『空の彼方、キャンパスの風へ』

夜桜

​第一章:二人の邂逅

 第一話:弾雨の咆哮、静寂の舞踏

 ​ 一九四五年、七月。

 九州の空は、命を焼く炎と黒煙が渦巻く、文字通りの地獄だった。

 ​「墜ちろ……ッ! 墜ちやがれ、このばかやろうっ!」

 三四三海軍航空隊、通称『剣部隊(つるぎぶたい)』。その隊長、菅野直(かんのなおし)は愛機『紫電改(しでんかい)』の操縦桿を激しく引き絞り、野獣のような鋭い視線で敵のグラマンを捉えていた。

 風防越しに迫る米軍機の群れ。被弾の衝撃が機体を揺らし、ガソリンの匂いが鼻を突く。

「まだ死ねるか……! 死んでたまるかっ!」

 剥き出しの闘志が全身の血を沸騰させる。自分の命などどうでもいい。だが、この国を焼こうとする連中を、一機でも多く地獄へ道連れにするまでは、たとえ悪魔に魂を売ってでもこの空をこじ開けてやる――。

 その執念が、指先が引き金を絞る瞬間に爆発した。四門の二十ミリ機銃が火を噴き、捉えた敵機が空中爆発を起こしてバラバラに散っていく。だが、休む暇はない。さらに数倍の敵が、牙を剥いて菅野の背後に食らいつこうとしていた。

 ​ 一方、同じ空の別の一角。

 数多の修羅場を潜り抜けてきた「最強の撃墜王」岩本徹三(いわもとてつぞう)は、対照的な静寂の中にいた。

 周囲には無数の敵機。だが、彼の瞳は恐ろしいほどに透き通り、風を切る音さえ聞こえないほどに集中し切っていた。本土防衛という重責を背負い、愛機『零戦』と一体となって舞う姿は、さながら死神の舞踏だ。

(……ああ、ついにお迎えか。それとも、まだ「仕事」が残っているのか)

 迫る弾丸の雨を、紙一重の旋回で受け流す。心身はすでに限界を超え、削り取られる寸前だった。翼の端が弾丸に削られようとも、彼は乱れない。自分たちが散ることで、この国に僅かでも安らぎが訪れるなら。その一念だけが、鉛のように重い腕を動かしていた。

 岩本は、死を覚悟した者の特有の、どこか悲しげで穏やかな微笑を浮かべ、静かに操縦桿を倒した。

 ​ その瞬間だった。戦場を支配していたエンジンの爆音、機銃の轟音(ごうおん)、そして死の恐怖までもが、一瞬にして消し飛んだ。

 二人の世界は、等しく強烈な白光に塗り潰されたのだ。

 ​ 視界を真っ白に染め上げたのは、爆発の炎でも、雲間から漏れる陽光でもなかった。それは、この世の理を根底から覆すような、絶対的な無の光だった。

 ​ 菅野の意識は、その光の中で加速していた。

(……ちくしょう、ここで終わりか。まだやり残したことが山ほどあるってのに……)

 脳裏に去来したのは、愛すべき『三四三空』の部下たちの顔、そして何度も衝突しながらも絶対の信頼を寄せた源田司令(げんだしれい)の姿だった。自分の命は、いつだって空に置いてきたつもりだ。だが、いざ最期を迎える瞬間、菅野の心に宿ったのは、恐怖ではなく猛烈な「悔しさ」だった。

 この国の空を、自分たちの代でこじ開けてやりたかった。戦友たちが安心して翼を休められる、そんな静かな空を、自分のこの手で掴み取りたかった。

(せめて……、せめて奴らだけでも生き残ってくれ……!)

 最期の咆哮を上げるように、菅野は心の中で叫んだ。その瞬間、彼の意識は重力から解き放たれ、深い闇の底へと沈んでいった。

 ​ 一方、岩本は、その光の中で「許し」のようなものを感じていた。

 これまで墜としてきた数多の敵。失ってきた無数の戦友。撃墜王と呼ばれるたびに、彼の肩には目に見えない死者の重みが積み重なっていた。

(……これで、ようやく降りられるのか)

 岩本は、自分でも驚くほど穏やかな心持ちで光を見つめていた。自分が守ろうとした日本。自分が愛した空。そのすべてが光の中に溶けていく。

 だが、その安堵の奥底で、小さな、しかし消えない火が灯っていた。それは「自分たちが散ったあとの世界を見届けたい」という、一人の人間としての、慎ましすぎるほどの願いだった。

(もし、もう一度だけ許されるなら。……平和になった空を見てみたかった)

 その願いが光と共鳴したかのように、岩本の感覚は極限まで研ぎ澄まされ、そして、ふっ……と途切れた。

 ​ ――再び意識の糸が繋がったとき。

 二人の鼻腔を突いたのは、焼けたガソリンの臭いではなく、熱を含んだ重苦しいアスファルトの匂いだった。

「……っ!?」

 菅野が目を細めた。風防の向こう側、さっきまで黒煙を上げて墜ちていった敵機の姿はどこにもない。

 岩本もまた、白光の中で意識が浮遊する感覚から、一気に重力へと引き戻された。

 ​ 二人が再び目を開けたとき、そこにあったのはアスファルトの冷たい感触と、天を突くようにそびえ立つ鋼鉄とガラスの巨塔だった。

「ここは……どこだ……」

 菅野が声を絞り出す。周囲を見渡せば、空は青く、穏やかだった。だが、その空を遮るように立ち並ぶ摩天楼。見たこともないほど煌びやかで、それでいて異様なほどに無機質な街並み。

 ​ 一九四五年の戦場から、二〇二五年、七月の東京へ。

 戦うことしか知らなかった二人の獅子が、平和という名の異世界へと放り出された瞬間だった。

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