季節の獣を殺す少年
しろおび
第1話 二本の尾の虚な狐
電車の窓から見えるのは、雲ひとつない晴れた空。
それだけなら気分もいいんだけど、10月初頭だっていうのに、一向に寒くなる気配がない。相変わらず暑い。正直、そろそろ冷えてくれないと、汗っかきな俺にとっては死活問題だった。
なかでも通学の満員電車がきつい。中学を卒業して高校に入学し、気づけばもう半年。それでも、この混雑にはまったく慣れない。家から乗る最寄駅はそこまででもないが、二つ前に複数路線が交わるターミナル駅がある。しかも進行方向は都会側。そのせいで、座れる可能性は最初からゼロだ。
人と人の隙間で息が詰まらないよう、スクールバッグを胸の前に抱え込み、わずかな空間を確保する。少しでも風の通り道を作らないと、体の内側に熱が溜まり、じわっと汗が滲んでくる。学校に着く頃には汗だく。そんなみっともない状態で一日を始めるなんて、勘弁してほしかった。
『本日の天気は、雲ひとつない快晴となるでしょう。気温は未だ高く、26度を予想しています』
電車内のテレビ――トレインビジョンっていうらしい――に、そんなテロップ付きの天気予報が流れる。続いて一週間分の予報が映し出されるけど、並んでいる数字はどれも高いままだ。いい加減、どうにかしてくれ。
スマホを取り出して操作する余裕すらない満員電車では、この電車内テレビが唯一の暇つぶしだ。合間に流れる広告を眺めながら、きっと宣伝効果は相当なんだろうな、なんてどうでもいいことを考える。
『――西町にて、タレントの――――氏が覚醒剤の所持。麻薬取締法違反の疑いで逮捕された問題。付近では、売人とのやり取りをしている姿が――』
ほんと最近、やけに多い気がする。どうしてこんなにも薬物に手を出す人間がいるんだろう。普通に生きていれば、覚醒剤や大麻なんて縁がないはずだし、仮に誘われたとしても、買おうなんて思わない。画面に映るニュースをぼんやり眺めながら、どうしてもその感覚だけは理解できなかった。
それに、流し見していたせいで気づかなかったけど、西町って学校のある駅の隣じゃないか。なんか嫌な感じだし、少し気をつけた方がよさそうだな。
『まもなく、学園町〜。学園町です。お降りのお客様は、お忘れ物がないようお気をつけ下さい――』
家の最寄駅から揺られること三十分。ようやく学校の最寄り駅に着いた。
ドアが開くと、同じ制服を着た学生たちが一斉に動き出す。俺もその流れに押されるように、スクールバッグを前に抱えて電車を降りた。
満員電車から抜け出せたと思った瞬間、他の学生とぶつかり、思わずよろける。その拍子に、スクールバッグの小さなポケットから生徒手帳が落ちた。
俺は慌てて足元にしゃがみ込み、通行の邪魔にならないよう手早く拾い上げると、そのままバッグの中に突っ込んだ。
階段を下りて一階の改札を抜け、北口へ向かう。ロータリー前のコンビニで飲み物でも買っていくか、なんて考えていた時だった。
ふと、駅前広場に目が向く。
――そこに、一匹の橙色の狐が倒れていた。
なのに、周りの人たちは誰一人気にも留めていない。狐の横を、何事もなかったかのように通り過ぎていく。足を止める様子も、視線を向ける気配もない。
……見えていないのか。
それとも、見えていて無視しているだけなのか。
一瞬、頭の中にそんな考えが浮かぶ。でも、次の瞬間には体が動いていた。理由なんて考える前に、俺は狐のもとへ駆け寄っていた。
近づいて、ようやく分かる。
狐の体には、無数の傷があった。噛み傷に、切り傷、擦り傷。どこを見ても血にまみれていて、まともに動ける状態じゃない。
俺は反射的にスクールバッグを下ろし、中から今日使う予定だった体操着を引っ張り出す。そのまま、傷ついた狐を包み込んだ。じわじわと血が滲み、白い布が赤く染まっていく。
その時、周囲の視線に気づく。
通り過ぎていく人たちが、俺を訝しげに見ていた。
なんでそんな目で見るんだよ。
おかしいのは、どう考えてもそっちだろ。
こんな状態の狐を見て、何も感じない方がどうかしてる。そう思うと、胸の奥がざわついた。
俺はスクールバッグと狐を抱え、人気の少ない高架下の路地裏へ向かって走り出す。逃げるように、ただ前だけを見て。背中に突き刺さる視線から、少しでも離れたかった。
息を切らしながら路地裏に辿り着き、ようやく足を止める。
スクールバッグを下ろし、狐を包んだ体操着をそっと地面に置いた。
改めて様子を確かめる。
胸が小さく上下している。ちゃんと息をしている。生きている。それだけは、はっきり分かった。
けど、疑問が残る。
なんで、こんなところに狐が倒れているんだ。
近くに森なんてない。あるのはアスファルトで固められた地面と、コンクリート造りの集合住宅、それに建売の住宅が並ぶだけだ。せいぜい人工的に整えられた、公園の緑くらいしか思い当たらない。そんな場所に、狐が一匹だけいるなんて、どう考えても不自然だった。
それに、これからどうすればいい。動物病院に連れていくべきか。
でも、このまま学校を放っておくわけにもいかない。
考えがまとまらないまま、狐を見下ろしていると、尻尾がぴくりと動いた。
そこで、ようやく気づく。
……尻尾が、二本ある。
そんな狐、聞いたことがない。
けど、俺は確かに触っているし、怪我もしている。血だって流れている。幻覚や見間違いってわけでもなさそうだった。
その瞬間、さっき頭をよぎった考えが、もう一度浮かび上がる。
『見えていないのか』
『それとも、見えていて無視しているだけなのか』
もしかすると、これはただの狐じゃないのかもしれない。俺にしか見えていない存在。そう考えると、背中にひやりとしたものが走る。
まるで、妖怪に化かされているみたいで――。
――その時だった。
狐が突然、跳ね起きたかと思うと、俺の右手に噛みついた。
「――イテッッツ!」
思わず声が漏れる。路地裏の向こう、大通りの方から何人かの視線を感じたけど、今はそれどころじゃない。
狐は噛みついたまま、まったく離れる気配がない。
俺は必死に腕を振り、大きく手を振り回して引き剥がそうとする。
「離れろよッ!」
思いきり振り抜いた瞬間、痛みがふっと消えた。どうやら、ようやく噛むのをやめたらしい。
もう二度と、こんなのを見ても助けてやるもんか。そんな考えが一瞬よぎる。でもすぐに、動物相手にそこまでムキになるのも違うだろ、と自分に言い聞かせた。
俺は噛まれたはずの右手を見る。
……けど、そこには傷跡ひとつない、何事もなかったかのような手があるだけだった。
「え、どういう――!?」
驚いたのは、それだけじゃない。
辺りを見回しても、狐の姿がどこにもない。
いやいや、それだけじゃない!
狐を包んで、血で真っ赤に染まっていたはずの白い体操着も、いつの間にか真っさらなまま、綺麗な白色に戻っている。
一体、何が起きたんだ。
さっぱり意味が分からない。
確かに、あの狐には実体があった。俺は触ったし、抱えたし、助けようとした。
なのに、近くに生息しているはずもない場所で、尻尾が二本あって、しかも俺以外には見えていなかったかもしれない。
俺は一体、何を助けようとして、
そして、何に噛まれたんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます