第一章 光芒

1-1

「死にたいわ」


 すっかり聞き飽きた木蓮の言葉。このところ、私たちは同じ言葉ばかり口にしている。


「眠い」

「ひま」

「死にたい」


 私たちの身の上には、不幸な事情はない。みんなと同じく健康で、みんなと同じく安全で、みんなと同じく友達がいて、みんなと同じく欲しいものはたいてい手に入る。しかし、私たちが死に惹かれていることは嘘ではない。死には未知の魅力がある。白い紙に描かれた黒い点のように、満たされた生活の中で、他に目を引き付けるものがないため、どうしてもそこへ意識が向いてしまう。あるいは、何かが決定的にかけているような、漠然とした虚無感が、私たちを死へと誘うのだ。


 林檎は寝返りを打つ。

 枕元の携帯端末は通話中で、遠くにいる木蓮の呟きが、林檎の耳に届く。


「この国には何もかもがあるのに、どうして安楽死だけがないのよ」


 木蓮の言葉には答えず、林檎は気の向くままに返事をする。


「昔の本で読んだんだけど、人が死んだ時にこの世に心残りがあると、幽霊になるんだって」


「……梅が好きそうな話」

 木蓮は友人の名前を挙げる。


「私たちが死んだ時って、幽霊になるのかな」


「ならないわね。心残りすらないのよ。なんにも、ないのよ。私たちには」


「そうだね」


 木蓮の声には、相手の心を引き寄せる力がある。林檎は、まるで自分自身の感情であるかのように、その沈んだ気持ちに共感した。


「ああ、つまらない。何もかも意味がないのに」


 携帯端末のスピーカーから、木蓮が姿勢を変える微かな気配が伝わってくる。それほどまでに、この部屋は静まり返っていた。音楽を聴いていた時期もあったが、他の娯楽と同様に飽きてしまった。


 ここには無尽蔵に娯楽がある。しかし、私はこの二十年間で、娯楽の何もかもを楽しみ尽くしてしまったような気がする。新しい作品は生み出されるが、どんな衝撃的な展開も、どんな芸術的な表現も、既存の枠を超えるものではない。つまらない理由は他にもある。それらの作品をいくら享受しても、自分の人生に少しも影響を及ぼさないからだ。宇宙人も魔法も存在せず、敵がいなければ味方も現れない。情熱、歓喜、慈しみ、陶酔、憎悪、憐憫、猜疑、どれも自分の人生には登場しない感情だ。


 恋愛に興味津々だった時期もあるが、セックスを経験したら興味を失った。結末を見てしまった気がしたのだ。歴史の教科書によると、昔は結婚という制度があり、恋人の先に夫婦という関係があったり、愛を拠り所とした家族というグループがあったりしたらしいが、この国ではそんな原始的な制度は存在しない。


「でもさ、昔は、食べる物がないとか、戦争で殺し合いをさせられるとか、自由がないとか、大変だったらしいよ」

 林檎は会話を続けるために投げかけてみた。


「なんだったら、羨ましいわね」


 林檎が心の底で思っていたこと、そして口にするのが憚れることを、木蓮はたやすく言葉にした。それにはあえて賛同せず、一般的に想定される反論を言ってみる。


「私たちが絶望するのは、昔の人にしてみれば、きっと贅沢なことなんだよ」


 そう考えると、私たちの人生は幸福なはずだ。生活も安全も保証されているし、自分の好きな人生を選べる。病気や犯罪からも、可能な限り国が守ってくれる。


 思い通りにならないことと言えば、深園と呼ばれる、この国の外に出られないことくらいだろうか。深園は、高さ二百メートル、幅は推定六キロメートルにも及ぶ、巨大な直方体の石の塊だ。人類はそれをくり抜いて棲家を作り、優秀で完璧なコンピュータの統制の元、暮らしている。


 石には、縦横に深い溝が走っている。溝がいつできたものか、あるいは最初から存在したのかは明らかにされていない。それはほとんど等間隔に並び、この国の主要な通りとなっている。


