フェンリルの咬傷
ジョージ
1
ある少年が死んだ。彼の名を仮にJとする。
突然のニュースは小さな田舎町を震撼させた。Jは自由奔放で無邪気な子供だった。背が高く精悍な顔つきをしており、少し特徴的な高い声で笑っていた。その笑い声は人々の気持ちを明るくし、彼がいるだけでその場が日差しに照らされたように温かく穏やかな空気になった。山と川に囲まれた静かな町でのびのびと育った穏やかな少年は町中の人から愛される存在だった。
彼には友人が多く、いつもたくさんの人に囲まれていた。少年達の中ではリーダーの役割をすることが多く、さらに少年野球では四番を任されるほど運動が得意な子だった。小さな田舎町ではかなり目立つ子で、周囲からは県内にある甲子園常連の高校への進学を期待されていた。勉強は苦手で平均的な成績だったが、行事への積極的な参加や委員会での活躍で実力を上回る評価を得ていた。
その少年が、突然死んでしまった。息子の死を知った母親の悲しみはそれはそれは深く、父親の怒りは嵐のように吹き荒れた。親族や近隣の住民は言葉を尽くして家族を支えたが、励ましの言葉は悲しみの中にかき消えて、両親の心が癒されることはなかった。少年の死は、それまでの平穏な家族の生活を一転させてしまった。
彼には中学三年生の姉がいる。彼とは違い地味でおとなしい性格でスポーツは苦手だが勉強が得意で、進学校である隣県の高校へ進学するために親元を離れて祖母の家に移り住み、勉強に打ち込む日々を送っていた。彼女は勤勉で、その甲斐あって成績は学年でトップ、志望校の合格圏にいた。少年が死んだのは、その高校の入学試験を一週間後に控えた夜のことだった。
少年の葬儀は、涙と絶望で混乱をきたし、世界中の悲しみが集められたかのような悲壮感に包まれていた。読経する僧侶の傍らで伏してなく母、怒りに体を震わせる父。姉はハンカチを目元にあてて体を小さくしていた。少年の同級生が葬式に訪れると、母親はさらに泣き乱れて手が付けられない程であった。父親が近隣住民や同級生の保護者と話をしている間に、子供たちは見よう見まねで焼香をあげた。嗅ぎ慣れない匂いのする木っ葉をつまみ形式的な儀式に倣った後、友人らは少年の生気のない白い面を見た。先日までの、子供らしい溌剌とした顔との対比、そして無機質な友人の姿に言い得ぬ恐怖を感じたのだろう。つい先日まで一緒に遊んでいたのに、走り回ってあそびながら一緒に冗談を言っていたのに、死というものが突然友人の魂を奪い去ってしまったことが恐ろしくてたまらないという様子であった。
葬儀の二日後に姉は親元に戻った。隣県の進学校への進学を諦めて近所の商業高校へ進学を決めたそうだ。彼女は少年がいなくなってしまった家で、残された両親を支えるための生活を始めたのだ。伏して泣く母と混乱し取り乱す父に変わり、家事の一切を取り仕切って家族を支えていた。姉と同居していた祖母は、少年の葬儀の後に体調を崩して入院したそうだ。その後は帰宅せず介護施設へ入所することが決まったとのことで、祖母の家が売却されていると近所の噂になっていた。家族は少年が抜けた穴を埋めることに必死で、とても祖母の面倒をみられるような状況ではなかった。毎日、それぞれが悲しみの淵に佇みながらなんとか踏ん張って生活を続けているような状況であった。季節が変わり、春の風が吹きぬける田舎道を歩く姉の姿を見た人は、異様にやつれた酷い様相に心を痛めた。少年は姉が大好きで懐いていたし、姉もよく面倒を見ていた。小さな姉弟が田舎町を駆け回り、ついて回っている姿が多くの人の記憶に残っている。姉弟が連れ立って歩いていた道を、彼の死後は姉が一人で歩いている。町の住人は善良な家族が傷つき荒んでいくのをただ見ることしかできず、何もできない歯がゆさと力不足を嘆いていた。
僕は、この家族に密着取材を申し込んだ。この悲劇をビデオドキュメンタリーとして世界に発信したいと思ったからだ。なぜ少年は死ななくてはならなかったのか。大きすぎる悲しみを前に家族はどう結束し、乗り越えるのか。このドキュメンタリーを通じて、今現在悲しみの中にいる人やその周囲の人間が前向きになれるチャンスにつながればいいと思う。
J君は僕の妹の同級生で友人だった。僕の家に遊びに来たこともある。かつて自宅に遊びに来た時の姿を思い出すと僕も辛くてたまらない。先日までの元気な姿を思い出すたびに胸が張り裂けそうになる。彼との出会いや一緒に過ごした時間については記事の土台としてあらためて記そうと思う。
その上で、僕はこのドキュメンタリーを彼の姉を中心に進めていこうと思っている。少年の姉は地域の子供たちのあこがれの人でもあった。美しく聡明で、子供たちにやさしく接するその姿を、少年の姿と合わせて今も覚えている。そんな彼女の心を救い、何か助けになりたい、恩返しがしたいと僕はそう思っている。
これから、取材を快諾してくれた少年の両親に会いに行って話を聞く。花屋に行って、彼の好きだったゼラニウムの花を買って包んでもらおう。
二
俺たちは、この町の嫌われ者だ。その中でも俺は特別に嫌われている。昔からこの辺に住む人間なら俺と仲間達の悪行をよく知っているから、いい顔をするやつなんていやしなかった。そりゃあまぁ、好かれようとおもったことはないから嫌われたって仕方がない。だが、そんな俺よりもっとずっと嫌われている奴がいた。
そいつが死んだ。あの少年が。
少年と呼ぶのも悍ましい、クソガキでいいだろう。あのクソガキは嫌われ者だった。あいつが公園に現れると小さい子供たちはその場から走り去った。近くにいるとあいつに殴られたり足を引っ掛けられたりするからだ。クソガキはいつも直接的な暴力は行わず、あくまで偶然を装っていた。そうだ、そういえばあいつは足が不自由な子の義足を水たまりに落としたことがあった。その子は義足をつけ始めたばかりで扱いに不慣れだった。歩きにくいのか、何度も接具を外して様子を見ているところへ親切を装って近づき、義足を受け取ると様子を見るふりをして水たまりの一番深いところに落としたのだ。うっかり、手が滑って、と言い訳をしていたが、現場を見ていたやつは明らかにわざとだったと言っている。いつも子分のように同級生や下級生を引き連れて、人目がない場所で女子や年少者の急所を殴るふりをして恐怖を与えていた。大人に対して見せる顔と、子供たちの前で見せる顔はまるで違っていた。それは自分の仲間内では有名な話だ。仲間の中には、小さい子が首を絞められ泣かされているのを見たという奴もいた。
そんなクソガキが死んだ。正直いい気味だ。
葬儀の日、散々みんなに嫌がらせを繰り返したあいつの死に顔を見てやろうと奴の家まで仲間たちと向かった。だが、数メートル手前にたくさんの警官が待ち構えていて近づくことすらできなかった。仕方なく辺りをうろうろしていると、数台のパトカーが裏通りから住宅街の入り口近くの国道沿いまで点々と止められていることに気がついた。その中の一台に、少年の父親が乗っていた。そのまま逮捕されてしまえばいいのに、なぜかすぐに降ろされてしまい、父親は自宅に帰って行った。思わず舌打ちをしてしまった。無能な警察官め。
その日の夜、遠く離れた場所で暮らしているはずのクソガキの姉が帰ってきた。正確に言えば、おそらく帰ってきた、というのが正しいだろう。あいつの家の前の道で誰かとすれ違ったその時に、鼻をくすぐった懐かしい匂いに振り返ってみるとクソガキの家の扉が閉じる音がした。姿は見えなかったけれど、あの匂いの人物が家に入ったことはわかった。彼女はとてもやさしく善良な人間で、あの家で育ったとは思えないほどまともな女性だ。そんな女性が亡霊のように暗く萎びた姿で歩いていたなんてとても信じられない。いや、信じたくない。だけど姿は変わったとしても、あの優しくて柔らかな匂いは変わっていない。彼女を見送った後、どうにもやるせない気持ちが胸をざわつかせて消えなかった。
彼女はかつて、乱暴で手に負えなかった自分に唯一優しくしてくれ、優しさを分けてくれた恩人だ。といってもまだおさないころの事だ。喧嘩ばかりしていつも一人でいる自分に声をかけ、諭しながら一緒に遊んでくれたりおやつをくれた。初めはうざったいと思ったけれど、次第に彼女の真心と穏やかな言葉に癒され、自分の憧れの人になった。そんなやつは俺だけじゃない。ここいらでやんちゃしていた仲間たちは、一見おとなしそうな彼女のおせっかいに助けられたやつばかりだ。
彼女を久しぶりに見かけた時も、声をかけようか悩んだけれど、もうすっかりこちらの見た目も変わっているし迷惑になるかと思ってしまいできなかった。また、その後もなんとなく気まずい息持ちを引き摺ってしまい声をかけることができなかった。また彼女の笑顔が見たいが、それはかなわないのだろうか。あんなクソガキのせいで、優しい姉が悲しむ姿を見るのは心苦しい。死んでせいせいすると思っていたが、死んでまで余計なことするなよと怒りが沸きあがる。
今度、仲間と彼女にお見舞いをもっていこう。クソガキへの哀悼の意なんてものはみじんもないが、俺たちがする何かで彼女の気持ちが穏やかになるのであればクソガキの死をいたわる演技くらいできる。
三
僕はドキュメンタリーの構成を大まかに決めることにした。まずはJ君のこれまでの人生を振り返ることにした。彼の短い人生がどのように始まり、周囲とどんなふうに関わっていたのか。一番わかりやすいのは家族に話を聞くことだろう。なんせ生まれた瞬間から彼を知っているのだ。
家族への取材依頼は早い段階で出していたが、なかなか色良い返事は貰えていなかった。子供が死んだばかりなのだから仕方がないとしても、無視されるのは堪える。しばらく時間を置いてから出直そうと諦めかけていたが、ある日偶然駅前でJ君の父親に出会い、声をかけたことで最初の取材が実現することになった。ここからはJ君の父親をOさん、母親をMさん、姉をEさんとして進めていこうと思う。
僕は胸元にカメラをつけ、タブレット端末に接続されたマイクを用意して彼の家を訪問した。取材の最初の場所は少年の生まれ育った生家だ。Oさんは、今回の取材を受けてくれた理由について以下のように語ってくれた。
「本当にね、もうどうしてくれるんだという気持ちでいっぱいですよ。Jが、こんな、こんな目に遭うなんて。(顔を手で覆って唸る)こんなはずじゃなかったんだ。あの子は優秀な子でね。勉強だって頑張ってました。中学受験のために引っ越しを検討していたところだったのに。あっちでの塾も決めていて、これからだって時に。あのね、俺は悔しいんですよ。本当に。どうしてこうなったんだってね。うちは先祖代々この土地で真っ当にやってきたんです。畑をまもりながら、地元に貢献してきました。ご存知でしょう?うちの母方の大叔父が市議会議員だったこと。あそこに写真がありますがね、その息子は霞ヶ関の官僚になった男ですよ。本家の方では食品加工の事業がうまくいっていて、従業員にもいい生活をさせています。こんな真面目で善良な家庭なのに、なんでこんなことに。もうこの土地には住めないのかと思うと、本当に悔しくて悔しくてね。大切に育てた長男が、あぁ、本当に、悔しくてたまらない。妻もあれから泣いてばかりで使い物にならないし、飯すらまともに賄えんのですよ。家も荒れる一方だ。本当に…一体、俺が何をしたんだって!ただ真面目に、この土地にねざすものとして実直に生きてきただけなのに!」
この後は、同内容の繰り返しになるので割愛するが、Oさんの目には怒りと悲しみが満ちていた。案内された和室は、線香の匂いと少しだけ生ゴミのような臭いがした。家事もままならないというのは本当なんだろう。玄関から和室までの数メートルの間に物が散乱しほこりが舞っていたし、和室にはティッシュやチラシなどのゴミが散乱していた。隣室から聞こえる泣き声はMさんだろうか。泣き崩れる母親と和室の座卓で怒りに身を震わせる父親、それから荒れた室内を遺影の中のJ君はどんな気持ちで見ているのだろうか。畳の上に置かれた遺影からはなんの感情も伝わってこないが、きっと彼ならこう言うだろう「泣かないで、泣いてどうなるって言うの?前を向いてもう少し頑張ろうよ」と。
彼の優しい声を思い出す。泣いている子がいれば、すぐに駆けつけて肩を抱きしめてそんなことを言っていた。
Mさんにも話をしてもらいたかったが、部屋から出てくるどころか、僕の問いかけに返事すら返してくれなかったので、断念せざるを得なかった。
夕方になり、姉のEさんが帰宅したところでOさんへの聞き取りを終わらせてEさんに取材を申し込んだ。両親からは了承をもらっていたがEさんには頼んでいなかったから、念のためというつもりで取材のお願いからと話しかけたところ、
「え、取材…?どうしてですか?ちょっと、これ、顔映ってますか?」
と僕の胸元につけたカメラに向かってEさんが怒りの表情を向けた。相変わらず美しいが、かなりやつれていた。
「顔を映しません。声も変えます。ただ、ありのまま事実をお伝えしたいんです」
僕は必死になってそう訴えたがEさんには響かなかったようで、突き飛ばすように家を追い出されてしまった。Mさんは泣き続けていて話を聞けそうにないので、Eさんの機嫌が治るまで他の方への取材を試みようと思う。
四
良いドキュメンタリーにするには、少年の人柄を掘り下げなければならない。ということは次の候補は少年のことをよく知る人物。真っ先に思い当たったのは少年と仲が良かった友人だ。小学校や少年野球の練習にいけば会えるので、そうそう難しくないだろうとたかを括っていたのだが、実際にはことごとく取材を断られてしまった。しかたがない、彼らもまだ心の傷がいえないんだろう。とある女子児童の保護者からは塩をまかれたりと、この事件の深刻さが窺えるような、またドキュメンタリーの難しさを知る良い経験ができた。
学校への取材も、電話口ですぐに断られてしまった。数日かけて何度か取材依頼を出してみたが、ついには着信拒否されてしまい学校への取材は断念せざるを得なかった。
次に取材交渉をしかけたのは少年が所属していた少年野球チームのコーチだ。四十代の男性と、二十代の男性が二人。若い方はOBだそうで、子供のいない既婚男性と単身男性だった。仕事が忙しいという理由で若いコーチのうちの一人がメールでの質疑応答のみ対応してくれたが、肝心なことに関しては回答を拒否されてしまった。以下にそのやり取りを記載する。
「今回は取材に応じてくださりありがとうございます。ジャーナリスト阿武と申します。今回はJ少年の死に関する取材にお答えいただけるとのことで、いくつか質問を用意しておりますのでご回答お願いいたします。ではまず、少年の死を聞いた時はどう思いましたか?」
「もちろんショックでした。子供が死ぬというのはとてもつらいです。しかも身近な存在でしたので」
「彼は非常に熱心に野球に打ち込んでいたようですが、コーチという立場で見てどのような少年でしたか?」
「はい。たしかに彼は熱心に練習に打ち込んでいました。体が大きくて、よく動ける選手でしたから試合でも活躍していましたし、チームメイトをまとめるのがうまかったので年長者になってからは、特にチームになくてはならない存在でした」
