回想7 責任の所在
放送局のスタジオは、昼の光を完全に拒絶していた。
分厚い防音扉に仕切られたその空間は、外界の時間の流れから切り離され、ただ「音」だけを純粋に保存するために存在している。壁に貼られた吸音材は、相馬の出すわずかな足音さえも貪り食うように吸い込んでいった。
相馬は、調整室の防音ガラスの向こう、マイクの前に座る神谷の正面に腰を下ろした。
テーブルの上には、これまでの放送回を分析した記録と、血のついた現場写真が、まるで対比されるべき二つの世界の断片のように並べられている。
「神谷さん」
相馬は、喉の奥から絞り出すような低い声で切り出した。
「あなたの放送が終わるたびに、どこかで誰かが理性を失い、凶器を手に取っている。この数ヶ月のデータがそれを証明しています」
神谷は、驚くほど静かにそれを見つめていた。まるで、天気の予報を聞くかのような無感情な頷きを返す。
「……知っています。ネットのニュースでも、あるいは噂でも。私が意識せずとも、情報は耳に入ってきますから」
「なぜ、内容を変えない? なぜ、続けている」
神谷は、少しだけ首を傾けた。その所作は優雅でさえあった。
「私は、ただラジオをやっているだけです。決められた時間にスタジオに入り、マイクに向かって、私の言葉を必要としている人たちに語りかける。それが私の職務だ」
相馬は、その逃げ道を塞ぐように身を乗り出した。
「『命令はしていない』。そう言いたいんですね。法廷でそう証言する準備もできている」
神谷は、相馬の瞳を真っ直ぐに見据えて答えた。
「はい。私は一度も、誰かに何かを強要したことはありません。私の口から出た言葉は、常にリスナーの安らぎを願うものばかりです」
それは、紛れもない事実だった。神谷の発言をどれほど精査しても、法に触れる一文字すら見つかりはしない。相馬は椅子に深く背中を預け、冷たい溜息を吐いた。
「確かに、あなたは刃物を持てとは言わなかった。誰かを傷つけろと指示した記録もない。だが――」
相馬は一歩、踏み込む。
「何かが起きることは、分かっていたはずだ。 自分が『沈黙』を深めるたびに、誰かの心にある決壊寸前のダムが、音を立てて崩れていくことを。あなたはそれを楽しんでいたのか? それとも、ただ観察していたのか?」
スタジオに、重苦しい沈黙が降りた。
ラジオで使われる心地よい「空白」とは異なる、互いの殺気と疑惑がぶつかり合う、逃げ場のない現実の沈黙だ。神谷は組んだ指にわずかな力を込め、視線をテーブルの端へと落とした。
「……“起きるかもしれない”と。そう予感した夜は、確かにありました」
神谷の口から、初めて「予感」という言葉が漏れた。相馬はその小さな綻びを逃さなかった。
「だから、構成を変えたんだな。確信を深めるために。事件が起きやすい夜を選び、意図的に言葉を削ぎ落とし、沈黙の時間を一秒ずつ延ばしていった。被疑者たちが『頭が白くなった』と言ったあの時間は、あなたが設計した『空白』だ」
神谷は否定しなかった。代わりに、祈るような声で言った。
「人は、言葉で救われるんです。重すぎる荷物を背負った人たちが、私の放送の間だけは、自分という重力から解放される。それがどれほど尊い救いか、あなたに分かりますか?」
「救いじゃない」
相馬は遮るように首を振った。
「それは救いではなく、『麻痺』だ。彼らを救ったのはあなたの言葉じゃない。あなたが『あえて言わなかったこと』――つまり、人間が人間であるために守るべき倫理や、ためらいや、迷いを、その沈黙で洗い流したんだ。あなたは彼らから『迷う権利』を奪った」
神谷の眉が、わずかに、だが確かにピクリと動いた。初めて、彼の穏やかな仮面の下にある「傲慢」が顔を出した瞬間だった。
「……責任、ですか。一体その所在はどこにあるのでしょうね。私が黙っている間に、誰かが勝手に行動を起こした。それは私の罪ですか? それとも、沈黙に耐えられなかった彼らの罪ですか?」
「分かっていて、加速させた。その一点に尽きる」
相馬は冷徹に言い放った。
「法律は、沈黙を罪とは呼ばない。放送コードも、間(ま)の長さを規制はしない。だが、あなたは自分の影響力を知っていて、それを特定の方向に誘導した。これは未必の故意に近い」
「法律は、そうは言ってくれませんよ、刑事さん」
「知っています。だから、私は組織としてではなく、一人の人間としてここにいる」
相馬は声を一段と低くし、呪文のように言葉を置いた。
「神谷さん、あなたは『止める理由』を探していたんじゃないのか。自分の言葉が、あるいは沈黙が、どこまで世界を壊せるのかを試していた。違うか?」
神谷は長い沈黙のあと、小さく、消え入りそうな声で漏らした。
「……止める理由が、見当たらなかったんです。私の声で、世界が静かになっていく。それは、とても美しいことのように思えた」
その言葉は、どんな狂人の叫びよりも相馬の胸をえぐった。
「美しい」という感覚の断絶。それが、この事件を迷宮へと追い込んでいる正体だった。
相馬は椅子を引き、立ち上がった。
今日のところは、これ以上の収穫はないだろう。立件する証拠も、拘束する名分もない。しかし、相馬はこの男の魂の形を完全に見定めた。この男は、無垢な善人でもなければ、残虐な快楽殺人者でもない。ただ、「自分の声が世界を調律している」という万能感に酔いしれた、孤独な神格化の成れの果てだ。
相馬は出口の重いドアに手をかけ、最後に一度だけ振り返った。
「次に何か起きたら」
神谷は、マイクの影に隠れるように顔を上げた。
「そのときは、どうするんですか?」
「あなたはもう、『何もしていない』とは言えなくなる。私が、あなたの沈黙の内容を、すべて白日の下にさらしてやる」
相馬は防音扉を閉めた。
背後でカチリと錠が降りる音がした。
スタジオの中には、またしても神谷だけの、完璧にコントロールされた沈黙が戻っていった。
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