回想9 声を断つ者

 午前一時五十七分。

 放送局から数ブロック離れた路地裏で、相馬は車を止めていた。

 カーステレオからは、いつも通り『ナイト・ライン』が流れている。密閉された車内は、神谷の声という濃密な液体で満たされているようだった。

​「……今夜は、少し静かな曲を用意しました。眠れないあなたの、その重すぎる肩の力が抜けるまで、私はここにいます」

​ 神谷の声は、かつてないほどに優しく、そして湿り気を帯びていた。

 ダッシュボードに置かれたスマートフォンの画面が、深夜の緊急ニュースを知らせて光る。大規模な火災と、それに伴う社会的混乱。

 条件は最悪だ。相馬はメーターを見つめた。心拍数を示すように、指針が微かに、だが不規則に揺れている。

​ 相馬は、もう録音もしないし、応援も呼ばない。

 そんなことをしても、あの狡猾な「聖者」を法廷に引きずり出すことはできないと、骨身に沁みて理解していた。相馬はただ、目を閉じてその声を聴いた。

​ 音楽が終わる。

 

 沈黙。

 

 呼吸を忘れるほどに長い、計算された空白。

 

 午前二時零三分。

 

 相馬は、エンジンをかけた。

 

 アクセルを踏み込み、放送局へと向かう。正面の華やかな入り口ではない。機材搬入用の、誰も見向きもしない裏口だ。相馬は車を降り、迷いのない足取りで中へ入った。

 深夜の局内は死者の住処のように静まり返っている。警備員ともすれ違わない。相馬は警察手帳をポケットの奥に押し込んだ。今の自分にとって、それはただの重りであり、何の効力も持たない皮肉な証明書だ。

​ スタジオ『第4』の前で、相馬は立ち止まった。

 重厚な防音扉の向こうから、あの声が漏れてくる。

​「……考えすぎなくて、いいんです。あなたの手が、もし何かに触れたとしたら。それは、あなたがずっと望んでいたことなのかもしれない。抗う必要はありません……」

​ 相馬の指先が、冷たく震えた。

 その言葉が、今この瞬間に、何万人もの無防備な精神の堤防を崩している。神谷はそれを「知っていて」やっている。そして、自分の手が直接汚れない限り、神としての座を降りるつもりはないのだ。

​ 相馬は、扉を蹴破るようにして開けた。

​ スタジオ内の赤い『ON AIR』ランプが、まるで獲物の血を欲する獣の眼光のように相馬を射抜く。

 神谷は、マイクの向こうで一瞬だけこちらを見た。驚きはなかった。むしろ、結末を見届けるために来た客人を迎えるような、穏やかな笑みさえ浮かべていた。

​「相馬さん。……まだ放送中です。皆さんが、待っている」

​ 神谷はヘッドホンを外さない。相馬は無言で、ミキサーデスクの前まで歩み寄った。何百ものスイッチ、何千もの回路。

​「今日は、ここまでだ。神谷」

​「止める正当な理由が、あなたにあるのですか?」

​ 神谷の声は、マイクを通さずともスタジオ内に不気味に響いた。

​「理由を言えば、あなたはそれを言葉で塗り替えるだろう。議論をすれば、あなたは私の理性を沈黙で溶かすだろう」

​ 相馬は、メインフェーダーに手をかけた。

​「私は、あなたと戦いに来たんじゃない。……ただ、あなたを消しに来たんだ」

​ 神谷は初めて、その整った顔を歪めた。

​「それは――刑事の仕事じゃない!」

​「ああ、知っている。だから、これは『私』の勝手だ」

​ 相馬は、送信ボタンとメインフェーダーを同時に、力任せに押し下げた。

​ ブツリ、と。

​ 赤いランプが消え、スタジオ内を支配していた電子的微振動が、嘘のように消え去った。

 

 沈黙。

 

 神谷が作っていた「演出」としての沈黙ではない。

 回路を断ち、電波を殺し、意味を剥ぎ取った、本物の、ただの「無音」だ。

 

 神谷は、口を半開きにしたまま呆然と立ち尽くしていた。マイクが死んだ瞬間、彼の「神格」もまた死んだのだ。

 相馬は何も語らなかった。正義の鉄槌を下したという満足感も、達成感もない。ただ、内臓が焼け付くような疲労感だけが、体を支配していた。

​ 相馬は、神谷に背を向けてスタジオを出た。

​ 外の夜気は驚くほど冷たかった。

 救急車のサイレンも聞こえない。事件を知らせるパトカーの赤色灯も回っていない。

 今夜、何も起きなかったのか、それとも自分の行動が間に合ったのか。それを知る術は、もう一生ないだろう。

​ 相馬は暗い夜道を歩きながら、自分に問いかけた。

 被害者たちの記憶は戻らない。彼らの罪も消えない。神谷も、明日には別の手段で「声」を届ける方法を探し始めるかもしれない。

​ だが――

 

 今、この瞬間だけは、世界が本当に静かだ。

​ 翌朝、新聞の片隅に「深夜番組の放送事故」に関する小さな記事が載った。

 そして数日後、番組表から『ナイト・ライン』の文字と、神谷恒一の名前は、まるで最初から存在しなかったかのように消えた。

​ 相馬は、辞表を書くこともなく、ただ朝の雑踏の中へ消えていった。

 耳を塞いでも聞こえてくる、街のノイズを愛おしく感じながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る