透明な辞書を編む
不思議乃九
透明な辞書を編む
西日が、使い古された木製の机に長い影を落としている。放課後の、四等分された教室は、埃の粒子が光の筋の中で踊る、静かな水槽のようだった。
私、秋山は、日直の仕事である黒板消しを手に持ったまま、窓際に座る雪絵を見ていた。彼女は図工の時間に余った色画用紙を細長く切り、丁寧に「栞」を作っている。
「……ねえ、秋山くん」
雪絵が顔を上げずに言った。彼女の指先は、まるで壊れやすい羽虫を扱うように繊細だ。
「この色のこと、なんて呼ぶ?」
彼女が指し示したのは、群青色でも空色でもない、少しだけ緑が混ざったような、けれどひどく冷たそうな青色だった。
「……水の色。でも、水道のじゃなくて、深いプールの底の、タイルの隙間にある色」
私がそう答えると、雪絵ははじめてこちらを向き、少しだけ口角を上げた。
それは「正解」と言われたような、あるいは「見つかった」と言われたような、不思議な感覚だった。
私たちが「初恋」という、まだ辞書にも載っていないような感情の輪郭に触れたのは、まさにこの時だったと思う。
十歳や十一歳の子供にとって、異性は別の星から来た生き物に近い。男子は騒がしく、女子は徒党を組む。互いの言葉は、記号としては通じても、その奥にある温度までは伝わらない。
けれど、この日の放課後、私と雪絵の間には、クラスの誰にも理解できない「共通言語」が芽生え始めていた。
⸻
二人だけの語彙
それからの私たちは、放課後の数十分、誰もいなくなった教室で「言葉のすり合わせ」を始めた。
それは勉強でも遊びでもない。ただ、目の前にある現象に、二人だけの名前をつけていく作業だった。
• 「廊下のにおい」……雨上がりに、誰かが濡れた上履きで歩いたあとの、少しだけ土の匂いが混じった切なさのこと。
• 「鉛筆の沈黙」……テスト中に全員が静まり返り、カリカリという音だけが響くときの、あの心細い連帯感のこと。
• 「遠くのチャイム」……隣の中学校から聞こえてくる、自分たちの未来が少しだけ先取りされたような、くぐもった音のこと。
「これってさ、他の人に言ってもわかんないよね」
雪絵は、窓枠に溜まった光を指先でなぞりながら呟いた。
「うん。きっと、変な奴だって思われるだけだ」
「……秋山くんと私だけが知っていればいいのかもね」
その言葉を聞いたとき、私の胸の奥に、小さな、けれど鋭い痛みが走った。
それが「独占欲」という言葉で定義されるものだと知るには、まだ少し時間が足りなかったけれど、私はその時、雪絵という少女と世界を共有しているという事実に、目眩がするほどの優越感を感じていた。
⸻
境界線を越える音
季節は巡り、教室に差し込む光の角度が鋭くなってきた。
ある日、雪絵がふと、私のノートの端を指で弾いた。
「秋山くん、あのね。『さようなら』って、本当はどういう意味だと思う?」
私は考えた。国語辞典には「別れの挨拶」と書いてある。でも、今の私たちが交わすそれは、きっと違う。
「……明日もまた、この場所で続きを話そうっていう、予約のこと?」
雪絵は驚いたように目を見開き、それからクスクスと笑った。
彼女が笑うと、教室の埃たちが一斉に祝福するように光り輝く。
「それ、いい。すごくいいよ。じゃあ、今の私たちは、毎日予約をし合ってるんだね」
その時だった。廊下で掃除用具入れが倒れるような大きな音がして、部活動に向かう男子たちの怒鳴り声が聞こえてきた。
魔法が解けた。
私たちは急いで距離を取り、お互いに無関係な日直の仕事に戻った。
異性と二人きりでいることが見つかれば、冷やかされ、茶化される。
そんな「子供の世界のルール」が、私たちの純粋な言語交換を脅かしていた。
でも、雪絵は去り際、私にだけ聞こえる声で言った。
「……予約、また明日ね」
その一言は、どんな愛の告白よりも、私の心臓を強く打ち抜いた。
それは「共通言語」を持つ者同士にしか許されない、秘密の合言葉だったから。
⸻
透明な辞書の完成
私たちは、結局一度も手を繋ぐことはなかった。
名前を呼び捨てにすることも、好きだと言い合うこともなかった。
けれど、あの放課後の教室で編み上げた「透明な辞書」は、間違いなく私の初恋そのものだった。
大人になった今、私は多くの言葉を知り、それを使いこなして生きている。
けれど、あの時の「プールのタイルの隙間の色」を、これ以上に正確に言い表せる言葉を、私はまだ持っていない。
異性という、理解不能だった存在が、自分と同じ言葉を話す「個」として立ち上がった瞬間。
それが、一人の少年が世界と、そして愛と出会った、最初の一ページだった。
【了】
透明な辞書を編む 不思議乃九 @chill_mana
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