「他のチームメイト達に、彼の死後影響はありましたか?」
「それはもう、大変大きな影響を与えていますよ。影響というよりも、受け止めきれないような衝撃を子供たちに与えたようです。あの事件の後しばらく外に出られなくなってしまった子もいるとか。彼はチームの中心でしたのでチームにとっても大きな損失です」
「そうですか。具体的に、チームが機能しなくなるような出来事はありましたか?」
「はい、そうですね。ことがことですから、積極的に声をかけることはせず、しばらく各家庭で子供達の心のケアに当たっていただきましたので練習は中断しておりました。個人練習をつづけている子もいるようなので、そろそろ再開しようかと、少しずつですが話しているところです」
「少年の事件について、あの事件の日に一緒にいた児童というのが野球のチームメイトだったという噂がありますね。もしそれが真実だとしたら、その児童は酷く傷ついているのではないでしょうか」
「その件については知らされていません。噂も聞いたことがありませんのでお答え致しかねます」
「チームの練習では、あの山を使うこともあったそうですね。坂道ダッシュや筋トレをするために場所を借りていたそうですが、少年の最期の場所にチームで行ったことはありますか?」
「お答え致しかねます。チームはあの事件とは無関係です」
このメールを最後に返信が来ることは無くなった。怒らせてしまったのかもしれない。謝罪のメールを送って、コーチへの接触は諦めることにした。とりあえず編集中の動画にメール画面のスクショを貼り付け、メールの内容と文面から推測されるコーチの人柄を原稿に殴り書きしてからその日は眠りについた。
翌日、四〇代の監督からメールが送られてきた。取材を断ったくせに、あちらからメールが来るなんてどうにもおかしい。訝しみ中がら開けたそのメールにはお叱りの言葉が記されていた。偉そうに上から指示を出すような文体に違和感を覚える。
「阿武さん
昨日、チームのコーチの一人とメールにてやり取りされたことに関して、お願いとお伝えしたいことがあります。
昨日の取材内容につきましては記事にするのを差し控えていただきたくお願いいたします。彼の死に関することはどんな小さな事柄でも子供達の心の傷になりかねません。まだ彼がいなくなったことを受け入れられない子も多くいます。ほとんどの児童は初めて身近な人の死に触れ、戸惑いの中日常を取り戻し始めたところなんです。あなたにも彼と同級生の妹がいると聞きました。それであればおわかりいただけると思いますが、身近な友人の死というものがどれだけ大きな影響力を持つのか明白ではないでしょうか。子供たちの心を守るため、どうかチームの関係者から聞き出したことに関しては決して記事にしないようにお願い申し上げます。
また、お伝えしたいことというのは当日のチームメイトの動向に関することです」
僕はここで興奮を覚えた。そうだ、僕が一番知りたかったのはそこなんだ。彼はあの日、同級生と野球の練習をすると言っていた。週末に控えた競合チームとの試合に備えて同級生の三人と下級生二人とピッチング練習をすると。彼の言ったとおり夕方まで練習していたとして、彼が死んだと予想される深夜までの間誰かと一緒にいたとすればチームメイト、もしくは野球関係者の可能性が高い。夜中に出歩ける子供は数少ないが、もし相手が大人だったらどうだろう。彼の死体の近くにはバットが落ちていた。バットが彼の死に関係しているとすれば、真相を知っている人間がチーム内にいる可能性は高いのではないだろうか。
「彼と一緒に練習をしていた子供六名については、全員が一八時までにそれぞれの家庭に帰宅していたことを確認しています。彼も練習後は自宅に帰っていたという証言もあり確認が取れております。彼は確かに自宅に帰りました。たとえ彼の家族がそのことを覚えていなかったとしても、チームメイトたちが自宅方面に歩いていく彼の後ろ姿を見ています。チームの練習は、十八時には完全に終わっていて、彼の死に関わった者は一人もいないということをお伝えしておきます。
ですので、取材と称してチームの子供達、並びにコーチに接触を図ることは金輪際お控えください。
もし今後学校、グラウンドの周辺であなたの姿を見た場合には警察に通報させていただくことも考えています。よろしくお願いします」
失礼な言い回しだ。これ以上、話を聞くなということだ。本当に十八時までに家に帰ったかどうかなんて誰にも分からないのに。誰かがこっそり戻っていたら?解散した後に彼と合流していたら?そもそもこの年配のコーチが関わっていたとしたら?その可能性がある以上、チームメイトへの取材をやめる理由にはならない。
僕は早速、小学校に向かった。もちろん変装のためにマスクと帽子を被り、児童が出てくるまでは物陰に隠れて見つからない場所からそっと覗くだけだったが、十四時半を過ぎて低学年の子供が下校し始めたところで目をつけていた子の後をつけて行き、下校班が解散するあたりで声をかけた。野球チームに所属しているW君だ。確か二年生だったと記憶している。
「J君について教えて欲しいんだ」
僕がそう声をかけると、W君は肩を震わせて驚いた。まんまるに見開かれた目に僕のシルエットが映る。
「え、え?」
「大丈夫だよ、僕は彼の友達なんだ。J君が死んでしまってとても悲しいから、彼のことを知っている人とお話がしたくて。君はJ君と仲が良かった?」
僕の問いかけにW君は何も返さなかった。というより、体を硬直させたまま何もできずにいたという方が正しいだろう。
「んー、緊張しなくていいんだよ、僕はみんなの味方だから。J君は君に優しかっただろう?ね、僕も優しいから安心してほしいな。ねぇ、彼と君はどんな話をしていたの?あの日、君も一緒に練習していた?」
W君は震えるように首を横に振った。いいえ、ということだろうか。
「練習していなかったということかな、そうか君はレギュラーじゃないものね。ごめんごめん。じゃ、次の質問ね」
彼は視線を彷徨わせて何かを言おうとしているようだった。少なくとも僕にはそう見えた。
「ん、何?何か言いたいことがある?」
また彼は首を振るわせた。言いたいことがあるわけではないのか。ではなんだろう。小さな体に似つかわしくない立派なランドセル、短く刈り込まれた髪と日焼けした肌。見るからにやんちゃそうな男の子が女の子のように動揺しているのはなんだか異様だ。
「言いたいことがあるならはっきり言ってくれないかな、彼とは仲がよかったの?彼のことを嫌っているようなメンバーはいた?」
W君はサッと左手をランドセルの後ろに回して何かを叩き始めた。なんだ、何をしている?ランドセルの側面に何かあるのだろうか。それとも…
ビー!
けたたましく防犯ブザーの音が響いた。このガキ、防犯ブザーを鳴らしやがった!僕は人が集まってくる前にその場を去るため必死に走った。マスクが息苦しいのですぐに剥ぎ取って側溝に捨てた。
クソ、クソ!あの日の彼の様子が知りたいのに、なんで誰も協力的じゃないんだ。コーチもメンバーも、きっと何か隠しているに違いない。彼が一人で夜中にあそこに行くなんてありえないんだから。僕なしであそこに行くなんて。誰か一緒だったはずだ。僕以外の誰かが。そいつが知りたいだけなんだ。
自宅に戻り、不要な箇所はカットしながらW君が悲しみに暮れているように動画を編集した。W君の顔にモザイクをかけ、字幕を足すことでそれっぽく見せることができた。コーチのメール、W君の非協力的な態度、そして学校の不親切な姿勢とJ君家族の混乱と陰鬱とした生活。それらが示していることは明白だ。この街には彼の死の真相が暴かれることを、真実が明かされることを恐れている人たちがいる。その正体を暴くことこそが、今の僕の最大の使命なんだ。
五
Oさんから連絡が来たのは、取材した日からちょうど一週間後のことだった。以前は僕がOさんを熱心に説得してなんとか引き受けてもらった取材だったが、今回はOさんから電話がきて、あちらから日時を指定された。きっと彼に僕の熱意や誠意が伝わったのだろう。
指定された喫茶店は繁華街の地下に作られた薄暗い店だった。全席禁煙と書かれているが店内はとてもヤニ臭く、カビと混ざったひどい臭いに満ちていた。店内に入った瞬間、あまりの臭いに僕は呼吸が難しいと感じたので比較的臭いがマシな一番入り口に近い席に腰を下ろした。店員にアイスコーヒーを注文すると十五秒ほどでなまぬるいコーヒーが提供された。それを一気に飲み、原稿を整えながら待っていると慌てた様子でOさんが入店、席につくなり机の上に書類を広げた。
「これなんだがね」
挨拶もなく広げた書類の一箇所を指差しながらOさんが言った。指差したところには文章が左右に別れて不自然に並べられていて、よく見てみると、短い会話が交わされているような内容だ。
「阿武さん、あなた若いからご存知かも知れませんけど、今の子っていうのはメッセージをSNSで送り合うらしいんですよ。で、これがあの子のSNSでのメッセージのやり取りなんですけどね」
Oさんが僕の対面の席に腰を下ろしてから手を挙げた。店員がメニューを持って近づいてくるのを横目に、指し示された箇所に目を通した。
「スマホを渡したのは妻なんですがね、いや、それにしても私は反対したんですよ。まだ子供なのにスマホなんて渡す必要ないって。インターネット対戦ができるゲーム機も買ってあげていましたしね、あ、メロンソーダ」
店員がメニューを持ったままキッチンへ去っていった。
「で、ここ。わかりますか?いかにあの子の友達がくだらないか」
Oさんが指を置いたところに書かれていた文字は「マヂぶっころすから」だった。
「マヂ、ですよ。マヂ。この言葉遣いをどう思います?ジャーナリストとして」
少年は同級生と喧嘩になっていたようだ。相手がかなり激昂しているようで、ぶっコロス、なめんな、さらす、などの言葉とともに「同じめに合わせてやる」と書かれていた。相手は何歳なんだろうか。スマホを操作できる年齢だとしても幼い言葉遣いだ。
「非常に攻撃的で、幼いですね」
僕の回答にOさんは満足したようで、ジャケットの胸元から電子タバコを取り出した。カートリッジをセットしながら
「そうでしょう。こんなくだらないやり取りをさせるためにスマホを持たせるなんて、まぁなんだ、女はほんとう考えが浅い」
怒りが妻に向いているようだが、どうにも本心では無いのだろうと思う。人前で妻を貶めることが癖になっているだけだろう。僕は当たり障りない返答をすることにした。
「まぁ、そうですね。とはいえ今は小学校でタブレットを配布する時代ですからね。僕らの時代とは違ってスマホを持ってる子も少なくはないんじゃないですか?」
「は、タブレット、タブレットね。そんなものよりもっと学ぶべきことはあるでしょうに、そんなものに金をかけるくらいなら給食費を削減するなりなんなりできるでしょうに。バカばっかりなんですよ。本当に今の教育はどうなっているのか」
「教育、というと」
「学校も学校じゃないか。子供同士でこんな乱暴な言葉を使っているなんておかしいと思わなかったのか、それともこんな言葉を使うように指導していたのか。あの子の担任はまだ二十代の若い女だったから、きっと指導が甘かったんだろうね。葬式で会った時も、ろくに挨拶をしやしない」
Oさんは運ばれてきたメロンソーダに口をつけた。唇を突き出すようにしてストローを吸い上げる姿は、少し大袈裟な気がして昭和のコメディアンのように見えた。すかさず電子タバコに吸い付く。ストロー、電子タバコ、ストロー。唇をチュウと突き出してはしきりに吸い込み続けている。
言いたいことは言い切ったのだろうか。
この後、OさんはEさんの文句を挟みながら、同じ内容を話してはちゅうちゅうと何かを吸い、また同じ話を口にしては僕に同意を求めてきた。壊れてしまったようだ。彼の口は電子タバコの煙と甘ったるいメロンソーダを吸い込んでは、悪言を垂れ流す。そのためについているのだろうかと思わせるほど同じことを何度も繰り返していた。壊れているとしか思えない。ちゅうちゅうダラダラ。嫌になる。少年が僕に生前語ってくれた彼の父親の話を思い出して、内心おかしくてたまらなかった。
次に取材を申し込んだのは彼の祖母Kさんだ。まだ売却前だったKさんとEさんが暮らしていた家を訪れると留守だったので、隣の家の住人に声をかけたところ現在入院しているという病院の情報を入手することができた。彼女たちの評判はすこぶるよく、近隣住民の誰に尋ねても心配と労いの言葉ばかりが聞こえてきた。
病院の受付で孫ですと名乗ると部屋番号をすんなりと教えてくれた。老人ばかりが詰め込まれた大部屋の一角だ。Kさんは血管の病気になってしまったらしく、たくさんの点滴に繋がれてとても苦しそうだった。
以下にKさんとのやりとりを記す。
「すみません、突然。僕はJ君の友人で阿武と申します。Kさんですよね」
Kさんがわずかに頷く。
「彼のお葬式であなたの姿を見かけました。あの時は歩いていらしていたのに、急にご体調が悪くなられたんですね。大変な時にすみません。でも僕には、使命があるんです。だから協力してください!彼の死の真相をきちんとみんなに理解してもらうという使命なんです。Kさん、協力してくれますよね」
Kさんはわずかに頷いたように見えた。後から映像を見返しても、頷くように首を動かしたように見える。
「では、教えてください。あなたにとってJ君はどんな孫ですか。可愛いですか、それとも自慢の孫ですか」
Kさんはしばらく視線を泳がせた後、ゆっくりと目を閉じた。口は一切動かしていない。老人特有の間合いだろうと思い、僕は根気強く返答を待った。
「孫、でした」
Kさんはそれだけ呟くと僕の方を見て口を閉じた。
「でした、というのは、はは、それはそうなんですが。そういうことではなくて」
あぁ、困った。ボケてしまったのだろうか。
「あの、J君の人柄を教えてほしいんです。彼が小さい時の話とか、最近の様子とかを教えてほしいんです。わかります?」
Kさんは僕を見つめたまま、わずかに口をもごもごと動かした。声にならない声で何かを言ったのかもしれないが聞き取れない。
「実は、Eさんが僕の取材に応えてくれなくて困っているんですよ。彼女からもJ君の話を聞きたいのに、僕の質問に一切答えようとしないんです。なぜなんでしょう、どうしたらいいと思いますか」
それから何を問いかけても、Kさんはじっと僕を見つめるだけで答えてはくれなかった。あぁ、嫌になる。彼が祖母の話をしなかったのは、きっとこういうところが嫌だったからなんだろう。利発な彼とはきっと相性が悪いはずだ。
僕はKさんへの取材を諦めることにした。撮れ高がないので取材自体をなかったことにしようか悩ましいところだ。ボケているという描写だけを記録しておこうか、いいや、それとも全カットか。
「孫ではない。私の孫は一人だけ」
背後からはっきりと聞こえた。ボケた老人の言葉とは思えないほど、はっきりとした声だった。僕は振り返らず病院を後にした。
