蒼と生い茂る草木、それから、全身を覆いつくすような夜の闇。
見上げた先で、二つの深紅の宝石が鈍く光ったようだった。一拍置いて、それが何者かの双眸であることに気がついた。
「……ん? ああ、なんだ。まだ息があるではないか」
そう言ってその誰かは、スカートの裾を摘まみ上げて屈みこむ。顔と顔との距離が近づき、暗がりの中にぼんやりと若い女の輪郭が浮かぶ。
しゃがんだ拍子に、月に照らされたしろがねの髪が、肩からはらりと落ちた。
「小娘。此処は私の庭だ。このままでは夜明けには死ぬぞ」
女は心配するわけでも憤るわけでもなく、ただ事実を淡々と述べる。
その言葉を聞き、死への恐れよりもまず安堵している自分がいた。
では、これが最期に見る景色になるのだろう。不本意ではあるが、あの場所で一生飼い殺しにされるよりはずっといい。
まだ故郷にいた頃、商人づてに偶然耳に挟んだ話だった。
この国の北部には、一度足を踏み入れた者は二度と帰らないと逸話のある森が存在すると。真実か否かも定かではない情報に賭けて、とにかく北を目指して何日も走ってきた。
道中碌に食べずに来たからか、深い森を見つけて安心してしまったからなのか。この場所に足を踏み入れた途端、どうにも身体に力が入らなくなり、しまいには立って歩くことすらままならなくなった。
こうして雪原に背中を預け、月がだんだんと高くなっていくのを眺めていると、自分も「二度と帰らぬ者」の一部となる実感が現実味を帯び始めていた。
一か八かでここまで逃げてきたのは、どうやら正解だった。
既に肺は凍り付いてしまったかのように痛い。慎重に息を吐くと、視界が白く霞がかる。またひとつ、鼓動が弱まっていく気配を感じた。
「ふむ…これでは
女は泰然と観察し、顎に手を添えてくる。突き放すような寒さの中、その指先からは体温が微塵も伝わってこない。この人は本当に生きているのだろうかと、むしろこちらが疑いたくなった。
その時ふと、女は何かを思いついたように口端を持ち上げた。
「どうせ尽きる命ならば、その身に流れる血……私が、全てもらっても構わぬな?」
私の顔に触れていた指先が輪郭を撫で、首筋へと這い下りていく。
長い睫毛に縁どられた赤い瞳が、さらに距離を詰めてくる。
声を出そうとして、私は咳き込んだ。
「ど……で、も………」
「なんだ」
「……どうでも、いい」
私の言葉に、女は「ほう」と目を細めた。
もう何もかもどうだってよかった。
王である父は倒れ、故郷は滅びた。あの地で暮らしていた民も、もう、皆 ——。
勝者の気まぐれに、捕虜として唯一繋ぎ留められたこの魂も間もなく朽ちる。言葉通り、「どうせ尽きる命」に過ぎない。
「では、遠慮なく頂くとしよう」
女の唇が不敵に弧を描いた。その端から、鋭く尖った歯が覗く。それがゆっくりと首筋に寄ってくる様を、私は目を反らすことなく傍観していた。
銀色の髪が帳のように周囲の視界を遮り、柔らかな毛先が鼻先をかすめた。夜の闇を背負った恐ろしくも神秘的な姿に、ここにきてようやく、彼女が人ならざるものなのだと本能で理解できた。
喰われる。
抵抗せずに目を閉じた。
これまでの人生に悔いはないと言うと嘘になる。まだ、ほんの十六年しか生きていないのだから。でも、最期に目にしたものがこうも美しい存在であることだけは、せめてもの救いに思えた。
静かにその時を待っていると、首筋に絡みつく指先がじわじわと肌に食い込んできた。息の根が止まるほどの力ではないものの、確実に気道が塞がれていく。
まさか、こんなにも惨めな姿になる日が来るなんて、想像したこともなかった。それでも、もうすぐ全て終わると思うと心は安らかだ。
大丈夫。痛いのは、きっとほんの一瞬だけ。
冷たい唇が肌に触れる感触。
直後、鋭い牙が首の皮を引き裂いた。
——と、思っていた。
大人しく動かずに待っていても、その瞬間が訪れることも、叫び出したくなるような激痛が全身を駆け巡ることもない。ここには、変わらず余所余所しい静寂が満ちているだけだった。
首を絞めていた手がすっと離れた。
途端に全身が空気を貪り、私は胸を抑えながらえずくように咳をした。
天を仰ぐと、女が冷酷な表情で見下ろしていた。気怠げに上体を起こし、私から距離を取る。
「興醒めだ」
一言、吐き捨てる。
虫けらを見るような眼だ。それでも、彼女の言動に反応を示す余裕は、私にはない。そろそろ意識を繋ぎとめているのも億劫になってきた。頭は朦朧として、視界の端々にはインクが滴っているかのように黒ずみが滲んでいく。
地面に転がったままぼんやりしていると、急に女の手が伸びてきて、今度は胸ぐらを掴み上げられた。
「うっ……」
湿っていた背中がわずかに浮く。また首が絞まる感覚に、口から呻き声が漏れた。
女は構わず、私の頭のてっぺんから剥き出しの足先まで、まじまじと眺める。
「ふん。よく考えずとも、こんな枯れ枝のような娘を味見したところで腹の足しにもならんな。雪を食ったほうがよほど賢明だ」
勝手に品評してきた上に、丁寧に罵倒まで添えられた。気力さえ残っていれば、異論を唱えていたことだろう。
しかし、今は枯れ枝という言葉が確かに言い得て妙だと、つい自嘲しそうになった。
「おい、
「……」
「もう声も発さぬか。……このまま捨て置けば、じきに獣たちが勝手に始末するだろうが、うむ——」
襟元を引っ張ったまま、女は悠長に思案している。体勢が不安定なせいで、先程よりも苦しい。いい加減本当に、目を開けていることすら厳しくなってきた。
「……そういえば、使用人が欲しいと思っていた。ふふ、これは丁度良い」
意識を手放しかけていた時、女の愉しげな微笑が映りこんだ。
次の瞬間、突如、彼女は自分自身の手首を口元に当てがった。かと思えば、その鋭い牙を躊躇いなく突き立てる。白い地面に赤黒い雫が滴り落ち、染みをつくっていく。
「小娘、お前を生かしてやろう。ただし、私に服従せよ」
女はそう言って、私の唇に血の滲んだ手首を軽く触れさせた。生温かい液体が、強制的に口内に忍び込む。じんわりと、鉄のような匂いが広がった。
受け入れがたい刺激に、息が止まりそうだった。
ああ。今度こそ本当に、終わるんだ。
見上げた先で、女は笑っていた。
氷のように美しい笑みだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます