第5話
2
乳白色の石灰岩の岩の上に、黒と赤の錆を浮かせた鉄鎖が置かれている。屑鉄として営州で売られていたものらしい。唐では辺境の人々と鉄を取引する事は禁じられていたが、このように平気で得る事が出来た。万を超える契丹人が、一斉に武装蜂起できた要因の一つだろう。
アムグンは己が鍛えた刀を掲げ、鉄鎖を涼やかに見下ろしている。
その様子を、グインをはじめとする宿営地の人々が固唾を飲んで見守っていた。
舂く日の光が、アムグンの刀を黄金に染めている。真っ直ぐな切刃造の刀身、その鎬筋に纏う黄金の光芒が鋒まで伸び上がり、硬質な稜線を煌めかせている。見る者を圧倒する鋼鉄の美がそこにあった。
「行くぞ!」
アムグンが鉄鎖に刀を振り下ろした。
ジッ、と鈴を石に押し付けるような高い鈍い音が響き、刃は直径二分(約六ミリ)ほどの太さの鉄鎖を切り裂いた。岩にも浅い切れ込みが入っている。
「おおお!」
アムグンを取り囲む人々からどよめきが起こった。
安価な鉄製品は、炭素量の調整が無い粗悪な鉄で作られており、硬すぎるもの、柔らかすぎるものが混然としている。これらを適切に鍛えた鋼鉄の刀で断ち切る事は、容易とはいえずとも然程驚くべき事ではない。ただ、多くの人々はそれを知る由も無かった。
「本当だ! 鉄を斬りやがった!」
「すげえや!」
「なっ、なっ! 言ったとおりでしょ!」
人々の最前列で見ていたなまず男が、得意げに鼻を膨らませた。
「どうだ。刃はこの通り、何とも無い」
アムグンは斬り付けた部分の刃を指の腹で撫でた。極めて僅かに刃が潰れていたが、使用に何ら支障は無いだろう。
アムグン達が行商で行うお決まりの芸だった。
「何て斬れ味なの! 唐の名刀に勝るとも劣らない、いや、唐の名刀さえも及ばないわ。これは誰が打ったの? まさかあなた?」
グインはアムグンとアトゥコスを交互に見ながら尋ねた。
「私だ」
アムグンが答えた。
「アムグンの腕に勝る者は一族の歴史を遡っても一人もございません」
アトゥコスは言った。それは真実だった。
「信じられない……これを何振りも作れるってわけ?」
「こんなもので良ければ幾らでも。材料と鍛冶場があれば」
なまず男が声を上げた。
「そいつぁすげえ」
周りの兵士達も色めいた。あんな刀を持てたらさぞ箔が付くだろう。この地で居留守を命じられた戦士達は、武功を立てる機会を得られない事に焦れていた。
「しばらくここで鉄を打ってくれないかしら? 報酬は弾むわよ。薬は父君に持たせて帰らせれば良いでしょうし、道中は護衛の兵も付けるわ。どのみち檀州に行かせる事は出来ないし、悪い話ではないと思うのだけど?」
アムグンとアトゥコスは目を合わせた。アトゥコスは肩を竦め、主がどうするつもりか促した。アムグンは暫く考え込み、答えた。
「――良いだろう、我らも職を求めていた」
周囲から歓声が上がった。
「聞いて! これからこの名工が我が軍に加わる事になったわ! この者が鍛える刀を、我が軍の戦士達に支給しましょう!」
兵達から更に大きな歓喜の声が湧き上がった。
高度な軍律を持たない草原の戦士達の士気は、大いに感情に左右される。ましてこの契丹人達は、自尊心と虚栄心の為に命がけの争いを起こす激しい気性を持つ。名刀を腰に帯びる自負が軍の見えざる戦力になる事を、この地の事実上の総督である若き美婦は熟知していた。
「さあ、細かい話は明日からにしましょう。今夜は客人を饗します。クルトゥブ、彼らの世話をお願いしますね」
「はっ!」
隊長――クルトゥブが応えた。
「クルトゥブ(契丹語で仁の意)か。良い名前だな」
「ありがとよ。さあ、こっちだ。倉庫として使っている幕営がある。とりあえず今夜はそこに泊まってもらう」
クルトゥブが促し、アムグンとアトゥコスは後をついていった。クルトゥブの背中を横目に見ながら、二人は小さく声を交わした。
「……どうなさるおつもりです? 私はどこへ帰る事になるのでしょうか」
「ふふ……薬を買いに行くというのは不味かったな。適当に言い訳を考えておけ」
「西に行くのは諦めるのですか?」
「いや。だが今は仕方ないさ。戦で関所の警戒も強まっているだろうし、入り込むのは至難だろう。冬の旅は過酷だ。却って渡りに船かもしれない」