次に取材を行ったのはOさんの従姉妹夫婦だという二人だ。年は六十代だろうか、隣市の駅前の喫茶店で話を聞くことができた。
第一印象は金持ち、最終的な印象はやはり金持ちだった。Oさんの家もそこそこ立派ではなるが、きっとこの二人の家には敵わないのだろうと思う。テーブルに見せびらかすように置かれた外国の車のキーとハイブランドの財布、キーケース。ブランドロゴが大きくプリントされたジャケットと鞄。総額は一体いくらになるのだろうか。
「この度は、取材へのご協力ありがとうございます」
「いいえ、いいんですよ。他ならぬO君の頼みだもの。私も彼のことは可愛いがっていたしね」
奥さんは話好きなようだ。一方で、
「僕はね、会社が忙しくてあまり親戚付き合いができていないんだけども。まぁ野球を頑張っているということは聞いていますよ」
そう話す旦那さんは、心ここに在らずという様子で窓の方をしきりに気にしていた。
「そうなんですよ、あのお家大変でしょう、ほらお姉ちゃんがあれだから。Mさんもなんだかぼーっとして頼りないし、いつもO君が一生懸命家族を引っ張ってなんとかやっているような状態だったんですよ。J君はそんなお父さんの背中を見て順調に大きくなっていっていたし、これであの家も安泰だわなんて話していたところだったのに、まさかねぇ」
ここで奥さんは運ばれてきた紅茶を一気に飲み干した。熱くないのだろうか。カップの中身はあっという間に空になってしまった。
「Mさんもね」
奥さんは半笑いで続けた。
「あの人、都会から来た人でしょう?なんか衣類のご商売されているお家の方だから、こういう田舎で土地を耕していたり、工場をやっている私たちとはちょっと話が合わないというか、ねぇ。いつでもおしゃれして東京で遊んでいるような話ばかりしていて感じ悪いじゃない?なかなか馴染めないだろうなと思ってお誘いしても、平気な顔で断ってくるしちょっと浮いているのよね」
話し方がOさんそっくりだ。そうか、奥さんがOさんの血縁なのか。
「O君が東京の大学に行っている時に出会ってすぐ結婚しちゃったんだけど、もう少し考えるべきだったと思うのよね。その時も言ったんだけど、どうしても彼女がいいって聞かなくて。ほんと、いつ会ってもぼーっとしてて、動いたかな?って思ったら野良犬だの野良猫だの近所の子供だのの面倒見てるような変わり者じゃない。ほんと、なんであの人この土地に嫁いできたのかしら」
ここから、奥さんの独壇場だった。J君の話は一切なく、延々とMさんの悪口だ。僕は途中から適当に相槌を打って受け流すようになっていた。悪口は一時間に及び、最終的には「だからJ君はお父さんしか頼れる人がいなかったのよ。あの二人はとっても仲が良かったの。本当に、将来が期待されていただけに残念だわ」という結論で締められた。
帰り際にご主人がそっと話しかけてきた。奥さんがトイレに行っている時のことだ。
「この話、載せないでほしいんだけどね。正直言ってあまり取材に関係ないとは思うんですけど、あの夫婦うまく言ってなかったらしいよ。お姉ちゃんが家族をまとめていたようなもんだから彼女が出て行ってからはうまくいかなくなってしまったみたいだね。J君も家に居場所がなかったんじゃないかなぁ。かわいそうに」
そう言ってうーんと唸っていた。これはいい話を聞いた。J君から両親の仲が壊れているという話は聞いたことがなかったので、寝耳に水だ。Eさんは家を出てしまい、両親は不仲、J君の家庭はバラバラになっていたということになる。
僕は家に帰ってすぐ、ご主人が教えてくれた事実だけを原稿におこした。動画は使い物にならなかった。ブランド物がぎゅっと集められて安っぽい間違い探しのようだったからだ。
原稿を書き上げてから、ドキュメンタリーをざっと見直してみた。原稿に比べて動画のボリュームが足りない気がする。Eさんが僕を突き飛ばすように押し出すシーンや、入院している痛々しい老女の映像は視聴者の心をつかむだろう。だが、足りない。原稿の方はなかなかの量になってきたが、動画がなければ説得力に欠けてしまう。彼の人となりを証明するために、もっと美しいエピソードや、友情の物語、大人からの良い評判を集めなければならない。
六
「え、困ります」
J君の担任教師だったTさんは顔を曇らせて走り去ってしまった。
次の取材対象は少年の担任の教師に決めた。若い女の教師だという話を聞いて、直接確認しに行けば話が聞けるのではないかと思ったからだ。妹の部屋の学用品の棚に乱雑に積まれているプリントの中から教師紹介のプリントを見つけたので、名前と担当学級、得意科目、好きな給食と子供の頃夢中になった遊びは知ることができた。学校に取材の申し込みをしても無駄だったので、非正規の取材ということになる。ここは児童の兄という立場を利用して話しかけてみるか、と一か八かで声をかけた結果がこれだ。
だがそれくらいのことで諦めるわけにはいかない。翌日も同じ時間に、駅前のバスロータリーで待つことにした。学校の周りでは誰の目があるかもわからないが、人目のない場所ならば落ち着いて話ができるかもしれない。昨日より十分ほど遅れてTさんは現れた。
「困ります、と言いましたよね。しつこいですよ」
僕を見ると、開口一番にこう告げて再度走り去ろうとした。が、バスを待っている状況で行き場がないことを思い出したのか、少し足踏みをするだけであとはこちらに背を向けて無言の抗議をしめしてきた。
「お願いします。僕実は、乃亜子の兄なんです。先生にお世話になったことはないかもしれませんが、それでも同じ学校に通う乃亜子のことを、同級生たちのことを考えてあげてください!不安でたまらないはずなんです!僕もそんな乃亜子の保護者の一人として知っておきたいんです」
こんなふうに説得してみたけれど、Tさんの態度は軟化することなく、頑なに背中を向けて無視を続けた。停留所にバスが到着するや否や駆け足で乗り込んで運転士に何かを早口で伝えていた。初老の運転士にひと睨みされて、僕は泣く泣く諦めざるを得なかった。
家に帰って原稿をまとめた。Tさんに取材を断られたことと、彼女の頑なな態度について。一応、動画編集の時に乃亜子の名前に音を被せた。けれど、妹の名前を出した方がリアリティがますだろうか。僕の身分を明かした方が視聴者は共感してくれるかもしれない。少し考えた後、効果音は外すことにして編集を終えた。
それにしても、皆この事件の真相を知りたいと思わないのだろうか。昼間の頑なな態度を思い出すと腹が立って仕方がない。なぜJ君の死を話題にすると皆硬く口を閉ざすのだろうか。まさか、何か秘密を知っていて隠しているのか、それとも事件そのものに関わっていて話すことができないのか。様々な憶測が脳内を駆け巡り考えがまとまらない。雑然とした情報を並べていると生前のJ君の笑顔が浮かんできた。妹を訪ねてきた時の優しそうな微笑みと、学校行事で見かけたときの自信に満ち溢れた凛々しい表情。そして二人で遊んだ時の無邪気で可愛らしい笑顔。彼はなぜ、どうしてあのように命を終えなければならなかったのだろう。TさんやEさんは何を知っているのか、それとも本当に何も知らないのか。
僕は彼のことが好きだった。彼も僕といるとひときわ楽しそうだった。生きている間に彼ともっと話がしたかった。初めて妹に会いにきてくれた時、お兄さんとも仲良くできたら嬉しいです、と言ってくれて本当にその言葉通りになった。快活で感じがよくて、とても穏やかな少年だったので彼が家にいるだけでワクワクした。年上の僕に気を遣っているのか、おやつやゲームを遠慮しつつも楽しい話題を振ってくれて、お互いにとても楽しい時間を過ごせたと思う。僕らはともにSNSやバラエティのようなくだらないものは興味がなくて、子供が見ないような討論番組や情報系の配信者が好きだった。もっぱらそういった話にはながさき、時には討論っぽく話し合いに熱が入ることもあった。
とても楽しく過ごしている僕らとは違い、妹の方はいつもむすっとした態度をとっていた。あいつはアイドルやお笑いなんていうくだらないものが好きだったから。J君は何度か家に遊びにきたけれど、その度に僕らは共通の話題で盛り上がった。妹は彼のことが煩わしかったようで良くない態度をとることも多かったが、その度に僕は誠心誠意彼に詫びたし、年頃の女の子の難しさを説いてなんとか気持ちを鎮めてもらっていた。なんとか妹を説得し、彼の素晴らしさを理解させて関係を改めさせた。
彼がいなくなってしまった今、毎晩布団のなかで彼の笑顔を思い出す。色素の薄い頬が紅潮して微笑むたびにとろりと目尻が垂れるのが好きだった。彼の死に際の様子が生前の笑顔と重なって頭の中を巡る。潮騒の中でふと音が消えた瞬間に感じる不安のように、ぎゅうと胸が苦しくなった。
翌朝、再び学校を訪ねた。開門と同時に到着したので、小さな青色の帽子に飲み込まれそうになりながらなんとか目当ての子に声をかけることができた。妹の友達のゆいちゃんだ。ゆいちゃんは僕を見ると驚いたように目を見開いた。僕は彼女の手提げの中に原稿を詰め組むとすぐにその場を後にした。通報されては困る。
その後、コンビニでパンを買って少年の家の近くにある公園へ向かった。曇り空の下、どんよりとした空気が流れる植え込みの近くにあるベンチに老人が二人腰を下ろしていた。知り合いでは無いが敵でも無い距離感。声をかけることはないけれど、どちらかが来なくなったら寂しいと思う程度の関係なんだろう。四人掛けのベンチは老人達のパーソナルスペースで埋まっていたので、二人から少し離れたところにある石垣に腰を下ろした。お尻の下が硬くて痛いが、あの関係性に割って入ることは憚られるので仕方がない。やがて小さな子供をたくさん連れた保育士達がやってきて、三十分ほどで去っていった。僕はその間パンをできるだけゆっくりと食べた。二時間ほど経過した頃に、ベビーカーを押した女が数名公園に入ってきて子供達を遊ばせ始めた。タブレットを取り出して、なんらかの作業をしているように装いつつ、まぁ、実際には自分が書いた文章を眺めているだけだったが、不審者として通報されては困るのでなるべく気配を消せるように息を潜めていた。石垣の上を胡麻粒のような蟻が這い回っている。ジーパンの上に上がって来ないのは、僕が食べていたパンのカスを集めるのに忙しいからだろうか。それとも僕に殺されるとでも思っているんだろうか。
昼が過ぎ、急激な眠気が押し寄せてきた頃に彼女が姿を現した。Eさんだ。僕は撮影用のカメラを胸元に仕込んだ。
制服をきちんと着て、エコバックを手に下げて足早に歩いている。目鼻立ちははっきりしているのに、どこか垢抜けないのは伸ばしっぱなしになっている髪の毛や手入れされていない眉毛のせいなんだろうか。利発な小学生がそのまま大きくなったような容姿だ。美しいと思った彼女も歳を重ねることでバランスが崩れてしまったようだ。
「あの、すみません」
僕の声かけに彼女は足を止めた。驚いたように目を見開くと、僕と目が合った。かつて近隣の子どもたちのよき相談相手となっていた優しい面影はなく、僕を刺すような目でひと睨みすると背中を向けて歩き始めてしまった。
「待ってください!待って、お願いします話を聞かせてください」
「話すことはありません」
「こちらにはあるんです、5分でいいのでお願いします」
「いえ、無理です」
「お願いします、彼のことをあなたの口から聞きたいんです」
「は、話すことはありません」
「いえ、あなたにしかわからないことがあるはずなんです。真実を知って、世間の誤解を解きたいんです、お願いします!お願いします!」
彼女は足を止める気配を見せないまま、自宅の門を入って行ってしまった。玄関の扉を開けて狭い隙間に体を滑り込ませてから扉を閉めようと振り返ったところで、僕はリュックを投げた。門の外から投げたそのリュックは、ちょうど玄関扉の間に挟まったので、一瞬の隙ができた。その隙を逃さず、門の中に飛び込んで扉に手をかけた。あとは力一杯引くだけだ。
「っ…いた!」
リュックというクッションが外れた瞬間、Eさんは思い切りドアを閉めた。僕の指が挟まるのも構わずに。
「痛い!痛いです!」
指の関節が燃えるように熱くなった。ゴリゴリと骨を伝わる振動が神経を震わせておしっこが漏れそうだ。どんなに大きな声をあげても彼女はドアを閉じる力を緩めることはない。第二関節から先の感覚がなくなり、ちぎれてしまうと思った次の瞬間
「どうしました?」
背後から男性の声が聞こえてきた。大きな手と水色のワイシャツが伸びてくるのが見え、扉を力強くひいた。すぐに警察官だと気がつき、僕は「お願いします」と何度も呟いて指の解放を願った。彼女は警察官の存在に気がつくと扉から手を離したようだ。僕の手は解放されたが、燃えるような痛みが指から全身を駆け巡る。骨の細さまで凹んで真っ赤から紫に変色した指には感覚がなくて、本当にちぎれてしまったんじゃないかと怖くなった。指をお腹の中に抱えるようにうずくまって痛みを耐えていると、門扉からさらに二人の警察官が入ってきて「大丈夫ですか」と声をかけてきた。大丈夫なわけあるか、と毒づきたかったが、全身を震わせるような痛みにうまく舌が回らなかった。
その日、僕は警察署に連行された。事情を聞かれた後、病院で指の手当てをしてもらい、家に帰れたのは二十一時を回った頃のことだった。指が痛くて食事もろくに摂れないしタイピングすることもできない。ただ、ひたすら水道水をコップに汲んで飲みながら空腹を満たし、Eさんの行動の理由を考えた。
なぜ、Eさんは取材に非協力的なんだろうか。弟の死の真相を知りたくないのだろうか。たった一人の姉弟なのにあまりにも冷たすぎやしないか。愛する弟を襲った悲劇を受け止められないだけか、いや、もしくは少年の事件のことを考える事から逃げているんだろうか。あぁ、いや、もしくは彼女はTさん同様何かを知っていて、話せない事情を抱えているのかもしれない。
僕は、日付が変わる頃に財布も持たずに家を出た。Eさんから話を聞かなければこの記事は完成しない気がするからだ。諦めるわけには行かない。あきらめたら少年の死の真相に辿り着けない気がする。彼が死んだ状況を考えれば、Eさんが何か関係している可能性が高いと思う。そのことに気がついているのはおそらく僕だけだ。なぜって?それは少年が僕にだけ教えてくれたとびきりの秘密に関係している。少年の、姉に対する強烈な劣情。少年ゆえの真っ直ぐさと、血縁という歪さの中で揺れ動いていた彼の魂が、僕に真実を伝えてくれと訴えてくるんだ。
訴えてくるんだ。強烈に。毎晩、夢の中で、何度も。
Eさんに会って話を聞かなければ。Eさんからみた少年の生き様をしっかりと記録するところからこの記事は始めなければならないんだから。
七
