第2話 王都地下、あるいは致死性の「詰まり」について

「……汚ねぇな」

 翌朝。冒険者ギルド「銀の剣」本部の職員通用口をくぐった俺、ザイードの第一声は、ため息混じりの愚痴だった。

 俺の視線の先――ロビーの床には、無数の泥足跡がスタンプのように刻み込まれている。雨上がりのスラム街の路地裏ではない。天下の冒険者ギルドの、毎朝俺が磨き上げている正面玄関がこれだ。


「おい、あの動画の場所ここだろ!?」

「清掃員はどこだ! 会わせろ!」

「我こそは弟子入り志願者なりー!」


 ロビーは、まるで年に一度の祝祭日かと思うほどの混雑ぶりだった。原因はもちろん、昨日の「ドラゴン瞬殺動画」だ。

 勇者アーウィンの一件以来、噂に尾ひれがついて拡散し、一目その「謎の最強清掃員」を見ようと、野次馬や命知らずの冒険者たちが殺到しているのだ。

 あいつら、土足で他人の職場に上がり込んで何様のつもりだ。あの泥汚れを落とすのに、どれだけの洗剤を消費し、俺の腰にどれほどの負担がかかると思っている。


「ザ、ザイードさん! 大変です、表に来てください!」


 カウンターの奥から、受付嬢のミリアが涙目で手招きしていた。


「断る。俺は今日、地下勤務だ」

「えっ? でも、ギルドマスターがザイードさんを探して……」

「『施設管理課』への異動願いなら後で出す。今は緊急のメンテナンス作業があるんだ。ギルドのインフラに関わる重大なトラブルでな」


 俺はもっともらしい嘘――いや、半分は本当だ――を並べ立て、逃げるように更衣室へと滑り込んだ。


「あ、ちょっと、ザイードさん……!」


 ミリアの制止も虚しく、扉は無情にも閉ざされた。

 残されたのは、半泣きの受付嬢と、獲物を求めてぎらついた視線を向ける野次馬の群れ。


「お、おい! 今の奴が例の清掃員か!?」

「待て、逃がすな!」

「ひ、ひぃっ! あ、あの、順にお並びください! 押さないで、受付に入ってこないでくださーい!」


 背後で聞こえるミリアの悲鳴に近い叫びを、俺は心のシャッターを下ろして聞き流した。

 あんな興奮状態の連中に囲まれたら、定時退社どころか、質問攻めで残業確定だ。俺は平穏が欲しい。静寂が欲しい。そして何より、定時に帰りたい。


 更衣室のロッカーを開け、俺は使い古された作業服に袖を通す。幾多の劇物や汚濁を撥ね退けてきた、酸耐性処理済みの特注品だ。足元には、つま先に鉄板が入った重厚な防護長靴。そして顔には、魔法銀のフィルターを備えた業務用の防毒面を装着する。

 背負うのは、ギルドの循環システムを影から支える重量級の洗浄機材。

 準備を整えた俺は、重厚な鉄扉の先、一般職員の立ち入りすら禁じられた暗域へと足を踏み入れた。

 目指すは地下三階。王都の繁栄が吐き出した汚濁が澱む最底流――『地下排水処理施設』。

 そこは、喝采も栄光も届かない、清掃員だけの戦場だ。


 ◇


 ギルドの地下には、広大な下水道網が広がっている。

 実験棟から流される魔法薬の廃液、食堂の生ゴミ、鍛冶場の煤……それら全てが流れ着く場所だ。


「臭っせぇ……。換気ファン、また止まってんのか?」


 防毒マスク越しでも鼻をつく腐敗臭。湿度は不快指数を振り切る一〇〇%。床は正体不明の粘液でヌルヌルと滑る。

 普通の人間なら五分で気を失う環境だが、俺にとってはここが聖域だ。誰の目も気にせず、ただ無心で作業に没頭できるのだから。


「さて、と」


 俺は背負った機材のノズルを握りしめた。

 魔導式高圧洗浄機『ケル・ハイドロ・オメガ(業務用)』。

 圧縮した水を音速で噴射し、岩盤すら穿つことのできる、ギルドの清掃課が誇る最終兵器だ。本来は外壁の頑固な苔を落とすためのものだが、今日はこいつの出番だ。


 俺はヘッドライトの鋭い光線で暗闇を切り裂きながら、迷路のような水路を奥へと進む。長靴が汚水を跳ね上げる音が、低い天井に反響して不気味に響く。

 事前の点検報告によれば、この先のF区画――複数の排水路が合流する急所で、深刻な「詰まり」が発生しているらしい。確かに、進むにつれて水位が不自然に上がり、水の流れが澱み始めている。本来ならサラサラと流れているはずの排水が、ここではどろりと重く停滞していた。


「……あー、やっぱりか」


 水路の合流地点にたどり着いた俺は、げんなりとして天を仰いだ。

 そこには、悪夢を形にしたような、巨大な「何か」が鎮座していた。


 直径五メートルはあるだろうか。ヘドロと油脂、髪の毛、そして魔法薬の残滓が複雑に絡み合い、ゼリー状に固まった醜悪な塊。それが水路を完全に塞ぎ、汚水を堰き止めている。

