ひとりたび
幼い頃から、ふとした瞬間に脳裏をよぎる光景がある。だだっ広い真っ青な草原の真ん中に一人たたずむ光景である。
それが脳内のスクリーンに映し出されるといつも、行ってみたいと思うのだが、どこにあるのかは分からなかった。いや、忘れているだけなのかもしれない。まだ知らないだけかもしれない。夢で見たのかもしれない。海外なのかもしれない。前世なのかもしれない。考えるたびに、あらゆる可能性がほつりほつりと浮かび上がってくる。
しかし、小学生の頃だったか中学生の頃だったか定かではないが、理科の教科書に掲載されていた秋吉台の写真を見て私ははっとした。ここだ! ここに行ってみたい!
果てまで続く広大な草原、ところどころに姿を現す石灰岩、そして何より青空と緑のコントラストが美しい。こんなところが日本にあるのか。一目惚れだった。食い入るように写真を見つめ、授業中もちらちらと秋吉台の写真のあるページを見ていた。
あれから何年か経っただろうか。いよいよ秋吉台へ行こうと思い立ち、私は玄関を開け放った。
秋吉台へと向かうバスの外を見やると、石州瓦が夏の陽射しに赤く輝いていた。つやつやとした屋根がまぶしい。田んぼの緑に映えている。静かな夏の田舎という感じが好きだ。
新山口駅を出てから三十五分ほど経った頃、秋芳洞のバス停へと到着した。山間だからだろうか。思ったより涼しい。しかしやはり夏だ。熱中症対策のため自販機で水を購入し、帽子を被った。観光交流センターで軽く案内を受けると、私は秋芳洞へと歩みを進めた。
秋芳洞の入り口が近づくと、より涼しく感じた。洞から流れ出る渓流のおかげだろう。あ、魚だ。名前は分からないが、水の中がはっきりと見える。山口の水はきれいだ。
そして秋芳洞へと入った。涼しい。汗がすうっと引いていくのがよく分かった。ここが日本一の避暑地だろう。
濡れた石に足を滑らせないよう、一歩一歩歩みを進める。転んで石に頭をぶつけでもしたらたまったもんじゃない。遅くていいから安全第一で行こう。すれ違う子ども――おそらく小学生だろう――にぶつからないよう、気をつけながら三億年の神秘に触れる。お前はあの時代を知っているのか。そう尋ねたとして答えてくれるはずもないが、人類が知らない歴史を自然は知っているのかもしれない。もし自然と対話できたら、ミステリアスな歴史の謎を解き明かすことができるかもしれない。
そんなことを考えながら周囲を見ると、思っていたよりも家族連れが多いような気がした。思えば夏休みか。すっかり忘れていた。もうそんな時季か。
何人かのグループで来ている人も多いように見えた。山口県でも屈指の名所なのだから当然だろう。
しかしそんな雑踏の中で私は一人だった。大勢の人々がいる中で、私に連れはいなかった。他にも一人旅で来ている人はいたようだが、私は私で一人であり、独りだったのである。
集団の中で感じる孤独とはまた違った孤独である。百人いる中で、自分以外の九十九人のグループと一人というような孤立感、疎外感ではない。大都会の駅を一人で歩いている時のような感覚。周りには一人で列車を待つ人、二人でこれからの予定を話し合うカップル、三人で笑い合っている友人グループ、一人タイピングを続ける仕事人、四人組の家族連れ、……。そういった各々がある中の一人というような孤独感である。
孤独には二種類あるのだ。
洞内を一通り見終え、いよいよ秋吉台へと向かった。今まで一番見たかった景色にやっと会える。そう思うと、自然と心が高鳴った。
展望台から見る秋吉台は圧巻だった。あちこちに石灰岩を装った緑の大地は、夏の碧空の果てへとどこまでも続いていた。三億年以上の記憶を前に私の語彙は無力だった。この光景、なんと言葉で表せようか。写真で見るのとは訳が違う。自分の目で、生で見てこそ、その美しさが分かるのだ。
展望台からぼんやりと眺めていると、小道が続いているのが見えた。どうやら歩けるコースがあるらしい。
ここまで来たからには歩いておきたいよな。脳内会議が全会一致で可決すると、私は秋吉台へと踏み出した。
