第2話 君は誰?
高校は駅から十分ほど歩いた場所にある。普段なら余裕を持って登校するんだけど、あの不思議な体験のせいで、今日はいつもより遅く学校に着いた。おまけに、結局コンビニで飲み物を買う余裕すらなかった。……ほんと、嫌な朝だ。
スライド式の教室の扉を開け、朝から騒がしいクラスの中に入ると、出席番号順に並んだ自分の席に腰を下ろす。すると、前の席に座っている
「奏馬が来る時間にしては遅くないか? 珍しいな。なんかあった?」
俺は普段、だいたい三十分前には学校に着いている。特別な理由があるわけでも、早く来てやることがあるわけでもない。ただ、朝は早めに動きたいタイプなだけだ。
「いや、実はさ。めちゃくちゃ変な体験してさ」
俺は少し身を乗り出し、真面目な顔で拓哉を見る。
「消える狐に出会ったんだよ」
「は?」
案の定、拓哉は困惑したような表情を浮かべた。でも、そんな反応は想定内だ。今の俺は、とにかくあの出来事を誰かに話したくて仕方なかった。
「最寄りの学園町駅あるだろ? 学校行く時、北口から出るじゃん」
「出るな」
「で、ロータリーの手前。ちょっと広場みたいに開けてる場所あるだろ」
「あるな。あの、訳のわからないオブジェクトが置いてあるとこ」
ああ、確かにある。鉄の円柱が何本か突き立てられて、アーチみたいになってるやつ。あまりにも見慣れすぎて、普段は気にも留めてないけど。
「そうそう。それそれ。あのオブジェクト、誰のセンスなんだろうな――って、今はその話じゃない!」
思わずノリでツッコミを入れてしまう。拓哉は、それがツボに入ったのか、楽しそうに口を開けて笑っていた。
「拓哉、こっちは真剣なんだぞ」
「すまんすまん」
……よし、気を取り直そう。
「それでさ。いつも通りの時間に駅に着いて、いつも通りコンビニで飲み物買ってから学校行くつもりだったんだ。でも、なんとなく、その謎オブジェクトがある駅前広場に目がいってさ」
「ほう、それで?」
「そこに狐がいたんだよ。しかも、あちこち傷だらけの狐が」
少し興奮気味に話しているのに、拓哉は「ふーん」と鼻を鳴らすだけで、いまいち乗ってこない。それでも、一応は聞いてくれている。
「で、どうしたんだ? その傷だらけの狐。さすがに放っておくわけにもいかないだろ。周りの人も気づくんじゃないか?」
「そう思うじゃん。でもさ、周りは誰も気にする様子がなかったんだよ。まるで、見えてないみたいに」
その言葉に、拓哉は少し訝しげな目で俺を見る。
「そりゃそうだろ。狐なんて、この辺りじゃまず見ないし。奏馬の見間違いじゃないのか?」
「俺も最初はそう思った。でも、実際に触ったし、血だらけの狐を抱えたんだ。体操着で包ったら、ちゃんと血で真っ赤になったし」
「何それ、グロいな」
「いや、グロいって言うなよ。そこは普通、可哀想って言うとこだろ」
……いや、まあ。
冷静に考えたら、確かにグロいかもしれない。
「それで? 助けた狐はどうしたんだ? まさかバッグの中に詰め込んできたとか?」
「よりグロくなってるじゃん……そんなわけないだろ」
拓哉、もしかしてサイコパスなのか。どうしてその発想に辿り着くんだよ。
とにかく、話を戻そう。
「とにかく、その狐を助けたんだ。でもさ、急に右手を噛まれて。痛くて思わず振り払ったんだよ。そしたら――少し目を離した隙に、狐が消えてた」
「……奏馬さ、覚醒剤とかやってないよな? 今ちょうど話題だし」
「やってないわ!」
まあ、こうなるよな。
俺にしか見えていなかった可能性だってあるんだし。
「じゃあ、血に染まった体操着とか、噛まれた傷とか。そういう証拠はあるのか?」
「それがさ、狐が消えたのと同時に、血も傷も全部なくなってて……何も残ってないんだ」