嫌われ者にも居場所は必要だ。それが喧騒から離れた落ち着ける場所であればなお良い。分厚い雲に月が隠れた丑三つ時、静かな時間を過ごすなら町中よりももっと静かで落ち着ける場所がいい。深く息を吸い込んで吐き出すと、肺がきれいな空気で満たされる。頭がスッとクリアになって、ここ最近溜まっていた嫌な気分が少し落ち着いた。山の中の静かな場所に建てられた廃墟、ここが俺たちのお気に入りだ。クソガキのことなんて1ミリも理解したいと思わないが、あいつがこの場所を好んでいた趣味の良さだけは認めてもいい。月明かりが差し込む廃墟の中で雨水がキラキラと輝いている。若い苔と朽ちかけた草花が折り重なる所を足の裏でゆっくりと踏みしめると、足の裏に極上の絨毯のような柔らかい感触が伝わってくる。
こんなに美しい場所なのに。
クソガキが死んだ夜を覚えている。廃墟の裏で仲間と集まってだべっている時、不意に耳慣れない音が聞こえてきた。まさかこんな場所に人がいるとは思わず、初めは野生動物だと思った。たぬきか、蛇か。どんな動物が迷い込んだか見に行ってやろうなんて軽い気持ちで廃墟に足を踏み入れた。一歩踏みこんだ瞬間に、いやな予感となんとも言えない生臭い匂いが鼻を刺した。どんどん強くなる臭気に思わず吐きそうになったが、仲間が大きな声をあげたことでそんな気分も消し飛んだ。叫んだ仲間が一目散に逃げ出したのでそちらに目をやると、床の上にクソガキが倒れていた。折れた手足と見開かれた目、床に広がる赤い血がすでに死んでいることを物語っていた。声一つ上げずに死んでいたということは、即死だったのだろう。その姿を見た時、驚くと同時になんともいえない違和感を覚えた。遠くから見つめてもよくわからなかったので、少し近づいてみた。臭いがきつくなり、あいつの表情までよく見える距離まで来た時にその違和感の正体に気がついた。あいつの服装だ。あいつは服を着ていたけれど半分脱げていて、膝は反対側に折れ曲がり、手首は捻れて反り上がっていた。脱がされたのか、脱ごうとしていたのか。腕や足の折れ方が不自然だったので、何かに挟まって捻ったのだろうかと思った。目を凝らしてみると、頭が血液に塗れていたので頭も打っていたんだろう。
死因はおそらく階段を転げ落ちて後頭部をぶつけたこと。そこが一番血で汚れていたから、間違い無いと思う。あいつは階段の一番下の段に横たわっていた。ただ転げ落ちただけでは負わないであろう怪我や衣服の乱れは、一体どうして…ふと階段の上の方に視線を送ると、クソガキを突き落としたであろう犯人の影が映っていた。下を覗きこむようにして佇んでいる。いつの間にか月が顔を覗かせていたらしく、月明かりに照らされてはっきりとした影が階段の壁に投影されいた。こちらには気がついていないようだった。気がつかれても別に構わないと思っていたし、なんだったら共犯者にして欲しいくらいだったが、奴はクソガキにしか興味がないように微動だにしなかった。そっと近づこうとしたが犯人の足元にあるものに気がつき、邪魔するのも申し訳ないので、そっとその場を離れて仲間に解散を告げた。
その晩、寝る前にクソガキの姉のことを考えた。本当に優しくて、だれからも愛された人だった。あの地域で育った奴は皆、彼女の世話になったし彼女が好きだった。雨の日も雪の日も、朝早くてもどんな時でも彼女より小さい子には挨拶をしてくれた。柔らかい声で優しく声をかけて、誰よりもにこやかに接してくれた。はしゃぎすぎて怪我をした子がいれば手当てをしてくれたし、お腹を空かせた子がいればこっそりとじぶんのおやつを持ってきて分けてくれた。学校帰りに公園で遊ぶ俺たちを見つけてはニコニコと遊びに混ざってくれて、日が暮れたら俺たち全員が家に帰るまで見届けてくれた。
彼女はクソガキの死をどう受け止めるんだろうか。悲しんでしまうだろうか。あいつが姉に対してどんな弟だったかよく知らないけれど、あまり悲しまないで欲しいし、あいつが死んですっきりとしたこの気持ちに共感してくれたらいいと思った。
その後、少年の葬式の時にはすべてが解決していて、処理は済んでいたはずだ。
姉が家に戻ってからしばらくして、仲間の一人が道端で偶然出会って挨拶をしたらしい。彼女は覚えてくれていたと嬉しそうに話していた。仲間が声をかけると、初めは訝しげだった彼女の張り詰めた表情がふっと柔らぎ、昔と変わらない可愛らしい笑顔をむけて、自分たちに会いたい、昔のように遊びたいといってくれたと。それを聞いて嬉しくなった。さすがに子供のように遊ぶのはいまさら恥ずかしいが、彼女の話を聞いたり同じ時間を過ごせるのであればぜひそうしたい。仲間もそう思ったようで、ぜひと伝えようとしたが、彼女の笑顔の下に浮かぶ青黒いクマや艶のなくなった髪の毛が目に入ってしまい返事ができなかったそうだ。痛々しくて声にならなかったと。
あぁ、本当にあのクソガキのせいで、彼女が苦しい思いをするなんてやはり許せない。死体を見つけた時、砂でもひっかけてやればよかった。
廃墟というのは考えを巡らせるには適しているが、過去を振り返るには向いていないようだ。廃墟の外に目を向けた。遠くに見える街の明かりと仄かな月明かりが木の隙間から見え隠れしている。静か過ぎるほど音のない空間で、砂時計のようにいやな記憶が降り積もる感覚に嫌気がさした。くだらないことを考えよう。三丁目のラーメン屋が営業停止になったとか、隣の市の小学校にクルマが突っ込んで大変なことになったとかそんなことを思い出してここでの記憶をかき消そう。くだらなくてどうでもいいことで上書きしてやろうとしたが、脳の片隅にはずっとクソガキの死に顔と優しくて可哀想な姉のことが離れなかった。
もう諦めた、俺の負けだ。今日は何か美味いものを腹一杯食って気絶するように寝る。そうしよう。寝る前に軽い運動をしてもいい。
俺は出口に向かった。出口は建物の裏手側の大きな窓で、そこへの一番の近道は非常階段を降りていくことだ。クソガキが死んでた場所を通らなければならないが、仕方がない。考えないようにして階段を降りていると、非常口付近で人影を見つけた。その小さなシルエットはすぐにどこかへ行ってしまったが、鼻の奥につんとくる臭いと、床に捨てられたスプレー缶で何が起きたか察しがついた。
ま、俺には関係ない。関係ないから何も見ていないし、あいつが誰かも知らない。書いてあることもよくわからないし、それが意味することなんて俺には関係ない。ふふ、と笑みが溢れる。俺は何事もなかったように廃墟をあとにした。
八
9時半に目が覚めた。二度寝しようか迷ったがどうにも目がさえてしまって眠れないのでシャワーを浴びてから米を炊いた。土鍋で炊くのは母から教わった方法だ。うちには炊飯器がないから、米を炊くときはまとめて炊いてから冷凍するようにしている。冷凍ご飯のストックはまだ残っているのだが、今日は早く起きすぎてしまったので炊きたてを食べることにした。髪の毛を乾かして、洗濯機を回してから軽く掃除をする。左手で掃除機を持ってソファの下、ダイニングテーブルの下、カウンター回り、それからトイレと洗面所を一通り掃除した。二階に上がる階段はシートモップで一段ずつ丁寧に拭き上げる。2階についたので引き返し、朝食作りに取り掛かった。
僕は何事も丁寧にするのが好きだ。毎日自炊しているので台所の掃除はコンロまでしっかりしているし、包丁はこまめに研ぐようにしている。家の中も掃除が行き届いているほうだ。洋服には洗濯シワが一つもないし家の周りの掃き掃除も完璧だ。
それなのに、取材となると粗が目立つ。昨日痛めた右手がズキズキと傷んだ。寝る前に飲んだ痛み止めが切れたんだ。
土鍋を火にかけて、お湯を沸かして顆粒の出汁と醤油、味醂を入れて弱火で温めながら冷凍していた屑野菜を入れた。ゆっくりと加熱しながら昨日のことを思いかえす。だが、いくら思考を巡らせても「なぜ」という疑問以外に思いつかなかった。なぜ真実を明らかにしようとしないのか、少年の無念を昇華してあげたいとは思わないのだろうか。彼のために全ての真実を白日の元にするべきだ。Eさんもきっと、僕の話を聞いて冷静になれば「正義」に気がついて口を開くはずなのに、僕の思いはなぜかいつまでたっても彼女に届きそうにない。
こんなのは間違っている。
僕が正しい。僕は正しい。僕こそが正しいんだ。
僕は朝食を食べ終わると、少しだけ動画を編集してから家をでた。
目的地はもちろん、彼の家だ。家の前にはOさんの車が停まっていた。家から十五メートルほど離れたところで車を見つけた僕は、私道を抜けて裏手側にまわることにした。張り出した樹木が肌にこすれていたかったけれど、そんなことを気にしてはいけない。J君の為、正義をなすために動かなければならないんだから。
家の勝手口のあたりは雑草が生い茂り、さらに犬小屋の残骸のようなものが邪魔をしてなかなか進めなかったが、なんとか音を立てずにたどり着くことができた。家人にはバレていないだろうと確信できるまで身を小さくして待ち、恐る恐る手を伸ばした。体を思い切りのばせば勝手ぐちのドアノブに触れられそうなところまで来たが、ちょうどその時に車のブレーキ音が聞こえた。それはのどかな田舎の朝にはふさわしくない、映画で流れる効果音のような派手な音だった。次に聞こえたのは、Oさんの怒鳴り声だ。なんて言っているのかはよくわからなかったが、何か怒っているのは伝わる。
「畜生どもが、轢き殺してやる!」
と聞こえたので、動物でも飛び出したんだろう。
その大声で僕の体は震え初めてしまった。ドキドキと鼓動が大きくなり、汗が吹き出してくる。僕は大太鼓のように鳴る心臓を服の上から押さえつけながら、思い切って腕を伸ばした。ドアに触れたところで勝手口の前に血だらけの何かが置かれていることに気がついた。小さな動物の死体だろうか。それに気を取られていると次の瞬間、小窓に人影が揺れた。その影に驚き、一瞬体が固まって動けなくなってしまったが、すぐに気を取り戻して走り出した。ガサガサと大きな音を立てて雑草をかき分け、私道を走り抜け一目散に駆け抜けた。痛いほど高鳴る心臓と、酸素を求めて必死に膨らむ肺が胸を突き破ってきそうだ。すれ違った町民に変な顔をされた気がするけれど、構っていられない。僕は昨夜、あの家に忍び込もうとして断念した。その理由は、彼らが朝から出かけるという話をしているのを聞いたからだ。真夜中に到着した時に、玄関前に人影が見えた。真っ暗な玄関先でMさんが電話をしており、朝から三人で親戚宅に行くことになったというような話をしていたのだ。それを聞いて不在の時を狙おうと一度家に引き返したのだった。もちろん記録には残さず、家族の協力のもと知り得た情報として記事に書くつもりで。
なぜ、彼らは出かけていなかったんだろう。僕を騙すために一芝居打ったんだろうか。いや、昨夜は僕が到着するより前からMさんは外にいて、電話で何かを話し込んでいたからそのはずはない。僕が忍び込もうと思い立ったのは昨夜の事件の後だし、そもそも僕を騙す必要もない。警察から帰ったことすら知らされていないだろう。
それならば、なぜ彼らは家にいたんだ。
僕は家まで走った。今までの人生で、こんなに全力で走ったことはないというほど走ったから、全身がギシギシと痛くて苦しくて辛い。悔しくて苦しくて、クソを喰らわされた気分だ。玄関先で倒れ込んで休みながら、頭の中でEさんを殴った。あのやつれた顔を、艶のなくなった髪を、痩せ細った体を怒りのままに拳で殴りつけた。泣きながら許しを乞う姿を思い描けるようになるまで存分に楽しんでから、僕はようやく起き上がった。彼に教わった方法だ。どうしても辛くて苦しい時は、頭の中で対象を殴りつければいいと。実際に手を出したら犯罪になるから、頭の中だけでやるんだと。天使のような顔で僕にだけ教えてくれた特別な解決法。彼の言葉はいつだって僕を救ってくれる。
僕は体を起こして、タブレットを手に取った。メールを確認した後で、今まで書いた記事を読み返し、動画を見てみた。昨日ドアを無理やり閉じているEさんの鬼のような形相はバッチリとカメラに収められているし、その後警察に事情を説明しているところも完璧だ。映像に使える素材は増えたが、まだまだ取材そのものが足りていない。今日の潜入で決定的な証拠が掴めるはずだったのに。
はぁ、と思わず深い溜息がこぼれ出た。まだまだ道のりは遠そうだ。僕は事件のすぐ後に現場で撮った写真を開いて、生々しく残る彼の血液を拡大した。スワイプする指に血液が付いてしまうんじゃないかと思うほど鮮明に映し出された彼のシルエットは、赤とコンクリの色の境界が生と死を表しているようで胸が掻き乱される。
彼に会いたい。
誰もいない家の中で、気づけば僕は声を押し殺して泣いていた。
九
少年の四十九日の法要が終わった頃、Jくんの友人だという子供達から話を聞くことができた。J君と同じ野球チームに所属しているA、保育園、小学校と一緒に過ごしてきたというB、家が近所でよく遊んでいたというCの三人だ。きっかけは、J君が亡くなっていた廃墟で出会ったことだった。僕は三日に一度の頻度であの廃墟を訪れていたのだが、そこに現れたのが前述の三名で、はじめに出会ったのはC君だった。出会ったとはいえ初対面では逃げられてしまったのでまともに話を聞けたのはA君が初めてだった。
「あいつ、野球嫌いだったんです。誰もそんなこと信じないけど」
A君はJ君と二人でプライベートな話をする機会が多かったようだ。二人でランニングやキャッチボールに行き、大人には話せないことをよく話していたらしい。子供とは思えない程の体の大きさや、利発そうな話し方がどことなく似ている。
「あいつのお父さんの友だちに、何かと張り合っている人がいるらしいんです。収入とか大学とか。で、その人の息子が甲子園に行ったから自分も行かなきゃいけないんだって愚痴ってました。野球は好きだけど、甲子園に行きたいわけじゃないのにって。甲子園に行くなら行ける高校は限られるし、嫌だったみたいっすね。それから、大学は東京の国立大学に行って官僚にならなきゃいけないって。あいつ勉強苦手だったから、それが一番嫌だって」
A君の口から聞くJ君の悩みは、年相応の少年らしからぬ大人びたものに感じられた。が、想像に難くない。J君が言いそうなことだ。
「あいつ、お姉さんがいたでしょう。お姉さんは勉強も習い事も父親に強制されなかったのに、なんで自分ばっかり父親に強制されなきゃいけないんだって怒ってました。中学もお姉さんは自分で選んだ学校に行けているのに、自分は受験することが決まってて嫌なんだって。俺たちと同じ地元の公立に行きたいのに、親どころか親戚まで公立に進学するのを反対していて絶対に無理なんだ、引っ越しもしたくないとか色々言ってましたよ。まぁそれでも、父親はよく応援とか送り迎えに来てたから、仲良くしていたのかもしれないですけど」
実のところ、彼は家族が嫌いだった。それどころか同級生や教師までも嫌っていた。いや、嫌っていたというのは間違いだろうか、生前の言葉を借りると「馴染めない」が当てはまる。僕にも、彼の身の回りの人間がいかに自分と違う考え方をしているのかを話してくれた。友人が話題にする流行りのゲームや曲や踊り、母親や教師が勧めてくる古臭い価値観がたまらなく煩わしいと。狭い田舎町で煮凝りのような価値観につけ込まれた僕たちは、インターネットなんかでは広がらないリアルな価値観について話し合うことが多かった。
