朱と空白の路線図

 同じ駅を二度通ってはならない。

 それが僕の旅ルールだった。幼い頃に見た「最長片道切符の旅」に憧れて設けたマイルール。一筆書きの如く鉄道を乗りこなし、いかに充実した旅をすることができるか。それこそが僕の旅の至上命題だった。

 この一筆書きの旅はルート設定の時から始まっている。行きたい場所はどこか、乗ってみたい列車はあるか、食べてみたいものは何か、……。そんなことをあれこれと考えながら、それは一筆書きで制覇できるのかと自問自答する。

 できなければまた次の機会に。限られたルールの中で最大限の満足を得ようとするのは、ミクロ経済学で言うところの予算制約に似ている気がした。そういえば、旅には予算の制約もある。

 そういう「縛り」があるからこそ面白いのだ。

 金を湯水のように使うのはどうにも好きになれないし、言葉を選ばずに言えば品がない。

 時間もまた有限で、働きたくないとは言っても旅の資金を得るためには仕事をしなければならない。

 書き出せば書き出すほど首が回らなくなるように思えるが、そういう「縛り」こそが面白くする。

 それは旅に限らない。

 サッカーで手を使えるのがキーパーに限られるように、バレーボールで三回以内にボールを相手に返さなければならないように。




 それに、ルートによっては旅が一枚の切符に集約されることもある。自宅の近くは無人駅で、切符は降りる時車掌に渡すか、駅に設置された回収箱に入れるのが普通だ。しかし、僕は旅から帰ってきたときは記念にもらいたいと申し出て、自室のファイルに保管する。

 時折ファイルを眺めると、あの時の旅の記憶が鮮明に蘇ってくる。車内で食べた駅弁、のどかな田園風景、重要文化財に指定された寺社仏閣、たまたま同じ列車に居合わせたおばあちゃんとの会話、……。そういうあの日の思い出がほつほつと脳裏に浮かび上がってくるのだ。


 そしてもう一つ僕が記録しているものがある。時刻表の路線図だ。旅から帰ってくると、初めて今回の旅で乗った路線の区間を赤いマーカーで色付けする。こうすると今まで乗った区間が可視化されて旅の記録として残る。一方で乗ったことのない区間も浮かび上がってくるので、今度はここに行こうと新たな旅の計画が思い浮かぶのだ。それに何といっても路線図が塗られていく満足感。これだけ乗ったのだという満足感、充実感が僕の心をくすぐるのである。




 よし、今回も我ながらいいルートだった。赤く塗られた路線図を眺めて少し頬が緩んだ。自画自賛である。

 しかし、胸の奥で何かがドクッと蠢いた。なんだろう、この違和感。なんだか気持ち悪い。もう一度、路線図を見た。黒は幹線、青は地方交通線、赤白は新幹線、そして僕が塗った赤マーカー、……。しばらく眺めて、僕は違和感の正体に気がついた。マーカーの塗られていない区間。同じ駅を通るからと、旅のルートから除外した区間だった。

 確かに、すべての路線を乗り尽くしてみたいという思いはある。でも同じ駅は二度通りたくない。だからこそ、この赤く塗られていない部分を見ると、身体を触られたようにぞわりとした感じがする。

 でも、単に乗ったことがないから乗りに行くというのは僕の美学に反する。一筆書きで、同じ駅を二度通らない。それが僕の旅だ。


 本当にそれでいいのか?


 もう一人の僕が、目の前の時刻表が言った。自分の美学に反するから乗らないのか?


 僕はぱたりとそれを閉じてしばし考えた。



 同じ駅を二度通らない。同じ区間を二度通らない。それは確かに美しい。でも、それは「乗る」という行為でしかなかった。一度乗ってしまえばそれでいいというだけの。

 それでいいわけないだろう。それを旅と呼べるわけないだろう。

 だからマイルールのことは一度忘れて乗り尽くしの旅をすることにした。盲腸線。行きと同じ区間を帰る。これまでの旅と違う感覚に、ムズムズ違和感を覚えた。

 しかし、海へと沈む夕日が車窓から見えた時、行きと違う景色に心を奪われた。ああ、きれいだな……。そうか、同じ駅を二度通らない場合、その区間はその時間の風景や人しか見えない。でも、違う時間帯に同じ区間を通った時、前とは違った風景や人が見える。

 この路線はこういう人たちも使うんだ、こんな風景も見えるんだ。 そうやってこの路線のことをもっと知れるんだと思う。たまには同じ駅を通っても、同じ区間を通ってもいいじゃないか。違う景色を知って、楽しむ。

 それもまた、旅の醍醐味なのだから。

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