ダンジョン・クリーナー ~配信の隅で、今日も定時で帰ります~

夜月 朔

第1章 特別施設管理顧問の受難

第1話 その男、背景につき

「はぁ……。また派手にやってんなぁ」

 ダンジョンの最奥、地下50階層のボス部屋。その巨大な扉の前で、俺の重たい溜息が空しく響いた。俺、ザイードの視線の先には、たった今討伐されたばかりのSランク指定モンスター「煉獄の赤竜」が横たわっていた。


 全長20メートルはある巨体だ。だが、問題はその大きさではない。斬り飛ばされた首の断面からは、ドロドロとした粘性の高い竜血が噴水のように噴き出し、美しい大理石の床を赤黒く染め上げている。

 さらに、魔法で焦げ付いた壁、砕け散った柱の破片、あちこちに飛び散った内臓片……。清掃業者プロの目から見れば、そこはただの汚染区域でしかなかった。


 そんな陰惨な現場の空気などお構いなしに、金色の鎧をまとった勇者パーティは、まるで舞台の上にいるかのような完璧な配置で勝利のポーズ(決め顔)を作っていた。勇者の鎧には《清浄》の魔法がかかっているのか、返り血一つ付着しておらず、どこからともなく照らされた照明魔法のスポットライトを浴びてキラキラと輝いている。


「見たか民よ!我ら『暁の翼』が、ついに災厄を討ち果たしたぞ!この勝利を、王国の未来に捧げよう!」


 類稀なる美貌を持つ勇者が、あえて血糊を残したままの聖剣を天高く掲げる。計算され尽くした「映える」角度だ。その背後では、聖女が祈りを捧げるポーズで涙を流し、魔法使いが杖を掲げて勝利のルーンを空中に描く。すべてが演出された劇の一幕のようだ。


 彼らの周囲には、王都への生中継を行うための《魔法の浮遊眼フローティング・アイ》が十数体、忙しなく飛び回っていた。ある個体は勇者の顎のラインを強調する煽りのアングルから、ある個体はパーティ全体を俯瞰する位置から。勇者の顔が一番美しく映る瞬間を逃すまいと、レンズ代わりの水晶体が激しく明滅している。


 今ごろ、王都の酒場にある巨大モニター越しに、民衆は歓喜の声を上げていることだろう。英雄の誕生に涙し、酒を酌み交わしているはずだ。

 だが、俺にとっては災厄の終わりではない。むしろここからが本当の仕事(じごく)の始まりだ。


 そもそも、竜の血液をただの体液だと思っているのが間違いだ。あれはpH値1.2、王水にも匹敵する強酸性かつ高揮発性の第一種劇薬指定物質だぞ?あと正確に8分30秒も放置すれば、この歴史的価値のある大理石の床材が腐食し、そこから致死性の硫化水素系ガスが漏れ出す。換気空調設備も存在しないダンジョン最奥でそれが起きれば、局所的な環境汚染で地下生態系は壊滅する。

 だが、化学的な汚染などまだ可愛いもんだ。本当にヤバいのは、竜種特有の『死後魔力還流デス・マナ・リフラックス』だ。絶命した竜の細胞は生存本能のリミッターが外れ、周囲のマナを掃除機のように吸引し始める。このまま放置すれば、死体が勝手に再構成され、より凶悪かつタチの悪い「腐竜」として再起動する確率は98.7%……。ほぼ確定演出ってやつだ。


 そうなれば、俺が密かに更新し続けている『連続定時退社記録』が途絶えてしまう。

 俺は、この過酷かつブラックなダンジョン清掃業において、いかに無駄なく、感情を排し、涼しい顔で定時にタイムカードを切るか――その一点のみに、人生の楽しみを見出しているのだから。


「……やるか。手当出ねぇかな、これ」


 俺はゴム手袋をはめ、バケツと愛用のモップを握り直すと、迷うことなくボス部屋へと足を踏み入れた。


          ◇


「おお、勇者よ! その剣技、まさに神速!」 「きゃー! アーウィン様ぁ! こっち向いてー!」


 王都、中央広場の酒場「金獅子亭」。この店自慢の壁一面に投影された巨大魔法映像を見ながら、客たちは熱狂の渦に包まれていた。

 樽のエールは飛ぶように売れ、興奮した客たちがテーブルを叩いてSランクパーティの偉業を称えている。誰もが、歴史的瞬間の目撃者となったことに酔いしれていた。


 ――しかし。


 完璧な英雄譚が映し出されていた映像の端に、ノイズのような「何か」が映り込んだ瞬間、数人の客がグラスを止めた。


「おい、邪魔だぞ! どけよ!」 「ふざけんな、いいとこだったのに!」


 酒場に怒号とヤジが飛び交った。無理もない。画面の隅から現れた灰色の影――ひどくくたびれた作業着を着た男が、あろうことかカメラと勇者の間をのそりと横切ったのだ。 勇者が剣を掲げ、最も美しい角度で微笑んだ決定的瞬間。その尊い顔面が、薄汚れた男の猫背によって完全に遮断されたのである。


 さらに男は、カメラのピントが合う位置で立ち止まると、あまつさえ勇者の足元にバケツを『ゴンッ』と無造作に置いた。手には武器ではなく、使い古されたモップ。戦場の緊張感など微塵も感じさせないその態度は、まるで自宅のトイレ掃除でも始めるかのような気軽さだ。


