『国賊宰相のやり直し憲政史 ~処刑されたので、今世は売国して海外逃亡を目指します。え、私が皇国の賢人? いえいえ売国奴です!~』
第3話:最初の裏金、そして最初の散財~俺の逃亡資金が民衆のパンに消えた件~
第3話:最初の裏金、そして最初の散財~俺の逃亡資金が民衆のパンに消えた件~
《税金。それは国民が国家に納める会費であり、社会を維持するための神聖な血肉である。》
《だが、シン・アベリオスにとっての税金とは、「自分の財布にナイナイしてもバレない魔法の小遣い」と同義語であった。》
◇
「いいか、カクザス君。ここだけの話だ」
薄暗い書記官室の奥。
私は声を潜め、共犯者となったカクザス・ヴァン・ドレンに密談を持ちかけていた。
机の上には、先日カクザスが徹夜で作り上げた裏帳簿のドラフトがある。
名目は『国家緊急災害対策費』。
だがその実態は、私の、私による、私のための海外逃亡資金だ。
「この予算は、表の会計には載せない。議会の承認も、大臣の決裁も必要としない、私が直接管理する『予備費』として計上したまえ」
私は極めて真剣な表情で告げた。
なにせ、私の老後がかかっている。一ガメルたりとも、ここ財務省に捕捉されてはならない。
「コードネームは『プロジェクト・ノア』だ」
「ノア……ですか?」
カクザスが眼鏡の奥の瞳を光らせた。
「ああ。来るべき『大洪水』に備えて、方舟を作るための資金だ」
(革命という大洪水が起きた時に、私一人だけが助かるための方舟賃――チケット代という意味だがな!)
我ながら完璧なネーミングだ。聖書の一節を引用するあたり、インテリジェンスも漂う。
だが、カクザスの受け取り方は違った。
彼はゴクリと唾を飲み込み、感動に打ち震えていた。
(『大洪水』……アベリオス先輩は、予見しておられるのか! 近い将来、この国を襲う未曾有の危機を!)
(国家存亡の時に備え、官僚機構の硬直した予算システムに縛られない、即応可能な『影の資金』をプールする……!)
(これぞ、真の危機管理! 自分の汚名を恐れぬ、愛国者の決断!)
「……承知いたしました」
カクザスは背筋を伸ばし、敬礼せんばかりの勢いで答えた。
「このカクザス、墓場まで持っていきます! 『ノア』の資金は、皇国の未来を守る最後の切り札として、厳重に管理いたします!」
「うむ。頼んだよ(俺の老後をな!)」
よし、これで第一段階はクリアだ。
あとは、チビチビと公金をこの口座に移し替え、数年後には数億ガメルを懐に入れてドロンするだけだ。
私は未来の安泰を確信し、優雅に紅茶を啜った。
この時はまだ、その金がまさか「あんな形」で消えるとは夢にも思わずに。
◇
事件が起きたのは、それから三日後の夕方だった。
「大変です! アベリオス先輩!」
カクザスが血相を変えて部屋に飛び込んできた。
私はちょうど、定時退勤の準備(五分前から鞄を持って待機)をしていたところだ。
「なんだい騒々しい。定時後の残業は、私のポリシーに反するんだが」
「そ、そんなことを言っている場合ではありません! 下町の『アリエ地区』で大規模な火災が発生しました! 風が強く、このままだと地区全体が全焼する恐れがあります!」
「ふーん」
私は生返事をした。
アリエ地区といえば、貧民街に近い木造密集地帯だ。火事が起きればよく燃えるだろう。
だが、それがどうした。
官僚の仕事は現場でバケツリレーをすることではない。後日、被害報告書をまとめて「遺憾の意」を表明することだ。
(早く帰って、買ったばかりの高級ワインを開けたいんだけどなぁ)
私はあくびを噛み殺しながら、壁の帝都地図をチラリと見た。
アリエ地区。アリエ地区……。
「ん?」
記憶の彼方で、何か重要な情報が引っかかった。
私は慌てて懐から『手帳』を取り出した。
『1600年4月4日 アリエ地区の土地権利書を底値で購入。後の再開発で価格は五十倍に』
そうだ。
私は昨日、この情報に基づいて、なけなしの貯金と借金をはたいて、アリエ地区の一角にあるボロ屋敷と土地を買い占めたばかりだった。
「……ま、待て」
私の顔から血の気が引いていく。
火事? 全焼?
「カクザス君。火元の位置はどこだ」
「えっと、三番街のあたりかと」
「風向きは?」
「北風であります」
北から南へ。
私の買った土地は、五番街。風下だ。
「燃える……」
私の口から、絶望的な呟きが漏れた。
「燃える……俺の土地が……俺の再開発計画が……俺の五十倍の含み益がぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
ガタッ!
