回想10 事件は起きなくなる
事件は、あまりにも静かに、そして呆気なく起きなくなった。
統計という冷徹な数字の羅列は、残酷なまでに正直だった。相馬が放送を物理的に断ち切ったあの日を境に、深夜二時台の衝動犯罪は、まるで魔法が解けたかのように急減した。理由不明の暴力、記憶の欠落を伴う傷害事件――それらは、かつての異常な熱量が嘘だったかのように、散発的な「個別の不幸」へと戻っていった。
数ヶ月後、ワイドショーの識者たちは、この犯罪率の低下を分析して見せた。
景気のわずかな上向き、警察の夜間パトロールの強化、あるいは報道機関による刺激的な映像の自粛。誰もが、もっともらしい「科学的」な理由を並べ立てた。
だが、その中に『ナイト・ライン』という番組の名を出す者は、一人もいなかった。
深夜のラジオから流れる数秒の沈黙が、人々の理性を溶かしていたなどという仮説は、理性的であるべきテレビの電波には乗らなかったのだ。
結局、裁かれたのは「実際に手を下した」者たちだけだった。
被害者としての傷を負いながら、加害者として法廷に立たされた人間たち。彼らは一様に、震える声で同じことを繰り返した。
「覚えていないんです」「なぜあんなことをしたのか、理由が分からない」
その必死の訴えが、量刑に影響を与えることはなかった。法は、冷酷なまでに「行為」の結果だけを測り、裁く。動機が不明であることは、反省の色の欠如とみなされることさえあった。
心の空白に何が入り込んでいたのか。それを法廷で証明する術は、最初からこの国には存在しなかった。
神谷恒一は、最後まで裁かれなかった。
あの夜の出来事は、内部的には「機材トラブルによる重大な放送事故」として処理された。神谷は体調不良を理由にマイクの前を去り、番組はそのまま打ち切られた。
数ヶ月後、相馬は駅の売店で、見覚えのある名前が載ったビジネス誌を手に取った。
『言葉の力で、現代人のメンタルを救う』
特集記事の中で、神谷は以前と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。彼は今、オンラインサロンや講演活動で、多くの迷える人々に「導き」を与えているという。彼の周りに死体はない。返り血もない。
告発する者は誰もいなかった。被害者たちは自分がなぜ壊れたのかを知らず、知っている相馬には、彼を縛る鎖が一線もなかった。
相馬は新聞の片隅を読み終えると、感情の動かない手つきでページをめくった。
怒りも、憎しみも、もはや湧いてこない。ただ、胃の奥に冷たい石が沈んでいるような、不快な重量感だけが残っている。
世界でただ一人、相馬だけが「構造」の全体像を知っている。
神谷がいつ、どのニュースを選び、どれほどの沈黙を置いて、誰の心にナイフを持たせたのか。その全記録は、相馬の自宅の机の引き出し、古びたノートの一冊に収められている。
だが、そのノートは永久に日の目を見ることはないだろう。
それを公表したところで、待っているのは狂人としてのレッテルだけだ。証拠は、あの日、電波となって夜の闇に消えてしまった。
「……正しかったのか」
相馬は、無人のリビングで独りごちた。
あの日、自分が放送を止めたことで、救われた誰かがいるのかもしれない。だが一方で、自分もまた「法の外」で動いたという事実が、影のように付きまとっている。
正義とは何だ。
守りたかったものは、この「何もなかったこと」として流れていく日常なのか。
答えは、出ない。
ただ一つ確かな事実は、凄惨な事件が起きなくなったこと。
それが救いであると、自分に言い聞かせるしかない。
夕暮れ時、相馬は習慣的に手を伸ばしかけたラジオのスイッチを、途中で止めた。
静かな部屋には、冷蔵庫の唸り音だけが響いている。
声もない。沈黙もない。
だが相馬は知っている。
あの日、奪われた空白を。
そして今もどこかで、別の誰かが、別の「美しい声」を使って、夜の隙間を埋めようとしているかもしれないことを。
相馬は静かに窓を閉めた。
夜が、またやってくる。
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