「ですがここでは戦に巻き込まれる恐れがあります」
「それはどこでも同じだろう。それに唐は自らの領地を取り返す事に躍起になっているはずだ。こんな辺境まで攻める理由は無いだろうし、そもそもこの宿営地を把握しているかどうかすら怪しい……今はとにかく疲れた……ここを去るにせよ、まずは休みたい」
アトゥコスはアムグンの見解を否定する根拠は持たなかったが、一抹の不安を感じていた。ここが大帝国に対し反旗を翻した逆賊達の住処である事は間違い無いのだ。
アムグン。この生まれながらの天才は、幸運な事に未だ自らの命の危機に直面した事が無い。然し座学と智慧のみでこの世界の災禍を切り抜けるのは、如何なる天才といえども難事のはずであり、アムグンは唯一、経験という知見にだけは著しく欠けていたのだった。
夜が更け、太陽の暖かさを失った冬の風が、氈の帳幕を揺らす。この日はいつになく強風が吹いた。
グインのユルトはなだらかな丘の頂点に置かれ、その周りを人々のユルトが点々と囲っていた。グインのユルトと人々のユルトの間には直径一里(約五百メートル)弱の広場があり、宿営地全体で巨大な円環を形作っていた。
広場といっても、せいぜい簡素な篝火台が等間隔に置かれているだけのただの空き地でしかない。この広場は、まだ大人の仕事に参加出来ない幼児達の遊び場であり、人々に政を伝える集会場でもある。然し多くの場合、酒と遊芸を好む契丹人達の宴会の場となっていた。
この日も、風が雪を巻き上げ、焚き火の炎を吹き消すほどに激しく踊らせて尚、酒宴の興が尽きる事は無かった。
異邦の職人を催す宴は、宿営地の豊かさをよく表して豪勢だった。荒漠とした冬の草原の上に、動物や植物が描かれた氈の絨毯や、複雑な幾何学紋様が編み込まれた麻、藤、柳の蓆が敷かれた。そこに羊や牛、豚、鳥の肉の煮込み料理や、乳酒、山林で採れる棗をはじめとする果実の乾物が所狭しと並ぶ。営州で産したという麦や米を練り油で揚げた菓子や、米を醸した強い酒も置かれていた。これらは唐人の口にも滅多に入る事の無い高級品だが、参加者全員に惜しげもなく振る舞われた。アムグンはその豪華な饗宴に目を見張った。
「よっ! ほっ! はっ!」
向こうの席で、なまず男が頭の上に剣を乗せて踊っている。
なまず男は多芸で、広場中を周りながら、裸踊りをしてみたり、歌を披露したり、笑い話を吟じたりして集まった人々を楽しませていた。宿営地ではひょうきん者で有名な男らしい。
「この酒は旨いな!」
アトゥコスは上機嫌だった。酒好きのアトゥコスは早々に酒盃を投げ捨て、酒を注ぐ革袋ごと豪快に呷っていた。革袋は平坦な上面に注ぎ口と鶏冠状の取手が連なって付いている。後にこの独特な意匠は遼代で陶器に用いられ、鶏冠壺と呼ばれる。
「いい飲みっぷりだなあんた!」
契丹人の男がアトゥコスの背中を乱暴に叩きながら称えた。猛々しさを美徳とする遊牧民達にとって、大酒飲みは大いに評価に値した。
「ふふ」
アムグンはアトゥコスの様子を横目に、目前に置かれた骨付きの豚肉を掴んで頬張る。厚い肉が奥歯で弾け、塩の効いた濃厚な肉汁が喉から脳天へと染み渡る。
「孫夫人に改めて礼を言わなければならないな」
グインは宴の初めに挨拶を行い一杯の酒を交わしたものの、早々に息子を連れ幕営に戻っていた。
「――よお! 名工殿! 座って肉ばかり食ってねえで、あんたも何か披露しちゃどうだい!」
裸のなまず男が、白い湯気を身体中からもうもうと上げながらアムグンを冷やかした。それに釣られて他の契丹人達からも「そうだそうだ!」と声が上がった。
肉を咀嚼しながら、アムグンは立ち上がった。営州産の度が強い酒によって、アムグンの白い頬は紅味が差していた。
「そうだな、私も何か披露するぞ!」
周囲から歓呼の声が沸き起こった。皆、新たに仲間となる者の器量を知りたがっていた。
「父上、何が良いだろうか」
アトゥコスは酒器に残った酒を喉に流し込んで、言った。
「剣舞でも見せてやれ!」
「よし!」
言うや、アムグンは手元に置いた刀の柄を握り、鞘から抜き放った。
そして舞った。
「……すげぇ……」
なまず男が鼻を啜りながら感嘆の声を漏らした。