私は椅子を蹴り倒して立ち上がった。
その形相は、先ほどまでの「定時退勤マン」とは別人のごとき、鬼気迫るものだった。
「カクザス! すぐに消防総監に連絡しろ! いや、私が直接行く!」
「えっ!? し、しかし先輩、我々は財務省の人間で、現場の指揮権限は……」
「知ったことか! 金だ! 金に糸目はつけるな!」
私は鞄を放り投げ、カクザスの胸倉を掴んだ。
「最新の蒸気ポンプ車を全台投入しろ! 非番の消防士も叩き起こせ! 水が足りなければ高級ワインでも何でも撒け! 被災者には見舞金をバラ撒いてでも、家屋を取り壊して延焼を防ぐんだ!」
私のあまりの剣幕に、カクザスはたじろいだ。
だが、彼は官僚としての正論を口にした。
「で、ですが予算がありません! そのような大規模な動員には、議会の承認が必要です! 今から手続きをしても、決済が下りるのは三日後……」
「三日後だと!? 灰になっちまうだろうが!!」
「で、ですが、無い袖は振れません!」
カクザスの言う通りだ。
国の財布の紐は固い。人の命や家よりも、書類の手続きの方が重いのが役所だ。
だが、私には「ある」。
今、この瞬間のために(違うけど)用意した金が。
私は歯を食いしばり、血の涙を流す思いで叫んだ。
「構わん! 予備費を使え! それでも足りないなら『ノア』を使え!!」
「ッ!?」
カクザスが息を呑んだ。
「『プロジェクト・ノア』……あの裏金をも、ですか!?」
「そうだ! あの金は、今この瞬間のためにあるんだぁぁぁ!!(俺の土地を守るためになァァ!)」
私の絶叫が、廊下に響き渡った。
(あああ! 私の逃亡資金! コツコツ貯めるはずだった私の楽園への切符!)
(でも、ここで土地が燃えたら、借金だけが残って破産だ! 背に腹は代えられん!)
だが、カクザスには、その悲痛な叫びが全く別の意味に聞こえていた。
(アベリオス先輩……!)
(貴方は、自らの政治生命を絶たれるリスクがある『裏金』を、惜しげもなく民のために……!)
(『今この瞬間のためにある』……そうか、貴方にとっての『大洪水』とは、民が家を失い路頭に迷う、その悲劇のことだったのか!)
「……承知いたしました!!」
カクザスの目から、熱いものが迸った。
「私が責任を持って執行します! この身に変えても、アリエ地区を守り抜いてみせます!」
「行けぇぇぇぇ! 一秒でも早く火を消すんだァァァ!」
◇
翌朝。
アリエ地区には、まだ白い煙が漂っていた。
だが、それは絶望の煙ではない。鎮火の煙だった。
カクザスの迅速な(金に物を言わせた)指揮と、最新鋭ポンプ車の投入により、火災は奇跡的にボヤで食い止められたのだ。
死者はゼロ。家屋の倒壊も最小限。
もちろん、私の土地も無事だった。
私は、煤けた瓦礫の中に立っていた。
朝日が昇り、私の顔を照らす。
私の頬には、止めどない涙が伝っていた。
「うっ……ううっ……」
私は膝から崩れ落ち、焦げた地面を両手で強く握りしめた。
「なぜだ……なぜこうなる……」
(計算書を見た。消火活動費、消防士への特別手当、延焼防止のための立ち退き料)
(『ノア』の口座は、綺麗さっぱり空っぽだ……)
(私の……私の老後が……灰になっちまった……)
喉の奥から絞り出すような、慟哭。
それは、全てを失った男の、魂の叫びだった。
だが。
「見ろ……官僚殿が泣いておられる……」
周囲を取り囲んでいた被災者たちが、ざわめき始めた。
彼らの目には、煤で汚れた顔で、地面にひれ伏して泣く私の姿が、まるで宗教画のように映っていた。
「聞いたか? お上が予算を渋る中、ご自分の私財を投げ打って、ポンプ車を手配してくれたらしいぞ」
「俺たちのボロ家を守るために、ご自分の事など顧みずに……」
「なんて慈悲深い方なんだ……!」
一人の老婆が、私の前に進み出て、震える手でハンカチを差し出した。
「アベリオス様……ありがとうございます。貴方様のおかげで、家族も家も無事でした。このご恩は、一生忘れません」
「うっ、ぐずっ……(金返せ……)」
「ああ、なんと尊い涙だ!」
わあっ、と歓声が上がった。
誰からともなく、拍手が巻き起こる。それはやがて、熱狂的なコールへと変わっていった。
「アベリオス! アベリオス!」
「ああ、なんと尊い涙だ!」
「アベリオス! アベリオス!」
「ち、ちが……私は……金が……」
シンは必死に否定しようとした。
だが、その声は熱狂的な歓声にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
「アベリオス万歳! 我らの守護者!」
「(やめろぉぉぉ! 万歳なんていらんから金をくれぇぇぇ!)」
朝日の中、民衆の歓呼に包まれて号泣する青年官僚。
その姿は、翌日の新聞の一面を飾り、彼の名声を不動のものとするのであった。
《民衆は歓喜した。シンは絶望した。》
《彼がこの日流した涙の量は、焼失した家屋を消火できるほどであったという。》
《なお、彼が必死に守った土地は、後の都市計画変更により「公園」として強制収用され、一ガメルの利益も生まなかったことは、言うまでもない。》
次の更新予定
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