第2話:未来の財務次官を騙くらかせ!~論文パクって同志認定~
《シン・アベリオスの朝は早い。》
《それは憂国の激務のためではなく、羽毛布団による二度寝の誘惑に打ち勝ってでも、いち早く出勤して職場の備品を私物化し、「裏金作り」に着手したいという不純かつ勤勉な動機によるものであった。》
◇
翌朝。
貴族院の廊下を歩く私の背中に、やけに突き刺さる視線を感じた。
「おい、見たか昨日のアベリオス」
「ああ。あのミハイルの膨大なミスを、たった一時間で片付けたらしいぞ」
「しかも、自分の手柄にせず、ミハイルを励まして帰したとか……」
「聖人かよ……俺、あいつのこと誤解してたわ」
(えっ、なんか褒められてる?)
(まあいいや。どうせミハイルは今日、憲兵にドナドナされてクビになるし)
周囲の評価など、今の私には馬の耳に念仏、いや、豚に真珠だ。
私の目的は一つ。
この職場で、私の代わりに面倒な計算をしてくれる「優秀な駒」を見つけることである。
書記官室に入ると、私は真っ先に部屋の隅へと目を向けた。
日が当たらず、埃っぽい資料の山の陰。
そこに、分厚い眼鏡をかけた陰気な男が、ブツブツ言いながら書類を睨みつけている。
カクザス・ヴァン・ドレン、二十一歳。
現在は窓際族の書記官補佐だがこの男は大化けする。
(前世では、私が財務大臣になった頃には、彼は既に過労で胃を壊して引退していたんだよな……)
だが、今の彼はまだ若い。
つまり、まだ胃は元気だし、こき使っても壊れないということだ!
(よし、決めた。彼を私の腹心にしよう。そして面倒な予算計算と、裏帳簿の作成を全部丸投げしてやる!)
私は邪な決意を胸に、彼の背後へと忍び寄った。
◇
その時、カクザス・ヴァン・ドレンは戦慄していた。
彼の手にあるのは、昨日の夕方、シン・アベリオスが無造作にゴミ箱へ放り投げた書類の束である。
ミハイルが残した、計算ミスの山のような決算書。
それを、シンが修正したものだ。
「な、なんだこの処理は……!」
カクザスの眼鏡がカチャリと鳴る。
「本来なら三日かかるはずの『需品費』と『雑費』の仕分けが……全て『その他』の一項目に統合されているであります!」
「しかも、監査が入った時に言い訳ができるギリギリのラインで、
カクザスは震える指で書類をめくった。
そこにあるのは、官僚的な煩雑さを極限まで削ぎ落とし、結果だけを合わせるという、大胆不敵な剛腕ぶりだった。
「これは……天才の所業であります!」
「不要な形式主義へのアンチテーゼ! 腐敗した財務省の慣例をぶち壊す、無言のメッセージ!」
「アベリオス先輩……貴方は、こんな能力を隠していたのか……!」
《解説しよう。シンは単に「細かく計算するのが面倒くさい」という理由で、全ての端数を「その他」に突っ込み、適当な理由をでっち上げただけである。》
だが、堅物すぎるカクザスには、その「適当さ」が「革命的な合理性」に見えてしまったのだ。
「……やぁ、君がカクザス君だね?」
背後から声をかけられ、カクザスは飛び上がった。
振り返ると、そこには朝日で逆光になったシン・アベリオスが立っていた。
「ア、アベリオス先輩……! な、何かご用でしょうか」
カクザスは身構えた。
天才的な実務能力を持ちながら、それを隠して窓際族を演じる男。
一体、何を考えているのか。
シンは優雅に(と本人は思っているが、実際は獲物を狙う詐欺師の目で)微笑んだ。
「君の論文、読ませてもらったよ」
「えっ? ろ、論文? 私はまだ何も発表して……」
「書こうとしているんだろう? 君の頭の中で」
シンは自分のこめかみをトントンと指差した。
そして、昨夜のうちに『手帳』で暗記しておいた、カクザスが十年後に執筆してベストセラーになる名著『財政均衡論』の冒頭部分を、朗々と語り始めた。
「君はこう考えているはずだ」
「『国家の予算とは、単なる無機質な数字の羅列ではない』」
「『それは、汗水たらして働く民の血税であり、いわば国家という巨大な肉体を循環する血液そのものである』」
「『故に、一ガメルの無駄遣いも、それは民の血をドブに捨てるに等しい行為である』……とね」
ドカーン!
カクザスの脳内で、雷が落ちたような衝撃が走った。
「な、な、なぜそれを……!?」
それは、カクザスが毎晩、安酒を飲みながらノートの端に書き殴り、誰にも見せていなかった思想そのものだった。
いや、カクザス自身ですら言語化できていなかった想いを、シンは完璧な文章として提示してみせたのだ。
「奇遇だね、カクザス君。私も全く同じことを考えていたんだ」
シンは一歩踏み出し、カクザスの手を取った。
その手は熱く湿っていた。
「私は探していたんだ。この腐敗しきった財務省で、数字の向こうにある『真実』を見ている男を」
「今の財務省を見たまえ。貴族たちは利権を貪り、軍部は予算を食いつぶす害虫だ。誰も、この国の未来(と私の老後資産)のことなど考えていない!」
シンの演説に、カクザスの視界が涙で滲む。
(ああ、なんということだ……!)
(孤独だと思っていた。この国を憂いているのは、私一人だけだと絶望していた)
(だが、いたのだ。こんな近くに。私よりも深く、鋭く、この国の病巣を見抜いている同志が!)
「アベリオス先輩……貴方は……」
「カクザス君。私と一緒に来い」
シンは、プロポーズのような殺し文句を放った。
「君のその優れた頭脳(と生真面目さ)を、私の野望(裏金作り)のために使ってみないか?」
「二人で変えよう、この国を。……私のために!」
(最後の「私のために」が聞こえなかったのは、カクザスの嗚咽が大きすぎたせいである)
「はい……っ! 喜んで! この命尽きるまで、貴方にお仕えします!」
カクザスは、眼鏡を涙で曇らせながら、シンの手を両手で握り返した。
その握力は凄まじく、シンは「痛っ」と顔をしかめたが、カクザスには「決意の表情」に見えていた。
(勝った! チョロすぎる!)
(これで面倒な計算書類も、違法スレスレの帳簿操作も、全部こいつに「改革だ」と言って押し付けられる!)
(私の優雅な昼寝ライフが確定したぞ!)
シンは心の中でガッツポーズをした。
(この方となら……この方とならば、腐った財務省を立て直し、皇国の未来を救えるかもしれない!)
(アベリオス先輩、貴方は私の光だ!)
カクザスは心の中で崇拝の念を燃え上がらせた。
《こうして、稀代の詐欺師と、稀代の堅物が手を組んだ。》
《動機は真逆、見ている未来も別々。》
《だが、この瞬間、ノマルーク皇国の財政史に、修復不可能な致命的な誤りが生じたのである。》
《なお、カクザスはこの日から、シンの「適当な指示」を全て「深遠な政治的配慮」と超解釈し、死ぬ気で働き始めることになるのだが――それに気づくのは、彼が過労で倒れる遥か未来のことである。》
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