その時の彼はとても小学生とは思えないような大人びた顔で落ち着いた話し方をしていた。僕は妹と同年代のはずの彼から、子供とは思えない落ち着きと諦めを感じる瞬間が好きだった。
だけど心の中ではわかっていた。親をはじめとした周囲の大人に大人であることを求められたせいでそうなってしまったんだと。
「そういう時は、姉を殴るんだ」
彼がこっそりと教えてくれた。もちろん頭の中で殴るという意味だが、自由に生きながら聖人のように扱われるEさんが無惨に殴られているところを想像すると、胸がスッとするそうだ。彼にとってEさんは目の上のたんこぶだったんだろう。どれだけ努力しても周囲の人間から愛されているという一点において彼は姉に遠く及ばない。女だとか、周囲の子供よりも少し年上だとかそんなくだらない理由で勝っているに過ぎない姉を疎ましく思っていた。
A君から聞いた話は、そんなJ君の一面を感じられるエピソードだった。
「君たちの間で、死ね、とか殺してやるというような言葉を使うことはある?」
僕の質問に対してA君は当たり前のような顔で頷いた。
「俺もいうし、あいつも言ってました。友達同士の冗談みたいなもんですよ」
ヒステリックに騒いでいたOさんには申し訳ないが、これこそが少年たちのありのままの姿なんだろう。J君だけではなく、この年頃の男の子であれば日常的に口にするんだろうと想像に難くない。A君からはたくさんの情報が手に入り、映像としても満足のいくものが得られた。僕は感謝を告げ、また取材をさせてもらう約束を交わした。
B君とC君は二人同時に取材に応じてもらうことができた。彼らはとても怯えて、お互いに言葉を探り合いながら話しているように見えた。なぜ廃墟に来たのか、という問いに対しては
「き、肝試し、みたいな」
と言う歯切れの悪い返答しか帰って来ず、
「仲が良かったのなら、彼が亡くなる前に何か聞いていなかったか」
という質問には気まずそうに首を横に振るだけだった。僕はそれでも彼の死の真相が知りたかったので、可能な限り少年に関わる質問を繰り返し投げかけたが、「うん」「いいえ」などの短い返事ばかりが帰ってきた。ただ、最後に尋ねた
「J君との一番の思い出は?」
という質問に対しては二人とも、
「あいつの家で、お姉さんと遊んだこと」
とはっきりと返答した。
僕はこの答えに納得できなかったが、彼らはそれ以上を答えようとしなかったのでそれ以上追求することができなかった。記事に載せるためのメモには「彼の家で遊んだこと」とだけ記すことにした。
涙を流している子は一人もいなかった。
それから何度かEさんと接触する機会が訪れたが、こちらがどんなに低姿勢で懇願しても無碍にされ、情熱を伝えても冷たくあしらわれた。いよいよあの家の周辺で警察が見回りをしている様子が頻繁に見受けられるようになったので、しばらく近づくことすら難しくなってしまった。動画も似たようなものばかりが集積されている。もうそろそろEさんの画は十分だ。
僕は取材を初めてたった数ヶ月で行き詰まってしまった。想像していたよりも人の口は硬いようで、町中の人が僕を避けているのではないかと思うほど孤立していってしまった。
十
仕方がないので、いつもどおりに廃墟に向かった。困ったり、行き詰まったりすると廃墟に行く。これは子供の頃からの習慣だ。一人で泣きたい時や考え事に耽りたいときには必ず廃墟で過ごしてきた。口うるさい母親や、妙に正義感の強い父親、大人しいだけでバカな妹。家族から逃げたい時には必ずここにきた。
小川にそって歩き裏山に入って三〇分。真っ暗な山の中、月明かりをわざと避けるような場所に建てられた鉄筋コンクリート造りの建物。もとは治験を行うための施設だったときいたことがある。木々の影に入ったコンクリートの建物は黒く大きな化け物みたいだ。細く続くぬかるんだ道を通って、草木で道が見えなくなり進むのを諦めたくなるころにアスファルトの縁石が現れる。それに沿って進んでいくといつの間にか崩れかけた入り口を通って建物の中に入っている。苔だらけのエントランスを抜けると、静かで冷たいリノリウムの廊下が現れる。獣の腐ったような匂いと、わずかに香る消毒薬のような匂い。落ち葉と土とゴミが散乱している中を進み、アスファルトが剥き出しになった階段を登って、目の前の錆びついた扉を開けるとそれまでの荒れ放題の室内とはうってかわって非常に整然とした部屋が現れる。分厚い窓がしっかりと閉じられているからか土や葉、ゴミが落ちていない。その代わりに大きなタモ材の机と革張りの椅子が放置されている。
彼が死ぬ前に見た光景は、いったい何だったんだろう。彼はどうしてこの廃墟で死ぬことになってしまったんだろう。
この部屋を彼に紹介した日から、僕らの溜まり場はここになった。元々は院長室だったのだろう、大きな革製の椅子はカビに覆われていて穴だらけだが、高級品だった頃の面影が感じられて僕らのお気に入りだった。初めて彼を連れてきたときに、はしゃぎながらタイヤをコロコロと転がして遊んでいたことを覚えている。クッションの中から虫がとび出てきて叫んだこと、とれかけていたネジを締め直して修理ごっこをしたこと、そんなことがつい昨日のことのように思い出せた。僕と彼はその瞬間から親友になった。たくさんいる友人たちの中の一人だったとしても、僕にとってはここでの思い出が今もなお一番輝いている。
お気に入りの部屋を出て入り口とは反対側の方へ向かった。長い廊下には落ち葉と土が積もっていてとても歩きづらい。滑りそうになりながら慎重に歩いていくと、裏口につながる非常階段が現れた。ここだ。ここで彼は足を滑らせて下まで落ちていった。今は何もない階下をみていると、僕まで落ちてしまいそうになる。あそこで、彼は死んでいた。ゆっくりと首を回らせてすぐ隣のトイレを覗いた。無機質な洗面台と個室のドアが並んでいる。照明が消えたトイレは酷く暗く、わずかに月明かりが差し込んでいるだけだが、そこにある違和感に僕はすぐに気がついた。通い慣れた僕でなければ気がつかなかっただろう。それくらい静かで、暗く、不気味な雰囲気のなか、そいつはそこにいた。
彼を殺した犯人がこちらを見て立っていた。まさかこんなところで出会うなんて思っていなかった。あの日以降姿を見ることがなかったから、死んだか警察に連れて行かれたんだと思っていた。心臓が跳ね上がり、身体中に緊張が走った。
僕は犯人と対峙した。黒い毛並みが陽の光を受けて汚い灰色に光っている。僕のことなど怖くないのだろう、ただ睨みつけるだけで微動だにしない。
太々しい野良犬だ。
こみ上げる怒りと恨みを視線に乗せて精一杯睨みを聞かせてみたけれど、全く届いていないのか犬はただ置き物のようにその場にいるだけだ。
少年のことを殺したこの犬を殺処分するべきだ。あの事件以降、何度も警察に訴えたけれど、誰も耳を貸してはくれなかった。殺されるべきは、彼ではなくこの小汚い犬であるべきだ。命の重さは対等ではない。少年の命がこんな小汚い野良犬のせいで失われてしまうなんて不条理じゃないか。
僕はポケットの中のマイナスドライバーを握りしめた。あの犬くらいの大きさならこの道具で脳天を貫けるだろうか。いざという時のために持ち歩いていてよかった。握りしめる手には汗が滲んで、膝はガクガクと震え始めていた。何度も頭の中でこの犬を殺してきたじゃないか。頭の中で、彼が姉を殴りつけていたように、僕もこの犬を何度も突き刺してきた。だから負けるわけにはいかない、仇を取らなきゃいけない。砥石で磨いたこのマイナスドライバーで何度も食用の肉を切り裂き、骨を砕いてきた。頭の中で何度も頭蓋骨を打ち砕くシーンを思い描きながら、肉に刃を突き立ててきた。
この犬一匹の命で何が報われるというわけではないが、彼への弔いはこの犬の死と僕の公開する記事で達成される。そう信じている。
ポケットから手を取り出して、マイナスドライバーを掲げた。あいつに見せつけるように、怖がらせてやろうと切先をあいつに向けながら。が、手が震えてしまって格好がつかない。研ぎあげたドライバーがふるふると震えている。これではあいつに喉元を噛み切られてしまう。
足を踏み出して、さらに大きく振りかぶった。一気に踏み込んで突き刺してやろうと思ったけれど手足の動きがぎこちなかったせいなのか、体がこわばってしまったせいなのか、壊れたラジコンのようにバタバタとみっともなく一歩を踏み出した。
みっともなくても、一歩は一歩だ。
カビと苔に覆われたトイレのタイルに足を踏み込んで大きく息を吸い込んだ。臭くて湿った空気が体に染み渡る。臭くて気持ち悪いがおかげで少し冷静になれたので、改めて心を決めた。ここからはシュミレーション通りに動くだけだ。短く息を吐いてさらに一歩を踏み出した。
次の瞬間、世界が回って後頭部に強い衝撃を受けた。目の前で一瞬花火が散ったような閃光を感じ、それから激しい痛みに襲われた。何が起こったのかわからなかったが、眼前に迫る醜い犬の顔を見て一瞬で恐怖が押し寄せた。僕は押し倒されていた。犬に襲いかかったはずなのに、瞬く間に上にのし書かられて倒されてしまった。手元には苔と落ち葉の気持ち悪い感触しか感じられない。マイナスドライバーはどこかへ行ってしまったようだ。手のひらには苔とタイルの冷たい感触しか感じられなかった。
野良犬は生臭い息を吹きかけながら歯を剥き出しにして唸っている。グルグルという低い唸り声と共に唾液が降りかかる。臭い、臭くて気持ち悪くて、怖い。この唾液に飲み込まれて死ぬんだろうか。目の前の鋭利な牙に噛みつかれて死ぬのか。それとも彼のように追いかけ回されて階段から落とされるのか。
野良犬が吠えた。頭蓋骨を揺さぶられたような衝撃の後、キーンと耳鳴りがする。断続的に大きく吠える野良犬を前に、僕は泣きながら泡をふき、両腕で顔を守ろうと覆っていた。骨を震わせるような振動を感じながら、それでも噛まれるのは嫌だと必死で腕に力を込めた。どんなに身を捩ってもやめてと叫んでも犬は吠えるのをやめない。彼も死ぬ時はこんな恐怖を感じたんだろうか。人としての尊厳もなく、ただ怯えて助けを乞うてなす術もなく目の前の獣に屠られてしまったのか。悔しい、悲しい、怖い、怖い怖い。震える前歯の隙間から、犬の唾液と僕の涙と口端で泡だった涎が喉の奥に流れ込んできた。喉に感じるぬるりとした感覚と匂いで吐き気がこみ上げた。でも吐けない。目の前にいる獣の顔から逃げたくて助かりたくて僕は吐く余裕すら無くなっていた。
必死にもがく僕に向かってさらに大きく犬が吠えた。込み上げた吐き気が喉の奥で詰まって痛い。息を吸い込もうとした瞬間に肺がそれを拒み、次々と流れ込んでくる臭い液体に吐き気が込み上げる。酸素が欲しいのに咳と吐き気で何もできない。呼吸ができないパニックのあまり、もう死ぬんだと身を縮ませた瞬間、遠くの方で人間の怒鳴り声がきこえた。大人の男の声だ。犬の唸り声と男の怒鳴り声で僕の頭はもう何が何だかわからなくなってしまった。
腕の隙間から見えていた犬の牙が消え、体が軽くなった。身を捩って背を丸めその場から離れるためにもがいたけれど、内臓がひっくり返るんじゃないかというほど激しい咳と吐き気に襲われた。ゲホ、ゴホと激しく咳き込みながら床を転がり、直前まで目前に迫っていた死の恐怖から逃れるために犬から離れようと必死でもがいた。あまりにも暴れたので、土や苔が口に入ってきてしまって不快感が加速する。頭の中が真っ白になり、呼吸が止まるのを感じた。
次に目を覚ました時、一番最初に思ったのは「生きている」ということだった。僕は死ななかった。しかし、肌が引っ掻かれているようなかゆみが押し寄せてきてたまらない気分だった。僕の体は乾き切っていた。病室にいるのだろうということはわかったが、頭がぼーっとしているのにしっかりと感じる肌の不快感に徐々に意識が覚醒していった。皮膚がピリピリと痒いような暑いような、経験したことのない不快感だ。目を開ける前に肌に触れようと手を動かしたが、肘を曲げた瞬間にちくりとした痛みが肩まで走って飛び起きてしまった。腕に繋がれた点滴のチューブが見えて、咄嗟に引き抜こうとしたが皮膚をつき破った針先が見えたところで怖くなった。
「目が覚めましたか」
女性の声が聞こえてくる。僕からみて右側のカーテンが引き開けられて、白衣の女性が入ってきた。僕の左腕を見て慌てたように駆け寄ってきて慎重に処置をしてくれた。溢れ出た血をガーゼで抑えながらテキパキと針を捨てたり点滴を処理している様子を見ながら状況を整理しようと辺りを見回してみた。
狭い部屋には制服を着た警官が一人立っていた。狭いが個室のようだ。体の痒みが気になって集中できなかったが、普通の病院とは違う気がして怖くなってしまった。声を出そうと口を開いたが、喉が焼けるように痛くてとてもじゃないが声なんて出せなかった。
「動かないでください」
強い口調で言われた気がして思わず体が固まる。看護師にしては優しくない態度が不愉快だ。さらにもう一人の女性が入ってきて作業を手伝い始めた。体が渇いてかゆいことを伝えたかったが喉が焼けるように痛くて、ヒューヒューという音しかしない。処置されているので左腕を動かすことができない。仕方なく右手で首元をかいた。痛痒いような、くすぐったいような妙な感覚だ。
どうやら死んではいないらしい。痛覚はしっかりしているし、目も見えていて耳も聞こえている、犬に噛み殺される危機を乗り越えたにしては上出来だ。
処置が終わって女性たちが出ていった後、警察官と二人きりになった。仏頂面の警察官に声が出ないことを必死で伝えようとしたが僕など見えていないように空を睨みつけていた。
一一
自宅に到着した瞬間、まず最初にそれが目に止まった。玄関まえの門扉に手をかけて軽く押しながら一歩踏み出した僕の足元、狭い玄関前のコンクリに赤黒いシミが広がり、その上に灰色の毛玉が置かれていた。あと2歩も進めば踏みつぶしてしまいそうな距離だ。灰色の毛玉にはハエがたかっていて、どう見ても生きているようには見えない。
「なんだよこれ」
思わず口からこぼれた文句は、タクシーのエンジン音に搔き消された。玄関前に置かれたそれを避けることもせず、かといって拾い上げることもできず、その場に立ち尽くすことしかできない。どうしたらいいんだろう、触りたくないしこのまま置いておくのも嫌だ。誰か片付けてくれないだろうか。母さんがいれば母さんがやってくれるのに。
気が付くと僕は道路と門扉の間に座り込んでいた。制服を着た警察官に声をかけられて初めて日が暮れていることに気が付き、あわてて立ち上がったがふと玄関前に目を向けて再度座り込んでしまった。警察官は玄関前の塊を見つけると素早い動きで近づいていき、何やら確認した後にパトカーに戻っていった。僕はただボーっと見つめていた。自分がいる世界の時間と、外の世界の進むスピードがずれているような、早回しの映像を見ているような感覚。動いたら外の世界に巻き込まれて傷がつきそうで指一本動かすことができなかった。次に警察官が声をかけた来た時には玄関前はすでにきれいに掃除されていて、僕の家の前には数名の野次馬が集まっていた。近所の見知った連中だ。何かあるといつも集まってくる、あの時もそうだった。
「大丈夫ですか」