しばらく、気まずい沈黙が流れる。
「……やっぱり奏馬、覚醒剤やってるだろ。お父さん警察官なんだし、そのうち捕まるぞ」
「だから違うって! 本当にあった出来事なんだって!」
結局、信じてもらえなかった。
まあ、無理もない。物的証拠は何もないし、傷跡すら残っていない。これで信じろって方が無茶だ。
それでも、不思議な体験だったのは間違いない。誰かに話せただけでも、少し気が楽になった。
今は、それでいいことにする。
俺は席をスッと立ち上がった。
「どこ行くんだ? 薬が切れたか?」
「そろそろ覚醒剤の話から離れてくれよ……トイレだよ、トイレ」
そう言いながら、ガラガラと教室の扉を開ける。
「おう、そうか。でも、あと五分で予鈴鳴るから、早く戻れよ。先生うるさいぞ?」
「了解」
教室を一歩出ると、廊下はまだ騒がしかった。ギリギリで登校してくるやつ、他のクラス同士で固まって喋ってるやつ。廊下に並ぶロッカーをガサガサと漁りながら、一限目の準備をしている人もいる。
俺はその中をすり抜けるようにして、さっさとトイレへ向かう。用を足して、手を洗い、少し乱れた髪を整える。
よし、と気持ちを切り替えて、教室に戻ろうと振り返った――その時だった。
「やあ、少年」
背後から、突然声をかけられる。
振り返ると、そこには二本の尻尾をふりふりと揺らす狐が立っていた。
「え、あ、へ?」
思わず、変な声が出る。
でも、見間違いなわけがない。駅前広場で、血だらけになって倒れていた、あの橙色の二本尾の狐だ。
なんで、こんなところにいる。
それに、あれだけボロボロだったはずなのに、今は傷ひとつなく、何事もなかったみたいに、ちょこんと座っている。
「助かったよぉー、少年。君のおかげで、ボクは命拾いをしたんだ。君に助けられなかったら、間違いなく死んでたと思うよ!」
俺は気が動転しすぎていて、状況を整理できなかった。
わけがわからない。何がどうなってる。それ以前に――喋ってる。
「あれぇ? 突然現れて、いきなり喋り出したから、やっぱり驚いちゃったかな? ごめんねごめんね、悪気はなかったんだよ。でもさ、どうしても我慢できなくてさ。だって君、ボクの命の恩人なんだよ? あのままだったら、本当に本当に死んでたと思うんだ。冗談じゃなくてね。だから、ちゃんと君にお礼を言わなきゃって思ったんだ。普通さ、ボクみたいな存在の姿はニンゲンには見えないんだよ。見えないし、気づかれないし、声も届かない。それが当たり前なんだけど……君は違った。君だけは、ちゃんとボクを認識してくれた。見て、触れて、助けようとしてくれた。だから今、ボクはここにいるんだ。こうして話しかけてるんだよ」
だんだんと、周囲の音が遠のいていく。
さっきまで聞こえていた廊下の話し声や足音が、気づけばほとんど耳に入らなくなっていた。視界も、意識も、目の前の狐に引き寄せられていく。
まずい。
こんなことをしている場合じゃない。早く教室に戻らないと、もうすぐ授業が始まってしまう。
そう頭では分かっているのに、体が動かない。
狐の声が、思考の隙間に入り込んでくる。
「あ、やっぱり気になるよね? ボクが何者なのか。うんうん、その顔を見れば分かるよ。でもね、その話をする前に、まずは感謝を受け取ってほしいんだ。それがボクの気持ちだから。それとさ、君の名前を教えてほしい。名前って大事でしょ? 君のことをちゃんと知りたいんだ。どんな人で、どんなことを考えてて、どんな毎日を送ってるのか。知って、考えて、学んでさ。そしてね、できるなら君の力になりたいんだ。命を助けてもらったんだから、それくらいさせてほしいな!」
言葉を返そうとして、口がうまく動かない。
何度か、無意味に口を開いたり閉じたりしていると、狐が不思議そうに首を傾げた。