その瞬間、さっきまで感じていた孤独はどうでもよく思えた。雄大な秋吉台を前に、私の不安やら悩みやらは非常にちっぽけなものだった。私は夏の陽射しに溶かされ、秋吉台と一体化しているようだった。私は確かに一人だったが、独りではなかったのである。
夏の秋吉台は静かだった。ジーっという虫の鳴き声と、時折さらりと吹く風、カルストロードを行く車の音、……。聞こえるといってもそのくらいで、その静けさこそが私を包み込んでいる。それがとても心地よく、ずっとここに住んでいられそうとも思った。
しかしそんな住まいにも訪問者があった。真夏の陽射しである。暑い。くそ暑い。三十度、いや三十五度を超えていること間違いない。気温十七度の秋芳洞の二倍はあるだろう。いや、待て。気温に倍という表現は正しいのか? そう自問したが、雄大なカルスト台地にとってはどうでもよい。晴れたからこそ、この景色を見ることができたのだ。晴れて結構。暑くて結構。
しばらく歩みを進めると、「うわ、最高……」という言葉がこぼれ出てきた。緑の台地と石灰岩、そして上空にたなびくすじ雲。これだよ、これ。私はここに来たのだ。その記録を残そうと、何度も何度もシャッターを切った。後で判明したことだが、秋吉台で撮った写真は百二十枚を超えていた。秋芳洞を除いても。
小道のそばの木陰で涼んでいると、ふと思い出すことがあった。何年も前に見た夢のことである。ススキが生い茂る秋野の真ん中で、とある女性と抱きしめ合う夢。もしかすると、その場所はここか? 秋の秋吉台か? いや、車から降りてから抱きしめ合っていたから、車で入れないここは違う。カルストロードの可能性もあるが、夢で見た道は舗装されていなかった。坂ではなく平らで、石ももっと小さかった。ここじゃないか……。でも、近しいものはある。秋吉台へ行ってみたいという思いが、あの夢を形作っていたのかもしれない。それならばあの女性は誰だ? 会ったことないぞ? 秋吉台の精霊か? そう思って辺りを見回したが、ジィーと虫が鳴き、さらりと風が頬を撫でるだけで、人の気配はなかった。
でも、なんだか懐かしい。思い出すたびに懐かしく、そして愛おしい。それと同時に、私は草原が好きなのだろうかとも思う。昔からふと脳裏をよぎるあの草原、かつて見た夢、秋吉台に対する感動、……。そうかもしれない。私はこういう草原風景が好きなのかもしれない。今度は四国カルストとか平尾台とか行ってみようか。
それに、自分なりの日本三景を選ぶのも面白そうだ。秋吉台は確定で入るな。あと二つはどこだろう。宮島? 天橋立? 松島? 大沼? 三保松原? 耶馬溪? 姨捨? 上高地? それとも……。いや、これからの旅で探そう。それもいいだろう。
山陽本線普通列車に揺られながらうたた寝をしていると、おそらく部活終わりだろう高校生が乗車してきた。坊主頭に大きなバッグ、野球部だろうか。今日も部活お疲れさん。心の中でそっと彼に語りかける。
そして窓の外のホームを見やると、三人の子供たちと家路を急ぐ父母の姿があった。何を話しているのだろう。彼らの今日の夕飯は何だろう。そんな考えがふと浮かんできた。
新幹線も特急列車も使わず、旅先を普通列車で移動する。その良さは安さだけではない。旅先の土地に住む人々の日常を垣間見ることができるという点もまた、普通列車の良さであり、旅の醍醐味である。
次はどこへ行こうか。秋吉台からの帰り道、もう次の旅は始まっていた。
行ったことのない場所へ行きたい。四十七都道府県の全てを訪問したい。あらゆる土地の日常を見てみたい。
それに、今まで行ったことのある場所でも、時間やお金などの都合で「また今度」とした場所もある。宮島には行ったが弥山には登っていないし、京都には行ったが金閣寺にも銀閣寺にも行っていない。
一人旅で気ままにする旅もいい。誰かとわいわい話しながらする旅もいい。
でも今までずっと一人旅だったから、次は誰かと来てみてもいいかもしれない。
「また今度」にした場所を、誰かと一緒に。
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