 溝には太陽光を遮断するための蓋がある。国民が石の外に出られないのも、太陽光のせいだ。太陽光を浴びると皮膚が焼け、太陽を見ると失明してしまう。人類は石の中に閉じ込められているのだ。ただし、誰も外に出たいと思ったことはないだろう。その必要性がないからだ。


「もちろんそうでしょうよ。でも、私からすれば、昔の人の方が贅沢だわ。生きる意味を感じられるってことでしょう。もしそれが通らないなら、心を病んだ人や自殺者がこんなにごろごろいることに説明がつかない」

 木蓮が断言する。


 通知音が鳴り、携帯端末の画面を見ると、梅からメッセージが届いていた。


『この間話したホラー映画、見たけど、ぜんぜん怖くなかったよ~ もっとゾクゾクする話、他にいっぱいあるのに!』


 林檎は白けた気分でメッセージを開くと、気のない相槌を返しておいた。


 梅みたいにお馬鹿だと、きっと生きやすいんだろうな。林檎は少しだけ眉をひそめながらそれを思う。梅は自分の人生を完全に受け入れており、木蓮や林檎のように死に惹かれる気持ちは一切ないように見える。林檎は彼女のことを少し見下しながらも、同時に羨ましく思っている。時には、彼女の気楽さのおかげで気が紛れることがあるのも事実だ。


 林檎は、深い思考を持つ木蓮と抽象的な話をするのが好きだが、梅と同じ目線で馬鹿な話をするのも嫌いではなかった。


「あ」


 梅からのメッセージを閉じる際、誤って木蓮との通話も切ってしまった。林檎の口から舌打ちが洩れ、そのことに自分で驚いた。


 最近、なんでもないことで強い怒りに駆られることがある。その勢いは爆発的で、自分でも驚くほどだ。殺人事件のニュースを見て、どうしてこんな些細な理由で、と思うことは多いが、最近は他人ごとではない気がしている。人を傷つけたいと思ったことはないが、どうにでもなれという気持ちが、ずっと意識の下に漂っている。たまに、どうせなら人の心や歴史に残るようなとんでもないことをしでかしてから死にたいと思うこともある。


 再び木蓮へ電話をかけ、通話が切れたことを詫びると、林檎はそのまま話の続きをする。


「私さ、みんな幸せの基準が上がりきっちゃったから、不幸しか感じられなくなって絶望していると考えたこともあるんだけど……」


「不幸だから絶望しているんじゃないのよ。不幸を感じられないから絶望しているのよ」


「そうなんだよね」


「やり残したことなんて、産まれた時からないのかも」


 最近二人は、自分の人生においてやり残したことについて、よく話す。それはいつも、やり残したことはないという結論で終わる。自分の未来について空虚だと嘆くのは、どういうわけか少しだけ気持ちが良かったが、木蓮がそれにのめり込んでいることに、林檎は危険を感じてもいた。私たちは、生きていくための糧のようなものを、日に日にすり減らしているような気がする。


 私たちは、たとえ今すぐ死んだとしても、またはこの先生き続けたとしても、世界に何らかの影響を及ぼすことはないと確信してしまっている。この世界にとって、私たちの存在は、あってもなくても良いものなのだ。


「いつ死んだって一緒だわ」


 木蓮の言葉はいつも真実で、林檎には言葉を足す余地さえない。そのため、ひとたび意見が食い違うと、どうしようもない不安な気持ちを掻き立てられるのだ。彼女の言葉には力が宿っている。木蓮なりの理屈に基づく確固たる自信があるからかもしれない。昔の本の中に登場する、宗教の教祖のようだと、梅が言っていたことがあった。


「映画の中で起こるみたいな、例えば人類滅亡の危機なんか、起こんないかな」

 林檎は気をとりなすように言う。


「それも良いわね」


 木蓮は少し楽しげに返した。その声には、そんなことが起こるはずがないという微妙な揶揄が含まれていた。

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