優しく、小さな子供をあやすような声。馬鹿にされている気がして少しむかついた。僕は声をかけてきた警察官を無視して立ち上がって家の中に入った。税金で食わせてもらってる身の上で、納税者を馬鹿にするなんて間違っている。
家の中は静かで空気が沈んでいた。数日だけ留守にしていただけなのに嗅ぎ慣れないにおいがする。ポストに詰まった郵便物を掻き出して握りしめたままリビングは向かった。ソファに倒れこんで息をつく。こんなだらしないことをすれば母さんがすぐにどなりつけてきたものだが、今はもうその心配はない。倒れたまま郵便物に目を通して、ダイレクトメールや納付書の文字を目で追いかけた。追いかけても追いかけても何も頭の中に入ってこないので、床に投げ捨てて目を閉じた。
目が覚めた時、部屋の中は真っ暗で異様な寒気を感じた。本能的に危機感を感じ、飛び起きたがすぐにひっくり返って倒れてしまった。頭が沸騰するように熱く、体が自分のものではないように重い。熱だ。高熱があるんだ。何とか起き上がり、這うように進みながら台所を目指した。冷蔵庫に炭酸水がのこっていたはずだ。震える手で冷蔵庫を開けてペットボトルを取り出したが、うまく力が入らなくて苦戦してしまった。もう死ぬのかもしれない。あの獣に襲われた時にも死ぬかもしれないと思ったが、また違った意味で死んでしまいそうだ。こんなに体調が悪いのに家には僕一人。誰も助けに来てはくれないんだから。
熱を測ると、37度5分と表示された。計り方がよくなかったのだろうか。40度は熱があるように感じるのに。スマホを取り出してアドレス帳を開きあ行をスクロールした。「おじさん」の登録名をタップして電話をかける。電話をかけるのなんて何年ぶりだろうか。そもそもここ一年ほどは誰からも連絡が来ないので、スマホをコミュニケーションツールとして使うことすら久しぶりな気がする。7回のコール音の後、
「もしもし」
と低い声が聞こえてきた。父方の叔父の声だ。
「あ、あもしもし。あの」
「なんだ」
威圧的で有無を言わせないこの叔父の口調がどうにも苦手だ。
「あの、実は母に連絡をとっていただきたくて」
しばらくの沈黙の後、小さなため息が聞こえてきた。
「どうした」
「え…っと、その、熱が出たから。体が熱くて痛くて。母に話したらこっち来てくれるかなって。連絡取れますよね」
「病院には?」
「い、行きました。というか、入院してたんです。その、あの、犬に襲われて」
「いぬ?」
「はい、犬に襲われて警察に保護されて、それで二日間」
「警察?」
叔父の声が低く大きくなった。まずい、怒っている。
「僕はおお襲われたんです。犬が急にきて、それでその、警察は保護してくれただけで」
「犬に何したんだ」
「いやいや、だから、違くて」
「お前、小学校の前で小さい子に声をかけたらしいな」
心臓がギュッと掴まれたように感じた。次の瞬間から震えるように鼓動を始め、全身に緊張が迸る。スマホを持つ手も震えていた。
「おい、どうなんだ」
「声をかけたのは」
ここから先の言葉が続かなかった。取材のため、少年のため、友達のため。そう言えたらよかったのだが、叔父の迫力に気押されて言葉を続けることができない。
「小学校から連絡が来たんだ。お前が児童に声をかけているからやめさせてくれとな。全く、何をやっているんだお前は。まさか、懲りずにまだ」
「何もしてない」
「信じると思うのかそんなこと」
唇が震えて声が出ない。かつて叔父からかけられたひどい言葉が蘇って、頭の中が真っ白になってしまう。
「おい、どうなんだ」
「あ、あの」
「なんだ。ん?何が目的で小学生に声をかけたんだ」
「違うんです、違くて」
「もういい。もういいから。お前ももう成人なんだから、熱ぐらい一人でなんとかしなさい。病院にもかかったんだろう、薬は手元にないのか」
「あ、あ」
「薬飲んで、明日まで寝ていろ。明日の仕事帰りにそっちによるから、それまでは水でも飲んでやり過ごしなさい」
次の瞬間、通話が切られていた。単調な電子音が脳みそを侵食する。リズムに合わせるように心臓が嫌な鼓動を刻み始め、徐々に落ち着きを取り戻していった。叔父は怖い。だから連絡係になっているんだ。僕のことを力でも言葉でも押さえつけることができるから。
一二
廃墟の取り壊しが決まった。五年ほど前からその噂はあったのだが、今回僕が襲われたことがきっかけになって、取り壊しが決まってしまったそうだ。僕の家の周りには定期的に制服を着た警官が見回りをするようになった。あの犬が鋭い嗅覚でこの家を突き止めるかもしれない。そうしたら今度今度こそ僕のの度を掻き切ってしまうかも知れない。その恐怖から逃れるため、巡査を見かけるたびに挨拶をして彼らがきちんと仕事をしているかどうかを確認した。僕の命を守ってくれる人なんだから当然だ。
あれ以来、母はおろか、叔父からも連絡はない。一度だけ玄関前まで来てくれたが、家に上がることもなく帰ってしまった。母に会いに行きたいと思わないわけではないが、僕が困った状況になったことは町中に知れ渡っているんだから、あちらから会いにくるべきだ。本来、僕の安全に責任があるのは母なんだから。あの犬に襲われたことも。熱が出たことも、警察に守らせていることも知っているはずだ。
もう一度小学校に行ってみようか。いや、今行くのは逆効果だろう。警察が僕を守っているということは、僕も見張られているということなんだから。また警察沙汰になるのはごめんだ。
そうだ、原点回帰しよう。僕の取材は彼の家から始まった。彼の家に行って、改めて話を聞かなければ。
数日ぶりに風呂に入り、土鍋で米を炊いた。冷蔵庫には何も入っていなかったのでインスタントの味噌汁と冷凍してあった明太子を解凍して食べることにした。三時間かかったが身支度が完了すると僕はカメラを胸元にセットして家を出た。久しぶりのカメラの感触に、少しだけ気分が高まる。犬に襲われた時、映像を撮っていればよかった。いや、あの廃墟は元来立ち入り禁止なのだからカメラで証拠を残すわけにはいかないのだが、それでも惜しいことをしたと少し後悔した。家を出た時点ですでに一三時をすぎていた。
彼の家は以前訪れた時よりも暗い雰囲気を纏っていた。庭木は生い茂り、壁や窓は薄汚れていてかつての美しい邸宅は見る影もなくなっていた。彼の生まれ過ごした家がこんなふうに廃れているのを見ると、心が痛む。まるで僕の家みたいだ。
インターホンを押すと、数秒してドタドタと足音が聞こえてきた。乱暴にドアが開くとOさんが顔を覗かせた。久しぶりに見るその顔は酷くやつれていた。
「なんだ、お前か」
ぶっきらぼうにその一言だけを残してドアを閉じた。呆然としている僕を残して足おとが遠ざかっていく。
え、それだけ?
あんなに協力的だったOさんが、この態度だ。一体何があったんだ。
呆然とする僕に、背後から声がかかった。
「すみません、ちょっとお話いいですか」
そこに立っていたのは制服を着た警官と、Eさんだった。
一三
弟が生まれた日のことを覚えている。あの子が初めて立った日のこと、一緒に手をつないで公園に行った日のこと、幼稚園のお遊戯の途中で私に笑顔を向けてくれたこと。全部全部昨日のことのように覚えている。忘れられない、とてもきれいな思い出たち。幼いころ、弟は私の人生の半分だった。かわいいかわいい、私の分身。お父さんに馬鹿にされても、親戚に責め立てられても、お母さんがため息しかつかない日でも弟はニコニコと私に笑顔を向けてくれた。ぷにぷにの頬と小さな歯が可愛くて、ギュッと抱きしめると嬉しそうに笑っていた。
私は生まれつき左耳が聞こえにくい。それがわかったのは四歳の時、幼稚園で受けた耳鼻科検診で指摘されたことが発覚のきっかけだったそうだ。左側にいられると会話にならないので、意識的に右耳を傾ける癖がついた。それが「男にこびているようだ」と親戚の顰蹙を買った。とくに叔母は私のこの癖が大嫌いで、会うたびに大げさにまねをされ、人前で馬鹿にされた。父は私が障碍者であることが受け入れられないようで、補聴器を許してくれなかった。学校では常に前の方の席に座ることで何とか生活することができたが、自宅ではよく父の話していることを聞き漏らしてしまい叱責された。勉強を頑張っても、意地悪な子に親切に接しても、人が嫌がることを率先して行っても、父の中での私の地位は最底辺のまま揺るがなかった。母はこっそり補聴器を買ってきてくれて、父がいないときにはつけることを許可してくれたが、学校でつけるとなくした時に父にばれて叱られるので学校にはもっていかないようにと言われていた。幸い友人に恵まれ、かなり手厚くサポートしてもらえたので学校生活で困ることはほとんどなかった。おかげで左耳がほとんど聞こえないことを知っている人はとても少なかったし、先生の中には知らない人もいたんじゃないだろうか。そのころの友人には本当に感謝している。私に思いやりと感謝と、安心を教えてくれた。
中学に進学すると、さらに生きやすくなった。勉強と部活を言い訳に親戚づきあいを断れるし、そのころにはお父さんが弟に夢中になっていったから。弟は八カ月で立った、十カ月で歩いていた。四歳で自転車に乗れるようになった、五歳でバットでボールを打つことができた。勉強はあまりできなかったけれど、持ち前の愛嬌と活発さでお父さんだけではなく親戚たちも弟に夢中になっていた。私とは正反対の弟。弟をほめるために私が引き合いに出されて何度もけなされた。この子は二歳になるまで外を歩かせることができなかった、とか、まだ自転車に乗れないとか。私は自転車を持っていないんだから乗れるわけないのに。けなされても馬鹿にされても、友人や部活、頑張れば成果が出る勉強がよりどころになってくれたので私の気持ちが揺らくことはなかった。どうでもいい。馬鹿にしたいならしていればいい。季節の行事の意味もしらないまましょっちゅう集まっては人の悪口に花を咲かせて、個人を供養する気もない墓参りの後には死者への恨み言と生きている弱者の悪口。政治家や芸能人、スポーツ選手を馬鹿にして、いかに自分たちがかわいそうで努力家で思いやりがあるかを語り続けるしょうもない親戚たち。毎回毎回、飽きもせず。反吐が出る。
弟がおかしいと最初に気が付いたのはおそらくは母だ。弟が小学校に通うようになったころ、母が陰鬱な顔をしながら「弟がおかしいかもしれない」とつぶやいているのを聞いてしまった。もしかしたら誰かに電話していたのかもしれないが、私のポンコツの耳では隣の部屋にいる母の言葉を聞き取ることができなかった。おかしい、ってどういうことだろう。あんなにかわいいのに。当時の私にはその程度の認識しかなかったが、その少し後には私もおかしいんじゃないかと感じ始めていた。
弟は、やっていいことと悪いことの判断がとても苦手だった。
やってはいけないことを指摘されると、どうして?なんで?と聞いてくるのだが、感情的なことが理由になると途端に理解が進まなくなるのだ。どろぼうしてはいけないよ、警察に捕まるからね。というのは理解できるが、どろぼうしたらお店の人が困ってしまうからね、というと理解ができない。法律で決まっているんだよというと理解できる。人をたたいたら痛いし悲しいからやめてね、というのは理解できないが、人をたたいたら暴行罪という罪になるつかまるよとか、たたいたらたたき返されても文句が言えないよ、というと理解ができる。他人の感情にどこまでも無関心で無理解だった。
また、そのせいなのか本人は良かれと思ってやったことが裏目に出てしまうことも多かった。友人の寛容さに救われたり、私や母に諭されることで弟はその過ちに気が付くことができたが、それでもいわゆる「やらかし」は多かったと思う。同級生が自由帳にこっそり書いていた漫画を全員に見せて回ったり、泣いている女の子に「泣いても意味がない、ちゃんと何が嫌なのか話すべきだ」としつこく問い詰めてよけいに泣かせたり、女の子達の交換日記を勝手に見て掲示板に張り出したり。マンガは面白かったからみんなにも見せたかった、交換日記に関してはひどい悪口が書かれていたから裁判しようと思った、と言っていた。とくに女に対する差別意識をお父さんから引き継いでしまったらしく、同級生の女子から顰蹙を買うことが多かったらしい。母が頭を下げに行った家も少なくなかったと思う。私はそのころに家を出てしまったのでよくわからないが、それでも地域のネットワークで弟の噂を耳にすることがあった。母にはとても辛い時期だったと思う。自分の子供だけではなく、友達や近所の子ども、さらには野生動物にまで優しくしてしまうようなお人好しで平和主義の母だ。私も幼い頃は母の真似をしていてよく近所の人に褒められたものだ。
弟に大人の友達ができたのは、半年ほど前のことだった。
母が祖母に相談しているのをこっそり聞いてしまった。弟の同級生の兄という男が家に頻繁に来るようになったそうだ。大人という表現をしたのは、彼が十代なのに学生ではないからだ。若くて幼く見える容姿をしているので弟と歩いていても兄弟に見えなくもないが、二人が連れ立って長時間留守にすることが増えたと心配していた。その男は気弱そうな顔をしているが、弟を見る目が尋常ではないと感じたそうだ。性的な行為や暴行を受けているような様子は見られないが、弟が認識できていないだけで何かしらの犯罪に巻き込まれているのかもしれない、様子を知りたくて男の生家を訪問したが追い返されてしまった、と涙ながらに語っていた。
弟の死後、スマホのメモ帳に男のことが記されていた。母親が見てしまう前に私宛に丸ごと転送してデータを完全に削除してしまったので、私以外の人間があのメモを目にすることは二度とないだろう。事故死だったから弟のスマホを勝手に触ったって警察にとがめられることもないし、母が見る内容ではないと思ったから。
案の定碌でもない内容だったが、それよりもずっと驚くべきことが書かれていた。男の正体だ。男のことを、私は知っていた。
まさか知っている人だとは思わず、とても動揺してしまった。が、直後に男のことを思い出し少し納得した。男は、私の親友の兄の同級生だった。小学校時代にとても仲良くしてくれた優しい友達、今でも大親友のその子の家に遊び行ったときに家にいたのがあの男だ。おやつを分けてくれたり、ローラースケートの練習に付き合ってくれた記憶がある。記憶の中の男はお兄さん、という印象だが、改めて思い返すととても幼い印象の男だ。確かに、小学生の弟と一緒にいても違和感がないくらい顔つきも体つきもどこか子供っぽい人だった。遊んだ時の楽しい記憶しかなかったので弟のメモに残っていた男の正体とはなかなか結びつかなかったが、じんわりと感じていた違和感や、不信感が思い出されて、ゆっくりと繋がった。
あの男は幼すぎたのだ。当時小学生だった私たちの同級生と言ってもおかしくないくらい発言や行動が幼かった。そして、時折見せる昆虫のような視線が怖かった。
