回想8 裁けないという結論
検察庁の会議室は、暴力的なまでに明るかった。
窓のない部屋を照らす高輝度の蛍光灯は、壁のわずかな汚れさえも許さず、机の上に広げられた相馬の捜査資料を、ただの無価値な紙の束へと変えていく。
主任検事は、眼鏡のブリッジを押し上げ、一度も相馬と目を合わせることなく静かに首を振った。
「無理だ、相馬君。話にならない」
その一言で、数ヶ月にわたる相馬の執念は、音もなく瓦解した。
理由は、突きつけられるまでもなく理解していた。この国の法律は、目に見える「悪意」と、直接的な「因果」を裁くために作られている。
「命令がない。扇動の事実もない。放送内容は、いついかなる法廷に持ち出しても『清廉潔白な一般論』として受理されるだろう。道徳的、教育的でさえある」
「……ですが」
相馬の声は、乾いた喉の奥で掠れた。
「統計的な一致を見てください。神谷が沈黙を深めるたびに、何かが起きています。彼は社会の不安を餌に、リスナーの理性を奪う『構造』を作り上げている。これは未必の故意による教唆です」
「それは君の主観、あるいは高度な推論に過ぎない」
検事は事務的な口調で、相馬の言葉を切り捨てた。
「仮に君の言う通り、神谷の声に『影響力』があったとしても、それは気圧の変化が体調に影響を与えるのと同じ、環境要因に過ぎない。犯罪の構成要件を満たさないんだ。刑法は、個人を裁く。だが君が持ってきたのは『状況』の告発だ。状況を刑務所に送ることはできないんだよ、刑事さん」
相馬は反論しなかった。いや、できなかった。
法というシステムの番人である検事の言葉は、冷徹なまでに正論だった。
法は万能ではない。法が守るのは「正義」ではなく、あくまで「法という秩序」そのものなのだ。
会議は、わずか十五分で閉会した。
廊下に出た相馬は、不自然に明るい自動販売機の前で立ち止まった。
喉は焼けるように乾いていたが、ボタンを押す気力さえ湧かなかった。
神谷は、無罪だ。
明日も、明後日も、あのスタジオでマイクを握り、聖者のような顔で「沈黙」を垂れ流し続ける。彼に殺意があるかどうかは問題ではない。彼がそこに存在し、喋り続けるだけで、社会という繊細な回路のどこかがショートし、誰かの人生が永遠に壊れる。
エレベーターの鏡に映る自分は、幽霊のようだった。
頬はこけ、目は血走り、正義を追い求めていたはずの人間が、今や執念という名の毒に冒されている。
――法では、彼を止められない。
相馬は、ようやくその残酷な事実に降参した。
法廷で彼を裁く日は来ない。証拠品としてあの声を閉じ込めることもできない。
この事件は、法の外側でしか終わらせられない。
相馬は、震える指でスマートフォンを取り出した。
画面に映る番組表。深夜二時。『ナイト・ライン』。
今夜のニュースは、無差別なテロの予感と、止まらない円安、閉塞感に満ちた社会の断末魔を報じている。
神谷にとって、これ以上ないほど「美しい演奏」ができる夜が来る。
相馬の中で、何かが音を立てて千切れた。
刑事という肩書きが、急速に色褪せていくのを感じた。
裁けないなら、物理的に止めるしかない。
それは刑事としての職務を放棄することであり、一人の人間としての奈落へ踏み出すことでもあった。
エレベーターの扉が閉まり、下降を始める。
完全な無音の、わずかな浮遊感の中で、相馬は自分の決意を凝固させた。
次に自分がスタジオのドアを開けるとき。
自分はもう、正義の味方ではないだろう。
だが、それでも構わない。
神谷の沈黙を殺せるのは、自分しかいない。
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