 一般的に見れば、それは下水道の汚染から生まれた変異種モンスター『ヘドロ・ギガント(推定Aランク以上)』に見えるかもしれない。

 だが、俺の目には違って映る。


「出たよ、巨大オイルボール。食堂の連中、また揚げ油をそのまま流しやがったな?」


 これはモンスターではない。コンプライアンス違反の塊だ。

 有機物が化学反応を起こして自律行動を始めているようだが、そんなことは些末な問題だ。重要なのは、こいつがギルドの排水を詰まらせ、逆流のリスクを生じさせているという一点のみ。


「グ……グオオ……ッ!」


 俺の気配に気づいたのか、汚泥の塊が不快な音を立てて蠢き、体表からドス黒い触手を伸ばしてきた。

 先端から滴り落ちるのは、鉄さえ溶かす強酸性の消化液だ。


「おい、作業の邪魔すんな。跳ねるだろ」


 俺は半身をずらし、迫りくる触手を紙一重でかわす。

 恐怖はない。あるのは「作業服にシミがついたらクリーニング代が出るか?」という懸念だけだ。


「まったく……こびりついた油汚れには、熱湯とアルカリ剤に限るんだよ」


 俺は腰のポーチから、業務用のパイプ洗浄剤『ドカン・スルー(赤ラベル)』を取り出すと、躊躇なくその巨体へと投げつけた。


 ボトッ、ジュワワワワ……!


「ギ、ギャアアアアッ!?」


 薬剤が触れた瞬間、ヘドロの表面が激しく発泡し、白煙が上がる。モンスターが苦悶の声を上げるが、俺は手を休めない。

 すかさずケル・ハイドロのダイヤルを『MAX(頑固な汚れ)』に合わせ、トリガーを引く。


「剥がれろ!!」


 ズドォォォォォン!!

 噴射された超高圧の水流は、もはや水ではない。水の刃だ。

 ごう音と共に放たれた水圧が、弱ったヘドロの表面を削り取り、内部の核ごと粉砕していく。物理攻撃無効の流体ボディ? 知ったことか。これは攻撃ではない。「洗浄」だ。

 分子レベルで結合を剥がされた汚れは、ただの汚水へと還元されていく。


「オ, オオ……」


 断末魔のような音と共に, 数分前まで脅威として君臨していた巨大な塊は, 跡形もなく水路の彼方へと押し流されていった。


「ふぅ。貫通確認」


 俺はノズルの圧を下げ, 残った汚れを丁寧に洗い流す。水路は見違えるように綺麗になり, 本来のサラサラとした水音が戻ってきた。


「完了。……薬剤費、経費で落ちるかな」


 俺は満足げに頷くと、日報に書く内容を考えながら、地上への梯子へと足を向けた。


 ◇


――その一部始終を、暗闇から絶望と共に凝視する視線があった。

 水路の天井付近、錆びついた太い配管の隙間に身を隠していた黒装束の男。

 裏社会を牛耳る「盗賊ギルド」の中でも、隠密と観察に特化した精鋭斥候スカウトだ。


 彼らがこの危険極まりない地下水路に潜伏していたのは、ここを「密輸ルート」として再利用するためだった。その最大の障害となっていたのが、先ほどの『ヘドロ・ギガント』だ。


 Sランク冒険者のパーティですら「地形の不利」と「物理無効」の特性に手を焼き、討伐を断念した化け物。触れれば即座に腐食し、魔法すら飲み込む悪夢の流体。

 盗賊ギルドは、この化け物を「手なずける」か、あるいは「何十人もの犠牲を払って排除する」か、頭を悩ませていたのだ。


 だが、今目の前で起きたのは、そのどちらでもなかった。


(な……何を見たんだ、俺は……)


 斥候の男は、震える手で自らの口を抑えた。音を立てれば、次は自分が「洗浄」されるという本能的な恐怖があった。

 現れたのは、ただの男だ。派手な魔法の詠唱も、聖剣の輝きも、勇ましく名を名乗る咆哮すらない。


 ただ、淡々と。

 まるで日常の家事をこなすような身軽さで、凶悪な触手を回避し、あろうことか「得体の知れない劇物」を投げつけ、謎の魔導機具から放たれた「高密度の水圧」だけで、あの厄災を文字通り消滅させた。


 それは戦闘ですらなかった。殺気も、高揚感も、敵意すらも介在しない。

 ただそこには、「効率的に、かつ確実に汚れを取り除く」という、狂気すら感じるほど冷徹な『事務作業』があった。


(ギルドの清掃員……? ふざけるな。あんなバケモノが平職員なわけがない!)


 男の脳裏に、裏社会で囁かれる一つの都市伝説が浮かび上がる。

 表の組織が、自らの手を汚せない汚物――裏切り者や、制御不能となった危険分子――を処分するために飼っている、影の処刑人。


(奴こそが、ギルドが隠し持つ正真正銘の『掃除屋スイーパー』……! 伝説の、生ける死神だ!)


 斥候は、ザイードが梯子を登り切るまで息を殺し続け、その姿が完全に消えたのを確認してから、逃げるように闇の奥へと消えていった。

 冷や汗が黒装束を濡らし、心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴っている。


「すぐにボスに報告しなければ。とんでもないヤツが……触れてはならない怪物が、王都の地下を支配している」と。


 この日を境に、裏社会には「銀の剣の地下には、あらゆる存在を分子レベルで消し去る恐怖の番人がいる」という噂が、恐怖と共に駆け巡ることになる。

 こうして、地上の喧騒から逃れたはずのザイードの評価は、本人の知らぬ間に、またしてもあらぬ方向へと急上昇していくのだった。


 ただ、定時で帰りたかっただけなのに。

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