男と弟は似たもの同士だったようだ。精神的には弟の方が上だったのかもしれないが、いかんせん弟は頭がよくないのでつり合いが取れていてほぼ対等だったのだろう。あんな事故で死んだ弟に執着するのも、互いに理解しあっていたという結びつきゆえなんだろうか。あいつは私が戻ってきてからしつこいくらいに話しかけてくるようになった。弟のことを聞きたいとか、話がしたいとか。とてもじゃないけれどあいつと話をしたいとは思えなかったので、私は無視を決め込んでいた。母はあの事故以来うつ状態になり家から出ることができなかったので、どのみちあいつに話しかけられることはなかったようだが、念のため男のことは話しておいた。
母の鬱の原因は、誹謗中傷だ。弟の死後に我が家は誹謗中傷にさらされるようになった。近所の人からは避けられ噂をされ、嫌がらせの手紙が投函され、この町から引っ越してほしいと言ってくる人が現れたのだ。仕方ないこととはいえ、私まで責められているようで居心地は悪かった。親戚に少し偉い人がいるので決定的な嫌がらせはされなかったけれど、それでも我が家は小さな田舎町の鼻つまみものになってしまったのだ。私は高校に通い始めたけれど、アルバイトと部活を詰め込んでなるべく家には帰らないようにしていた。家事は、もともと祖母と暮らしていた時から分担していたので得意だ。父が気が付かないところは雑にして、最低限生きていける程度行った。高校は志望校ではないところにしたけれど、結果的にはそれでよかったと思っている。今通っている高校には小学校時代の親友が通っていて、私の志望校には有名ないじめっ子が通うことになったからだ。あちらの高校に進んでいたら今頃針の筵だろう。勉強なんてどこに行ったってできるんだから、とりあえず大学受験までは穏やかに暮らせるところが一番だ。
男の付きまといが激しくなってきたころ、親友にそのことを相談した。男の正体について明かすつもりはなかったのだが、親友は男が弟と仲良くしていたことを知っていたようで、すぐに気が付いてくれた。
「あの人、やばいらしいよ」
親友が眉をひそめながらそういったのが印象的だった。弟のメモを見たからそれは知っていたが、近所の人に噂が広まるほどだったとは思わなかった。
いや、おかしくはないのかもしれない。小さな田舎町のことだ。ちょっとしたことでもすぐに噂が走る。
「あの人、今、家に一人暮らししているの。家族と妹さんが夜逃げ同然に出ていっちゃったんだって。何が原因なのかわからないんだけど」
「原因、わからないんだ」
私の返答はわざとらしかったかもしれない。なぜなら私はその原因に心当たりがあったからだ。弟のメモに書かれていた。
「怖いならうちに来なよ。うちのお母さんならきっと受け入れてくれるって」
親友は優しくそういってくれたが、私はその申し出を断った。彼女にまで被害が及ぶかもしれないと思うととても頼る気にはなれなかった。
あの男がしつこく家まで着いてきて警察が助けてくれた日から、我が家には警備がつくようになった。それ以前にも家の前に虫や小鳥、ネズミの死骸が置かれるイタズラをされたり、弟が死んでいた現場にスプレーで落書きされていたりとおかしなことは続いていたから、あの男が犯人なのではないかと警察が疑っていたらしい。男はその後廃墟で例の犬に襲われいるところを救助されたらしく、しばらく入院していたそうだ。あいつが退院したら何をするか、火を見るよりも明らかだ。執着の根源である弟の家、そして恨みの対象である私のところに来るだろう。
私の想像とは裏腹にしばらくはあいつは大人しくしていた。その間、母は徐々に回復し、少しの外出ならできるようになっていた。逆に父は周囲からの非難に耐えきれずどんどん荒れていった。弟の死を悲しんでいるように見えて、未来の甲子園球児がいなくなったこと、未来の官僚が、未来の成功者が、自分の一番の自慢の種がいなくなったことが悔しいだけにしか見えない。昔からこの人にとって私は厄介者で弟は自慢の息子だったのだから、私が生き残っていることにもイライラするようで、私の顔を見るたびに怒鳴りつけてきた。怒鳴られても怖くない。私がこの家にいるのは母親が心配だからで、父はどうでもよかったから。一方的に熱くなっている父には私の声は一切届かない。だから警察に直接頼るようにしていた。
そんな時に、またあいつが現れた。家の前でぼーっと突っ立っている姿を見た時は腹の底が冷えるような恐怖を感じた。が、すぐに握りしめていたスマホで短縮番号に電話をかけた。近くの交番から巡査が駆けつけてくれて、あいつを連れて行ってくれた。
これでしばらくは出て来られないだろう。あぁ気持ち悪かった。加虐思考の小児性愛者なんて一生出てこなければいい。
十四
僕は警察署に連れて行かれた。
なぜ僕が連れて行かれたのか、事情聴取を受けているのかわからなかったが、警察はわけ知り顔で色々なことを聞いてきた。僕が何をしていたのか、なぜ子供達に声をかけていたのか、どういう場所にいつ行ったのか。全てはタブレットに動画と文章で記録されていたので、タブレットを持ってきて説明したいと伝えたが、それは却下されてしまった。タブレットは証拠品として没収され、勝手に中を見られているらしい。僕はなぜこんなことになったのがわからずのかわからず警官相手に質問を繰り返したが、何一つ答えてはもらえなかった。
僕の家の前に置かれていた動物の死体の件、あれは僕がやったのかと何度も聞かれた。少年の家の前に置かれていた動物の死体も、僕の家に置かれたやつも知らないと何度も答えたけれど、その度に犬を殺そうとしていたことを指摘されて繰り返し同じ質問をされた。確かに僕は犬を殺そうとしたけれど、それはあいつがJ君を殺したからだ。だから他の動物なんて興味がない。そういうのはむしろ…
「きみ、あの廃墟で落書きをした?」
この質問にはまるで心当たりがなかった。あそこは僕と彼の神聖な領域で、落書きなんてするはずがない。自然に廃れ、時とともに朽ちているのがいいんだ。なのにスプレーで落書きするなんて侮辱しているとしか思えない。それについても何度も否定した。だが警察は信じていないようだった。
「あなたが書いたとしか思えない内容が書かれていたんだけどね。J君、ロキ、あとフェネック?だっけ。心当たりないの」
そう言って、何度も僕がやったのかを確認してきた。確かにその単語は僕の描いたドキュメンタリーの中に記されているが、落書きなんてしていない。それがなんなのか教えてくれないくせに、何度も何度も、何度も質問された。いい加減腹が立って声を荒げたけれど、あいつら表情ひとつ変えやしなかった。
「阿武さん、あなたね。子供達に声をかけたのも、小学校の周りをフラフラしていたのも、取材のためだとそう言い張るんだね」
だから何度もそう言っている。タブレットの中を見てくれと繰り返した。だが、全く聞いてくれないまま、留置場に送られることになった。なぜなのかわからないまま、一日中同じ質問を繰り返される。動物を殺したか、子供達になぜ声をかけたのか、廃墟に落書きをしたか。全てNO、否、違う、僕ではない。そう答えたのに、こいつらまで耳が聞こえていないように、繰り返し繰り返し同じ質問をした。
事情聴取に疲れ果てた頃、母が会いにきた。僕はてっきり迎えにきてくれたんだと思った。身柄を引き取りに来てくれた、助けに来てくれたと思った。だが、そうではなかった。「もう二度とわたしたちに関わらないで。妹は学校を転校させる。あの家も売却する。住むところは叔父さんが用意するから、しばらくはホテルにでも行きなさい」
それだけを伝えると席を立って背を向けた。
「待てよ!」
僕の怒鳴り声を聞いても、母はこちらを見なかった。
「なんでだよ!僕は何もしていないのになんで捕まっているんだ!あんた余計なこと言ったんじゃないのか」
母の肩が震えた。図星だろうか。
「お前が、お前が余計なこと言って僕をここに入れたのか!は、それでも母親かよ!僕が犬に襲われて怪我をしても、熱が出て動けなくても助けてくれなかったよな!このクソババァ、お前のせいだ!それでも親かよ」
ありったけの声で怒鳴りつけたが、相変わらずこちらを向かない。何も言わずに去ろうとする母にさらに怒鳴りつけてやった。
「乃亜子は何してる⁉︎え⁉︎あいつが彼の気持ちを受け入れなかったからあんなことになったんだろ!俺のせいじゃない!俺は悪くない!乃亜子連れてこいよ!」
母の足が止まった。そうだ、こいつの弱点はいつだって妹の乃亜子なんだ。
「クソ野郎」
それだけ言い残して母は去っていった。今まで聞いたことのない乾いた声だ。母親の優しい愛情がこもった湿度のある怒鳴り声は何度も聞いてきたが、この時ばかりは他人のようだった。
それ以来、本当に母との接点は無くなってしまった。叔父とも連絡がつかず、代理人だという弁護士が事務的な連絡だけをよこすようになった。
警察はすぐに僕を解放した。あたりまえだ。僕は何もしていないんだから。
そう、僕は何もしていない、警察に捕まるようなことは。乃亜子のことを気に入っていた彼に、乃亜子をプレゼントした時に少しやり過ぎてしまったけれど、それは親が揉み消したはずだ。だから警察に捕まるなんてあり得ないんだ。恥ずかしすぎて乃亜子が警察に話すはずがないし、傷だってとっくに癒えている。あいつの訴えがなければ僕は刑に問われない。母親が何を話したって、あいつが黙っていれば、立件されなければ僕は無実だ。
乃亜子、あのバカ女。彼が乃亜子を気に入っていたから、裸にして殴らせたら喜ぶと思ったんだけど、彼は嬉しそうに見ているだけで結局僕がやるハメになった。何回かやったけど、最初は我慢していたじゃないか。骨が折れたり内臓が傷つくようなことはしていない、せいぜい痣が残る程度だ。乃亜子は頭が悪くてぼーっとしているだけなのにチヤホヤされていて大嫌いだったから僕も悪ノリが過ぎてしまった。子供のイタズラの範囲だ。ちゃんと謝ったし。
なのに、いつまでもいつまでも恨みがましく文句を言われ、母親と父親から叱られ、本当に腹が立つ。妹なんて僕が生まれた後にできた付属品だろ。スペアで代替品で不要なら無くなっても問題ないはずなのに。
乃亜子が泣き始めた時の彼の笑顔が瞼に浮かぶ。彼と僕が本当の意味で理解しあえた瞬間だった。あの時の話をする時、誰かに聞かれてしまわないように僕らはあの廃墟に足を運んだ。
両親が妹を連れて家を出てから、僕はひとりぼっちだ。彼しか理解者がいなかった、そのたった一人の理解者が死んでしまった。あんな畜生に殺されてしまった。悔しい、かないし。僕は一人だ。家族も友人も家まで失ってしまった。僕は、一人ぼっちだ。
一五
クソガキが死んで季節が二回変わった頃、クソガキと仲良くしていた男が町から消えた。あいつも大嫌いだった。あの男、いつも気持ち悪い視線で子供達を見つめていて、あまつ後を追っかけまわすような男だった。クソガキと一緒に小さい子を脅かしたり、動物をいじめたりもしていた。当然、町中の人間が警戒していたし子供達の間では有名な不審者だった。そんななかで、突然あいつが消えたのはこの上ない朗報だった。あいつが消えた後の町にはどこかホッとした雰囲気が広がっていた。そこら中にいた警察官もいなくなって、少年の死以降張り詰めていた緊張が解けたようだ。
自分と仲間たちものんびり散歩できるようになった。あの日廃墟でみたスプレー缶の少女の姿を町中で見た時は少し驚いたが、警察に怒られたりはしていないのだろうか。クソガキによくいじめられていた子だ、あいつが死んだ場所を汚して溜飲を下げたんだろう。どこか安心したような様子で母親と町はずれを歩いていた。自分もあのクソガキの死体にしょんべんを引っ掛けてやりたいくらい憎んでいたから、彼女も落書きをしてすっきりしたのかもな。
あの廃墟は、たくさんの重機に取り囲まれて入れなくなってしまった。まぁ、仕方がない。他にも溜まり場になるような場所は何箇所か知っている、ラーメン屋も復活したらしいし、小学校の工事も終わったと報告を受けた。裏庭の茂みには確かまだ野いちごが植っていたはずだ。そういえば、あのクソガキを殺した犬、あいつが新らしく寝床にしている寺の軒下に挨拶に行ってみようか。あの事件の後は酷く傷ついた顔をしていたが、禿げた人間とその奥さんに兄弟子犬ともども保護され、今は幸せそうに暮らしているらしい。
しばらくは仲間と一緒にフラフラと居場所を探すのもいいだろう。あのクソどものかげを感じない居心地のいい場所を見つければいい。
いつもの公園に行くとクソガキの姉が友人とベンチに座って話をしていた。その友人は見覚えがあった。子供の頃に姉とよく遊んでいた優しくて少し怖がりな子だ。この子も大好きだ。彼女たちは菓子パンやジュースを持ってとても楽しそうに話をしたり笑ったりしている。久しぶりに見る彼女は随分と顔色が良くなっていて、体もふっくらしたようだ。肌寒い風が吹いていても彼女たちの笑い声は軽く弾んでいて、とても暖かい。
近づいて行って姿を見せると、笑顔を向けてくれた。昔と変わらない笑顔だ。みんなこの優しい笑顔が大好きだ。自分はベンチの上に飛び乗ると、彼女の膝に前足を乗せて頭を擦り付けた。彼女のあまく柔らかい匂いに包まれる。彼女は菓子パンをベンチに置くと、優しく自分の背中を撫でてくれた。その手に尻尾を絡ませてぐるぐると喉を鳴らすと彼女は両手でぎゅっと抱き寄せてから顎の下を撫でてくれた。こんなに優しい彼女が、クソガキの姉だなんていまだに信じられない。仲間たちが茂みの中から恨めしそうにこちらを見ているが、これはボスである自分の特権だ。まぁ、しばらく彼女に可愛がってもらった後ならあいつらに譲ってやらないこともないが。
「かわいいねぇ、君、まえにもあったことあるかなぁ。んー、ノドならして、気持ちいの?この前、うちの勝手口にプレゼントをくれたのは君かな?ふふ、ふわふわだねぇ、ありがとね。あのプレゼントね、助かったよ。あいつの家の前に持っていったら、警察が勘違いしてくれたの。ふふふ、おかげであいつはこの町からいなくなってくれたからね。もう安心だよ」
仲間が彼女の家に持って行ったお土産のネズミや虫は喜んでもらえたようだ。今度自分も何か特別なものを捕まえて持って行こう。喜んでもらえるような特別なプレゼントを。
一六
息子は私のことを嫌っていた。母と息子という関係からは通常想定されないくらい、恨んでいたと言ってもいいかもしれない。幼い頃は、といってもまだまだ十分幼かったが、小学校入学までは私にべったりだったのにいつの間にか夫に洗脳されたかのように私を嫌うようになっていた。あんなに慕っていた姉のこともバカにして、憎むような視線を向けるようになっていた。なぜそうなったのか、心当たりがないわけではない。腐っても母親だからあの子の日頃の態度からなんとなく察することぐらいはできる。あの子の特性を受け入れず、矯正しようとしたからだ。私と娘で息子の異常性をムリヤリ封じ込めて普通に生きる方法を教え込もうとした。娘は賢くて優しい子だったから、弟がおかしなことを言ったら根気強く諭して叱ってくれた。私もできる限りのことはしようとしたが、なかなかうまくいかなかった。家で二人きりの時にはきちんと話を聞いてくれていたのだけど、私以外の大人がいると途端に反抗的になった。それもこれも全て夫と親戚のせいだ。
