最終章 ノイズ
その光景を、私は今でも昨日のことのように思い出すことができる。
取調室のひび割れた壁、神谷の静かな微笑、そしてあの日、スタジオの電源を断ち切ったときの、指先に残るスイッチの冷たい感触。
だが、現実は私を過去に留めてはくれない。
相馬の指先は、キーボードの上で長く凍りついていた。
モニターの白すぎる光が、乱視気味の瞳を刺す。深夜の執務室には、数人の同僚が叩く乾いたタイピング音だけが、不規則な心音のように響いていた。
画面にあるのは、一連の不審な傷害事件に関する最終報告書のドラフトだ。
かつては「神谷恒一」という名前や「ラジオ放送による暗示」という言葉で埋め尽くされていたそのファイルは、今や数度の修正を経て、骨抜きにされた無機質な形式だけが残っている。
原因欄:
『原因不明、偶発的。被疑者固有の精神的素因による衝動犯罪。再発性なし』
その三行が、私が刑事として辿り着いた「公的な真実」だった。
どれほど言葉を尽くしたところで、電波に乗った沈黙の長さを、警察の公文書が「凶器」として認めることはあり得ないのだ。
相馬は「提出」のアイコンをクリックした。データはサーバーへと吸い込まれ、一連の悪夢は法的な意味で「完結」した。はずだった。
夜、自宅に戻った相馬は、明かりを点けなかった。
月明かりがうっすらと差し込むリビングで、死んだようにソファに身を沈める。
気づけば、無意識のうちに手が伸びていた。
棚の隅に置かれた、古い小型ラジオ。あの日、神谷を追い詰めるために何度も聴いた「道具」だ。
スイッチを入れる。
流れてきたのは、全く別の放送局、全く別の番組だった。
陽気なイントロが流れ、軽薄な笑い声が聞こえる。神谷のような、霧のような静寂を纏った男は、そこにはいないはずだった。
だが、深夜二時を告げる時報が鳴ったとき、番組の空気がふと変わった。
「……今夜も、お疲れ様。あなたは、十分によくやっています。だから――」
相馬の心臓が、大きく脈打った。
声の質が似ているわけではない。話し方の癖でもない。
ただ、その言葉のあとに置かれた、一秒。二秒。
沈黙の「深さ」と「配置」が、神谷のそれと、戦慄するほどに酷似していた。
「……考えすぎなくて、いい」
相馬は、反射的にボリュームのつまみを捻り、最大にまで回した。
スピーカーが音割れを起こし、ノイズが混じる。
それなのに。
ノイズの向こう側に、確かに「それ」はいた。
特定の周波数。特定の波長。あるいは、聴き手が最も無防備になるタイミングで、そっと心を撫でる、毒を孕んだ優しさ。
相馬は、力任せに電源コードをコンセントから引き抜いた。
部屋は、一瞬で静まり返った。
だが、静止した暗闇の中に、まだ「何か」が残っている。
あの日、回想の中で見たはずのスタジオ。赤いランプが消えたあとの、あの異常な無音。
私は、気づいてしまった。
神谷恒一という男を消しても、意味はなかったのだ。
この孤独な社会そのものが、深夜二時に「あの声」を求めている。
誰かに自分を操ってほしい。誰かに自分の責任を奪い取ってほしい。何も考えなくていい「空白」を、喉を鳴らして欲しがっている。
神谷がいなくなれば、また別の「神谷」が現れる。
誰かが意図して模倣するのではない。
現代という構造の隙間を埋めるために、ラジオのノイズや沈黙の中から、自然発生的に「あの声」が生まれてくるのだ。
相馬は、ラジオを乱暴に棚の奥へ押し込んだ。
もはや、電源が入っているかどうかなど関係なかった。
耳の奥で、まだ何かが鳴り続けている。
鼓膜を揺らす物理的な音ではない。脳が、かつて聴いてしまった「沈黙」を再現している。
もう、止められない。
私は、ゆっくりと自分の膝を抱えた。
刑事という鎧を脱ぎ捨て、法の外側にまで踏み込んで何かを救ったつもりでいた自分。
その傲慢さこそが、最大のノイズだったのかもしれない。
私は、何もしないことを決めた。
もう、戦う気力も、理由もなかった。
ただ、一つだけ分かっている。
この世界は、今日も偽りの安全に満ちている。
人々は、朝になれば昨夜の空白など忘れ、笑顔で街へと繰り出していく。
自分が誰に心を触れられたかも、何を殺したかも知らずに。
時計の針が、音もなく午前二時を指した。
私は、光の届かない部屋で、ただ座っていた。
かつての回想を塗り潰していくような、耳鳴りのような沈黙に、じっと耳を澄ませながら。
(完)
無実の犯罪 Omote裏misatO @lucky3005
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