『すいません、そこまだ血が乾いてないんで。ちょっとどいてもらっていいですか?』


 高性能な集音マイクが、男のやる気のない声を拾い、酒場のスピーカーから流れた。

 熱狂的なBGMとの温度差に、店内の空気が凍りつく。ポーズを決めていた勇者が「は?」と間の抜けた顔をして振り返った。


『撮影なら、あっちの綺麗な壁の前でやってもらえます? ここ、酸で靴の底が溶けちゃうんで』


 男は勇者を「撮影の邪魔なんで」とでも言いたげに手で払い、血の海をジャブジャブと歩いてドラゴンの死体に近づく。


「さて、まずはこのデカブツを解体袋に詰め込まなきゃな……」


 男が腰のアイテムポーチに手を伸ばした、その時だ。


 ズズズ……と、沈黙していたはずの巨体が不気味に震え始める。先ほど男が危惧していた現象――『死後魔力還流』が、最悪のタイミングで発生したのだ。

 死したはずのドラゴンの瞳が、カッと見開かれる。そこには理性などなく、ただ生者を喰らわんとするドス黒い殺意だけが渦巻いていた。


「グオォォォォ……ッ!!」


 地獄の底から響くような咆哮とともに、巨大な顎がガクリと開かれる。口腔内に並ぶのは、鉄骨さえも容易く噛み砕く無数の牙。それは死に際の反射か、あるいは怨念による瞬時のアンデッド化か。Sランクモンスターが最期の力を振り絞って放つ死の顎が、無防備な清掃員の頭上へと、処刑台のギロチンの如く迫る。


「あぶない!」 「食われるぞ、逃げろ!!」


 酒場の客たちが悲鳴を上げた。誰もが男の無残な死を予感し、目を覆おうとした――その直後だった。


「あー、先に分別しないと。燃えるゴミ、と」


 男は「またかよ」とでも言いたげに面倒くさそうに呟くと、手に持っていたモップの柄で、迫りくるドラゴンの鼻先をコツンと叩いた。それは、埃を払うような軽い動作に見えた。


 ――ドォォォォン!!


 だが、響いた音は違った。まるで攻城槌が城門を突破した時のような、腹の底に響く重低音。たった一撃。それだけで、数トンの巨体を持つドラゴンの頭部がひしゃげ、巨体ごとなぎ倒されるように真横に吹き飛んだ。そのまま壁に激突し、めり込んで完全に沈黙する。

 酒場が水を打ったように静まり返る。画面の中の勇者たちも、口をあんぐりと開けて固まっている。聖女に至っては、持っていた杖を取り落としていた。


 だが、男は気にした様子もなく、懐から業務用の洗剤ボトルを取り出した。


「強酸性の竜血汚れには……中和剤入りの『激落ちクン・改』だな。よいしょ」


 洗剤をドボドボと床に撒き、神速のモップ捌きを見せる。

 シュバババババ! という鋭い風切り音と共に、残像すら見えるほどの高速清掃が展開された。致死性の毒を含んだ頑固な竜血が、見る見るうちに拭き取られ、大理石が本来の輝きを取り戻していく。

 ついでに、勇者の自慢の鎧に跳ねていた返り血も、「汚れついで」とばかりに一瞬で拭き清められた。


「完了。あ、そこワックス掛けたんで滑りやすくなってます。足元気をつけてくださいね」


 男はピカピカになった床に自分の顔が映るのを見て満足げに頷くと、懐中時計を取り出してパカリと開く。


「よし定時だ。お疲れ様ですー」


 ペコリと事務的な一礼。男は呆然とする勇者たちと、壁のシミとなったドラゴンを置き去りにして、画面の外へと消えていった。まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。


          ◇


 プツン、と唐突に映像が途切れ、魔法のスクリーンの光が消える。あとに残されたのは、薄暗い酒場と、石像のように固まった数百人の客たちだった。

 数秒間の、痛いほどの静寂。誰もが言葉を失い、ジョッキを持つ手すら止まっていた。やがて、誰かが手から滑らせたグラスが床に落ち、ガシャンという破砕音が響き渡る。それが、堰を切る合図だった。


「お、おい……今の見たか!?」 「見たぞ! ドラゴンの即死攻撃を、モップで弾きやがった! しかもノーモーションで!」


 一人の冒険者崩れの男が、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、泡を飛ばして叫ぶ。


「いや、あれはおかしい!物理法則を無視している!数トンの質量を片手で!?あいつの腕力はどうなっているんだ!?」

「それよりあの洗剤だ!あれは聖水か何かか!?Sランクの呪いの霧が一瞬で消えたんだぞ!?大司教クラスの浄化魔法でもあんな芸当は無理だ!」


 魔法使い風の女が、信じられないものを見たという顔で頭を抱え、ブツブツと独自の考察を始めた。隣にいた戦士風の男は、震える手でエールをあおり、現実逃避を図っている。


「誰なんだあの男は!ギルドの隠し玉か!?」

「いや、あの制服は……ただの清掃員だよな!?」

「勇者様より強そうだったぞ!」

「あいつに頼めば魔王もイチコロなんじゃないか!?」


 酒場は、興奮と混乱のるつぼと化した。勇者の偉業など、もはや誰も話題にしていない。テーブルのあちこちで議論が勃発し、賭けが始まり、全ての関心は最後に現れた謎の掃除屋へと移っていた。


 こうして。ただ定時で帰りたかっただけの清掃員ザイードの名声は、本人の知らぬ間に大陸全土へ轟くことになったのである。翌日から、冒険者ギルドには「あの神速の清掃員を指名したい」「うちのパーティの護衛そうじがかりを頼む」という依頼が殺到し、ギルド職員が悲鳴を上げることになるのだが――それはまた、別の話。


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