回想6 構造が人を殺す
相馬は、ホワイトボードの前に立っていた。
そこに貼られているのは、もはや容疑者の顔写真でも、凄惨な現場写真でもない。
無機質な折れ線グラフと、社会情勢を記した年表、そして番組の音声波形データだ。
相馬は、その三つが完璧に重なる地点に、一本の太い線を引いた。
「……個人の犯行じゃない。これは、演算の結果だ」
偶然という言葉では、到底説明のつかない「一致」がそこにあった。
相馬が洗い出した過去半年分の不可解な衝動犯罪。場所も動機もバラバラなそれらの事件から、共通しない要素をすべて削ぎ落としたとき、最後に残ったのは、呪いのような三つの条件だった。
一、「社会的な低気圧」が立ち込める夜であること。
二、午前二時台。
三、番組内の「沈黙」が総放送時間の三割を超える回であること。
相馬はニュースアーカイブをめくった。
大規模なリストラ報道、震災の余震、凄惨な児童虐待事件の判決――。
人々が「この世界に救いはないのか」と絶望し、心に深い穴をあけたまま眠りにつく夜。神谷はその夜を、獲物を狙う獣のような鋭さで見極めている。
「……選んでいるんだ。最も、決壊しやすい夜を」
次に相馬は、神谷の放送を視覚化した波形データを見つめた。
通常のラジオ番組なら、音の山が途切れることはない。沈黙(デッドエアー)は放送事故だからだ。
だが、事件当夜の神谷の番組は違った。
音声の山と、異様に深い谷。
数秒、時には十秒近い無音が、規則的なリズムで繰り返されている。
「……呼吸だ」
相馬は気づき、戦慄した。
この沈黙は、聴き手の心拍数や呼吸を強制的に同調させるための、巨大な「間」だ。
神谷は命令などしない。ただ、不安で空っぽになった聴き手の脳内に、心地よい「空白」を流し込んでいる。
思考を止め、倫理を忘れ、ただ「衝動」だけが純粋に純化されていくための、完璧な培養液を。
相馬は、震える手でノートに書き殴った。
――これは殺人ではない。「構造災害」だ。
神谷は引き金を引かない。ただ、誰かが引き金を引かざるを得ないように、世界の傾斜を少しだけ変えているに過ぎない。
神谷の過去のインタビュー記事が、脳裏をよぎる。
『夜は、人が一番正直になる時間です』
その言葉の真意が、今は血の匂いと共に理解できる。
「正直になる」とは、理性という名の重荷を投げ捨て、内なる獣を解放することだ。
だが、法はこの「構造」を裁けない。
放送内容は道徳的であり、言葉はどこまでも一般論だ。沈黙は「演出」という名の表現の自由に守られている。
「……捕まえられない。今の法律では、こいつを止める術がない」
相馬は拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込み、痛みが走る。
正義が届かない場所で、今日もシステムは稼働し続けている。
ふと、時計に目をやった。
午前一時五十八分。
資料室の空気は冷え切り、遠くで深夜の街の排気音が聞こえる。
今夜のニュースは、戦地での誤爆と、経済指標の暴落を伝えていた。
条件は、すべて整っている。
相馬は、震える指でイヤホンを耳に押し込んだ。
今夜も、構造が動き出す。
誰かを「怪物」にするための、優しい声が聞こえてくる。
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