第二章:眩しすぎる異世界

 ​第一話:彷徨える亡霊


 ​ 二人が再び目を開けたとき、そこにあったのはアスファルトの冷たい感触と、天を突くようにそびえ立つ鋼鉄とガラスの巨塔だった。


 ​ あまりの変貌ぶりに、岩本と菅野は反射的に二人で顔を見合わせた。


 ​ 互いの顔に付いた煤や火薬の汚れ、そしてボロボロになった軍衣を見て、ここが先ほどまでいた戦場の地続きであることを、辛うじて互いの存在の中に確認し合う。


 ​ 菅野は、隣に立つ岩本に

「ここは……どこだ……?」

と、掠れた声で問いかけた。


 ​ しかし、空戦の神とまで呼ばれた岩本でさえ、今の状況を説明する言葉を持ち合わせてはいなかった。ただ呆然と、自分たちが知る日本とはあまりにかけ離れた未来の姿を、その目に焼き付けることしかできなかった。


 ​ 二人は、熱を持った路面に膝をついたまま、呆然と周囲を見上げた。


 ​ 空を切り裂くように立ち並ぶ摩天楼が、真夏の烈日を反射して鏡のように眩しく輝いている。

 耳を突くのはエンジンの爆音ではなく、無数のタイヤが路面を擦る低い唸りと、聞いたこともない電子音が複雑に混ざり合った、どこか現実味のない喧騒だった。


 ​ 軍服を泥と汗、それから火薬の煤で汚し、虚ろな目で歩き出した二人の姿は、洗練された現代の街並みの中で異様なほど浮き上がっていた。


 ​ 周囲には、溢れんばかりの人波。


 だが、誰一人として彼らを見ようとはしなかった。


 ​ 人々は、手に持った「小さな光の板」をじっと見つめたまま、機械的な足取りで二人の横を通り過ぎていく。


前も見ずに、その板切れから放たれる怪しい光に吸い寄せられているかのような群衆の姿は、二人にはまるで何かに魂を抜かれた抜け殻のように見えた。

 

時折、すれ違う若者が眉をひそめて視線を向けることもあったが、それは「時代錯誤なコスプレか何か」を忌避するような、冷ややかな無関心に過ぎなかった。


 ​ 「おい、ちょっと待て……。ここはどこなんだ。今は、何年だ……!」

 ​ 菅野が、すれ違う男の肩を掴もうと手を伸ばす。


 しかし、男は耳に白い耳栓のようなものを詰め込んだまま、菅野の手を器用にすり抜け、視線すら合わせずに歩き去った。

助けを求める気力すら削がれるほどの孤独。



自分たちだけがこの世界の時間軸から切り離された『亡霊』になったかのような錯覚が、じわじわと二人を蝕んでいく。


「岩本さん……俺たち、本当に生きてるんですかね」

菅野の掠れた声は、街の雑音の中に虚しく消えた。

 ​

岩本もまた、信じられないものを見るような目で周囲を凝視していた。そこには、明日をも知れぬ恐怖など微塵も感じられない、あまりに平和で、それゆえに寒気がするほど冷徹な世界があった。

 ​身体の限界はとうに超えていた。

 

最後にまともな食事をしたのがいつだったか、それすらもはや思い出せない。喉は焼けるように渇き、胃袋は内側から鋭い爪で掻き毟られるような激痛を訴えていた。


街のいたるところにある、ガラス張りの不思議な店。その自動ドアが開くたび、中から溢れ出す人工的な冷気が二人の頬を撫でた。


一九四五年の夏、焼けつくような操縦席で戦っていた彼らにとって、そのあまりに贅沢な涼しさは、ここが現実ではなく『死後の世界』であるという感覚をさらに強く抱かせた。


 ​ (……ああ。ここは、天国なのか。それとも、俺たちを拒絶する地獄なのか)

 

立ち並ぶ店から漏れる、芳醇な食べ物の匂い。見たこともないほど彩り豊かな飲み物が並ぶ棚。しかし、それらを手にする術を彼らは持たない。

 ​

目の前を通り過ぎる人々が、その豊かさを当たり前に享受し、感謝することもなく捨てていく光景。自分たちが命を懸けて守ろうとした未来は、こんなにも美しく、そして自分たちに対して残酷なのか。

 ​

 「喉が……焼けるようだ……」


岩本が自嘲気味に呟く。二人は逃げるように表通りを外れ、路地裏にある小さな公園へと辿り着いた。

 ​

古びたベンチに、糸が切れた操り人形のように崩れ落ちる。

頭上では、あの頃と同じようにセミが鳴いていた。だが、その鳴き声さえ、今の二人には遠い世界の出来事のように聞こえた。

 ​ 

意識が混濁し、再び深い闇へと落ちようとしたその時。

 ​

二人の前に、一つの影が落ちた。

「……お体の具合でも、悪いのですか?」

 震えるような、だが凛とした気品のある女性の声。

 ​

顔を上げた二人の前に立っていたのは、一人の上品な老婦人だった。彼女は、まるで目の前に伝説の生き様そのものが現れたかのように、驚愕に目を見開いている。

 ​

その視線は、菅野の胸元の汚れきった名札と、岩本の穏やかながらも鋭い眼光を、交互に、そして慈しむように捉えていた。


「まさか……。父が、源田実が大切に持っていた写真の……そのお姿のまま……」

彼女の目から、大粒の涙が溢れ出した。


その名を聞いた瞬間、菅野の瞳に鋭い光が戻り、岩本が反射的に姿勢を正した。

自分たちの司令官、『オヤジ』の名だ。

「源田実の……娘さん……?」

 ​ 

時を超えた絆。

 自分たちが守り抜こうとした『未来』そのものである彼女の存在が、今、死の淵を彷徨っていた二人の魂を、力強く現実へと繋ぎ止めた。

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2025年12月21日 21:00

『空の彼方、キャンパスの風へ』 夜桜 @Yozakura27

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