「どうしたんだい? 何か言いたいことがあるのかい? うん、ぜひ聞かせてほしいな。君の言いたいこと、考えてること、すごく気になるよ。さあ、言いたいこと、考えてること、ボクに対して思ってることを、全部話してみてよ!」
その距離の近さに、背筋がひやりとする。
逃げ場がないわけじゃない。走ろうと思えば、いくらでも走れる。なのに、足が動かない。
俺はわずかな恐怖を押し殺し、喉を鳴らしてから、意を決して狐に問いかけた。
「君は、誰?」
一瞬、空気が止まったような沈黙が落ちる。
狐はその沈黙を楽しむみたいに、じっと俺を見つめていた。
やがて、狐はぱっと表情を緩め、心底嬉しそうに笑う。
「君は、誰か。うん、とてもいい質問だよ。結局さ、ボクはさっきから長々と喋っておきながら、自分のことは何ひとつ話してなかったからね。そりゃ気になるよね。ボクは何者なのか、ボクの正体は何なのか。なんであんなに傷ついてたのか、どうして君の手を噛んだのか。全部まとめて詰め込まれた、すごくいい質問だと思うな!」
狐はそこで、わざとらしく一拍置く。
まるで、答えを引き延ばすこと自体を楽しんでいるみたいに。
「ボクの名前は――――。と言っても、そのままじゃニンゲンの耳には聞き取れない言葉だろうね。だからさ、君が呼びやすい名前を、好きにつけてくれていいよ」
狐は尻尾を揺らしながら、少し得意げに続ける。
「それで、ボクの正体だけど……そうだな。季節を司る化け物、妖怪、魔物、悪魔。あるいは神。君たちニンゲンの言葉で言い換えるなら、そのどれかになるかな!」
冗談みたいな口調なのに、笑って受け流せる空気じゃなかった。
もしかしたら俺は、とんでもないことに巻き込まれてしまったのかもしれない。いや、もうすでに巻き込まれている。そう考えた方が、たぶん正しい。
その時だった。
さっきまでやけに楽しそうだった狐が、急に表情を引き締める。軽かった声の調子も、わずかに低くなった。
「君は命の恩人だ。だから、死んでほしくない。今は、ボクの言葉を信じてほしい。トイレから出て、廊下に行った方がいい」
理由を聞く余裕なんてなかった。
俺は言われるがまま、恐る恐る一歩を踏み出し、トイレの外へ出る。
――そこで、異変に気づく。
誰もいない。
いや、人だけじゃない。話し声も、足音も、気配そのものが消えている。生き物がそこにいるはずの、あのざわついた感じが、どこにもない。
もう一限目は始まっている時間のはずだ。
なのに、学校全体が、空っぽになったみたいだった。
それに、景色がおかしい。
廊下の壁も床も、どこか青白く染まって見える。蛍光灯の光とは違う、冷たい色だ。
振り返ると、狐は俺の後ろから、呑気そうにトコトコと歩いてトイレを出てきていた。そして、廊下の奥をじっと見つめる。
「――来たな」
その一言に、胸が嫌な音を立てる。
俺も釣られて目を凝らし、廊下の奥を見る。
そこにいた。
青々とした、一匹のイルカ。
床でも水中でもないはずなのに、まるで空気を水に見立てるように、ゆったりと泳いでいる。
「逃げた方がいいよ。死にたくないなら」
狐がそう言った瞬間、ふっと姿が消えた。
……嘘だろ。
何がどうなってるんだ。
さっきまで確かにそこにいた狐が消えて、学校から人の気配が消えて、目の前には青色のイルカが泳いでいる。
理解が追いつくよりも早く、異変は次の段階に進んだ。
その瞬間――イルカは、イルカとは思えないほど大きな口を開き、鋭い牙を覗かせる。そして、一直線に俺へ向かってきた。
本能が叫ぶ――逃げろ。
俺は、反射的に走り出していた。
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