「武技においても、我が子はこの父の次に強い」
アトゥコスは上機嫌で鼻孔を膨らませた。
それは一族の者が必ず学ぶ、剣技の型だった。舞と呼ぶには無骨で荒々しい動きだったが、緩急をつけ、指先まで張り詰めた一つ一つの瞬速の所作は、武神が舞い降りたかの如く勇ましく、美しかった。
舞い踊る事を愛する遊牧民達にも多くの剣舞が存在するが、このようなものは見た事がない。唐文化に慣れ親しみ、都の歌舞を知る契丹人達もまた、初めて目にする舞だった。囃し立てる者や世間話に興じる者達が次第に黙り込み、アムグンの舞を食い入るように見つめた。
「懐かしいな……」
舞いながらアムグンは思った。
一族の者は乳を飲むより先に鎚を握り、言葉を話すより先に刀を握る。武具を鍛える事、そしてそれを十分に活かす為の武技を磨く事もまた、彼らがその身に宿さねばならぬ伝統の一つなのだった。
舞を終えようかという時だった。
耳をつんざく絶叫が響き渡った。
「――敵襲だああ!」
アムグンは我が耳を疑った。集まった人々も同様だった。
「――戦に備えろっ! 敵襲だ!」
「戦えない者は奥方様のユルトに集まれ!」
再度声が響き、人々は一斉に悲鳴を上げた。
草原の奇襲は夜に行われる。遮蔽物が何も無い平原では、遠くから進軍する姿が丸見えだからだ。そしてその襲撃は、数段階に兵を分けて波状で攻撃を仕掛けるのが定石だった。いきなり大軍で押し寄せれば、大地を揺らす振動ですぐに知られてしまう。
吹きすさぶ風と積もった雪は、軍馬が立てる馬蹄や嘶きの音を消す。この日は夜襲に格好の日だった。
「敵は何者だ!」
「まだ分からん! 闇に紛れて火矢が射られている! とにかく反撃に討って出る! 各兵は十戸長(古代から遊牧民に広く用いられた、十進法による軍事集団の最小単位の長、十人の兵を従える)に従え!」
誰の者とも分からない罵声が響き渡る。
人々は騒然として散っていき、兵達は急ぎ兵営へと走っていった。
瞬く間、宴は狂乱によって中断された。強風に踊る焚火の前、アムグンとアトゥコスは戦慄の面持ちで立ち尽くしていた。
「爺! どうする!?」
二人の酔いは一気に醒めていた。
「落ち着きなさい、まず状況を分析する事が重要です」
アトゥコスは声を鋭くした。
「拠点への夜襲、闇に紛れての火矢……恐らく戦術はこうです。まず斥候が少数で敵陣に忍び寄り、遠方から弓で攻撃を加える。次に、斥候の攻撃によって敵勢力の混乱が極まった時、乱れた敵に対して後続部隊が敵陣に突入して追加攻撃を行う……そんな所でしょう。斥候がどんなに命知らずだとしても、初手から敵陣に突撃する間抜けはいません」
「つまり、避難する猶予はまだあるという事か」
アトゥコスが頷く。
「もし拠点の制圧や略奪が目的なら、退避経路をわざと残して逃走を促し、不要な戦闘を極力避けるでしょう。ですがもし殲滅が目的であれば、退避経路を塞ぐように包囲して攻撃を仕掛けてくるでしょう」
「もし後者なら……」
アムグンは呻いた。
「おい! 何をぼーっと突っ立っている!」
鎧を身に着けたクルトゥブが、馬を馳せて近付いて来た。
「攻撃はどの方角からだ!?」
アムグンが尋ねた。その答え次第で、自身とこの宿営地に暮らす人々の命運が大きく変わるはずだった。
「分からん。とにかくそこら中から矢が来る。包囲されているらしい」
アムグンは血の色を失った。
「俺達はこれから各方面に同時に打って出る! あんた達が戦えるなら中央に避難させた女子供を守ってくれ!」
クルトゥブは言って踵を返し、遠くで待っていた兵達に合流した。雄叫びを上げながら宿営地の外側へと馳せて行く。
「若様、いかがします」
「……とにかく我々も中央に行こう。まずは武器と馬を取りに戻るぞ。逃げる準備はしておいたほうがいい」
もしこの時、アムグン達が今すぐ敵の包囲を強行突破して戦場を逃れる策を採っていたなら、或いは彼らの運命は違っていたのかもしれない。
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星の一族 源一刀斎 @guzan
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