あいつらは、私が子供のことを思って厳しいことを口にすれば、それを茶化して無碍にした。私が息子に対して叱った内容をあげ連ねては「こんなん言って、お母さんだって全然できていないじゃないの、この前の墓参りの時だってねぇ」と関係ない私の悪口を言い始める。その話はやめてくださいと何度言ったかわからない。あの人たちにとって私はエンタメの一つでしかないのだ。粗を探し、貶め、屈服させるおもちゃの一つ。息子は夫と親戚の言うことを間に受けてか、少しずつ私と娘の言うことを聞かなくなっていった。息子がやりたいようにやるのが正しくて、口うるさくいう私たちは間違っていると、そういうシナリオがあいつらのお気に入りだった。
あの子は素直すぎたのかもしれない。感情に疎いところがあったからなるべく理屈で教えようとしたが、あの子は自分に都合のいい理屈に流されていってしまった。耳障りのいい理屈や理由づけが心地よかったのだろう。私や娘が伝える言葉を、いつの日からかくだらない感情からくる妄言と決めつけて耳を貸さなくなってしまっていた。勉強が苦手だからと本を読むこともせず、テレビやスマホでよく討論番組を見ていた。次第に口調まで大人びてきて、私のことをバカで感情的な使用人くらいに思い始めていた。
息子の決定的な異常性に気がついたのは、犬の餌に毒を入れた時だ。その犬は町はずれの側溝で震えているとこを保護した子だった。事故にあったのか、怪我をしているところを私が保護して、動物病院で治療し完治を待ちながら飼っている時のことだった。
普段は私が面倒を見ていたのだが、突然「僕が餌をあげたい」と言い出した。情操教育にいいかと思いその日だけ餌やりを任せた。その判断が間違っていた。息子が餌を持って勝手口をでて少ししてから、キャインキャインと犬の悲鳴のような鳴き声が聞こえてきた。慌てて様子を見にいくと、犬が一口も食べようとしないと言いながら首根っこを掴んで無理やり口に突っ込もうとしていた。急いで息子を引き剥がし、犬を遠ざけた。息子は不服そうだったが、私はそんな息子に普段感じないほどの強い怒りを感じていた。が、深く息を吸って、落ち着いた声で「あんなことはやってはいけない、動物には優しくしないと信頼関係が築けないから」と言ったが、ふと手についた餌を見たときに違和感に気がついた。今覚えば匂いだったんだと思う。勝手口を振り返ると、倉庫にしまったはずの薬品の瓶が転がっていた。息子は餌に殺鼠剤を混ぜていた。
慌ててなぜそのようなことをしたのか問いただすと「汚いし。うちの食料を分ける価値がない」と淡々と言ってのけた。私が可愛がっていることも、あの犬に治療と愛情が必要だと言うことを教えていたはずなのに。息子は舌打ちをして、それから犬には一切興味を示さなくなっていた。私は、あまりの冷酷さに怒りをこえて絶望を感じていた。そして、息子の異常性をはっきりと認識することができた。
その後、犬は怪我が治ったのかいつの間にかいなくなってしまっていた。息子がなにかしたのかと心配していたが、あの子はなにも知らないの一点張りだったので真相は分からずじまいだった。今思えば、あの時もっと必死になって犬を探すべきだったんだ。名前もつけてあげず、中途半端に保護して危険に晒してしまった。挙句に消えたとて探そうともしなかった。私のこの中途半端で自分本位な対応が、事態を悪化させたと言っても過言ではないだろう。
しばらくすると、息子は阿武という男とよく一緒にいるようになった。クラスメイトの兄だというその男は、かなり年上だが妙にあどけないような弱そうな見た目をしていた。我が家にも何度か遊びにきたが、二人でこそこそと部屋に引きこもって何かをしていた。親としては、小学生が大人と遊ぶなんておかしいとしか思えない。息子は同級生とうまくやれているようでトラブルも多かった。だから年上の方が楽なのかもしれないとも思ったが、二人の異様な雰囲気が気になって仕方がなかった。私は阿武という男の家を訪れてなんとか男の正体を知ろうとしたが、いつ行っても「息子のことはよくわかりません」と大した話はしてもらえなかった。
そんなある日、阿武さんの奥さんが我が家に来た。確か夕飯の支度をしながら次の親戚の集まりでお願いする仕出し屋さんに電話をかけていたところだった。いつも通りの夕方だ。
阿武さんは非常に怒ったような、恨んでいるような形相で、有無を言わせぬ怒気をはらんだ話し方で詰め寄ってきた。
「あなたの息子、どうなっているんですか」そう言いながら目から涙を流していた。何が何だかわからなかったが、彼女の話は私にとって人生をひっくり返すような衝撃的なものだった。
「うちの娘の体に痣がたくさんあって、それで、何があったかを問いただしたら、あなたの息子とうちの息子にやられたと…あなたの息子が娘に告白したのに断ったから、その逆恨みでやられたと言っています。告白を断るなんて生意気だと言って殴らせたと言っていました。娘に好きと言うように強要して、殴らせたと。本人に問い詰めたら、そんなことしていないとは言っていますが、あの、にやけて人をバカにした顔…絶対にあんたの息子がやったに決まってるんです。だって、娘がそう言っているし、オタクの息子が遊びにきた時に限って怪我しているんですから!一体どうしてくれるんですか!どういう教育を行なっているんです!」
殴らせる、という言い方に引っかかったがとにかく同級生の女の子の体に痣が残るような意地悪をするなんて、とんでもないことだ。私は土下座をして謝り治療費を渡した。その日の夜、私は息子を問いただした。
「え、別に関係ないでしょ」
息子はそう言った。うっすらと口元に笑みを浮かべながら、バカにするように口調でそう言って笑ったのだ。この顔をあの奥さんにも見せたのかと思うと、カーッと頭に血が上った。その時、初めて私は息子に手を挙げた。頬を平手で叩いた。パチンと音がしただけで、息子は痛そうにはしていなかったけれど、次の瞬間椅子を振り上げて私に投げつけてきた。
「お前には関係ないだろ!ふざけんなよ!クソが!何するんだよ!」
そう怒鳴りながら何度も椅子で殴りつけてきた。その音で夫が駆けつけてきて、私のことを怒鳴って叱った。息子に手をあげるなんてトンでもないと。だから私は息子が同級生に何をしたのか、どうして叱らなければならないのかを伝えたが、
「大怪我をさせたとかレイプしたわけじゃないんだから。男の子ならこれくらいよくある話だ。その子が生意気な態度をとったんじゃないのか、お前みたいに」
そんなことを言っていた。いつも通り、私を悪者にして終わらせようとしていたが、その時ばかりは私も引くわけにいかなかった。何度も息子の異常性を訴えたが二人がかりで怒鳴られ、息子には殴られた。
私は家を出ることにした。身体中にできたケガを見て、あの夜の事を思い返すたびに決意は固くなっていった。息子を捨てて娘と母と生きていきたい。夫も親戚も、かつては天使のようだった息子ももういらない。家を出て安全な場所で愛する人たちと一緒にいようと決めた。
それから、ツテを頼って弁護士を探し離婚の準備を進めた。息子に関する家事は一切を放棄した。夫は怒鳴りつけ息子は私を殴ったがそれでも私はあいつらのためにする家事を放棄した。だって、私を妻や母親として扱わないんだから。私だってあいつらを夫と息子として扱わない、それでイーブンじゃないの。
計画としては、私が家を出たすぐ後に弁護士の先生から連絡を入れてもらい協議離婚、もしごねるようであれば調停で争えるように証拠を集めてあるので徹底的に戦う、というものだった。娘の高校受験が終わったら、すぐに実家に行き三人で生活を始めよう、娘の邪魔にならないタイミングで家を出よう、そう考え母にも協力を仰いでいた。
が、私が家を出るより前に、想定外なことが発生した。息子が死んでしまった。夫には内緒で最終的な整理しているときのことだった。
息子は町はずれの山中にある廃墟で死んでいた。なぜそんなところにいたのかはわからなかった。見つけたのは阿武の息子だ。阿武は息子と数時間連絡が取れないことでストレスを感じ、家の前や学校、公園を探した後に廃墟に向かい息子を発見したそうだ。死体の様子にパニックを起こして半狂乱で泣きながら交番に駆け込んだらしい。警察が確認した時にはすでに死後数時間経っており、その後の警察の調べで息子が夜中にこっそりと廃墟に入り込んで階段を滑り落ちて死亡したということがわかった。死因としては頭部挫傷だ。非常階段の中でもひときわ長い階段を勢いをつけて転がり落ちたそうだ。
問題は、阿武の息子が町中を泣き叫びながら走ったことで人が集まってしまい、駆けつけた複数人がその死体を見てしまったことだ。息子は、ズボンと肌着を膝まで下ろしていた。手にはティッシュが握られており、付着物がべっとりとついたままだった。要するにマスターベーションの直後を想起させる姿だった。知り合いから連絡をもらって、私も廃墟に駆けつけて遺体の身元確認をしたから確かだ。母親の私の目から見ても異様で無様だった。露わになった下腹部とその手に握られているものを見て、私の方が死にたいくらい恥ずかしかった。
駆けつけた街の人もなんと声をかけていいのか悩んでいるような様子で、とても子供の死体を発見した現場とは思えないような異様な空気が漂っていた。大人たちは皆気がついていた。息子がここで何をしていたのか。この廃墟は街の心霊スポットであると同時に、カップルのデートスポットにもなっていたのだから。思春期に片足を突っ込んだ子供が隠れて自身を慰める行為に使っていたとしてもおかしくはないのだ。
しかし、事態は急転する。誰かが「あっ」と声をあげたのが発端だった。その声に釣られるように、その場にいた全員が顔を見上げた。
階段の途中には息子が野球で使っていたバットと子犬の死体が横たわっており、周囲にティッシュが散らばっていた。
一瞬にして、私は息子の異常性を思い出していた。あの子は動物を痛めつけることになんの躊躇もためらいもなかった。まさか、そんな。信じたくはなかったけれど、息子が自慰行為にこの場所選んだ理由は、本当に見られたくなかったのは、あれなのではないだろうかと。
目撃者もそのことに気がつき、息子が加虐に性的な興奮を覚える異常者ということが知れ渡ってしまった。
私は息子の死よりも子犬の死に衝撃を受けた。小さな体が潰れて血が溢れていた。そのショッキングな姿に胸が潰れてしまいそうだった。息子の異常性は気がついていた、なのに何もしなかったからそのせいで子犬が殺されてしまった。そう思って胸が痛んだ。
しかし、それよりももっとショックだったのは、階段の上階から降りてくる母犬の姿を見た時だ。大きくて引き締まったからだと美しい黒い毛なみ。そこにいたのは以前に保護したあの犬だった。息子が殺そうとしたあの犬。私が助けきれなかったあの子が、殺された子犬の母だった。母犬は、私たちに警戒心を解いたように穏やかな様子で降りてくると子犬の体を舐め始めた。そして包み込むようにして座り込むと、悲しげな声で鳴き始めた。
その姿を見た瞬間、私は泣き叫んでしまった。後悔と、謝罪と、惜別の涙だ。ごめんなさいと何度も口にしていた。私のせいで子供を失ったあの犬に、どうやって償えばいいのかわからなかった。私が息子に餌やりを頼まなければよかった、いやあんな異常者がいる自宅に保護しなければよかったのだろうか、息子を産まなければよかったのだろうか、それとも、夫と親戚からもっと早く引き剥がすべきだったのだろうか。後から来た警察や町の人から見たらきっと、息子の死を悲しんでいるように見えただろう。だけど私はあの子の死に心が揺れなかった。私はとっくに心の中であの子を殺していたから。あの子は私の子ではなく、夫と親戚の愛玩子でしかなくなっていた。何度も殴られたあの夜に私の可愛い息子は死んでしまったのだ。
母犬は、そんな私を気にすることなく子犬に寄り添い続けていた。ごめんなさい、ごめんなさいと叫ぶ私は、すぐに警察に連れ出されてしまったが数名の町の人の印象にのこったらしい。異常者の息子に殺された子犬に謝る母親の図が印象に残ったのだろうか、葬式では慰めの声をかけてくれる人がいた。大半は腫れ物にさわるような態度だったが、それでも寄り添ってくれる人はいた。私は、犬の親子にどう償えばいいのかそればかりを考えていた。保護されれば殺処分になってしまうかもしれない。私が飼ってあげるのは難しいだろう。離婚して家を出ようという身だ。だが、とにかくあの母犬に息子の罪を償いたい気持ちでいっぱいだった。
その後、隣県の高校に進学するはずだった娘が地元に帰ってきた。正直いって誤算だった。本格的に離婚準備に入ったら娘と母が暮らす家に行こうと思っていたのに、息子の死をきっかけに母が施設に入り家を売ってしまったからだ。私は夫からの、世間の目からの逃げ場所を失い、異常者の母として誹謗中傷や責め苦を受けることになった。気がつくと私はうつ状態になって何もできなくなってしまった。
娘には悪いことをした。家事と夫の相手を押し付けてしまった。
半年もすると、阿武が町から消えた。娘が何かを知っているらしいが、教えてくれなかった。私が聞かない方がいいと判断したらしい。私は娘に甘えて、問題から逃げ続けていた。弱い母親でごめんね、と言うと、にこりと微笑んである人を家に招待した。
阿武さんの奥さんと娘さんだった。
顔を見た瞬間に、あの時の後悔や謝罪の気持ちが込み上げて吐きそうになってしまった。阿武さんも同様だったようで、お互いに口元を押さえて黙る時間ができてしまった。娘はケラケラと笑いながら家の中へ案内し、娘さんにお菓子を出していた。
「息子は海外にやりました。行きのチケットだけを持たせて。もう帰ってくることはありません」
阿武さんは庭の方を見ながらポツリとそういった。お互いの気持ちが落ち着いて、お茶を飲んでいる時のことだ。
「そうですか」
「娘さんに付き纏ってご迷惑をおかけしたそうで、申し訳ありませんでした」
「いえ、とんでもない。うちの子がしたことに比べたら…」
私はそこまで言いかけてハッとして阿武さんの娘を見た。気まずそうに下を見て固まっている。
「す、すみません」
「いいえ、いいえ、謝らないでください。うちのばか息子が悪いんです。あの時オタクのところはまだ小学生だったでしょう。どう考えたって、うちのばかがそちらの子を唆したんですよ。あの時は、その、私も頭に血が上ってしまって言いすぎました。すみません。私も加害者の親だというのに酷い事を」
それからしばらく沈黙が続いた。不意に娘が立ち上がって庭に出られる掃き出し窓を開けた。野良猫が遊びにきているようだ。阿武さんの娘がパッと顔を上げて娘に駆け寄った。
猫が庭に来ているようで、にゃーという鳴き声が聞こえたあと、二人がふふふと笑った。開け放した窓から新しい空気が流れ込んでくる。二人の丸くやわらかな背中を見ていたら、涙が頬を伝った。なんて平和で優しい光景なんだろう。
「娘がね」
阿武さんが言葉を選ぶように話し始めた。私は涙のせいで喉が詰まって返事ができなかったが、彼女は構わずに話を続けた。
「娘がね、仕返ししてやった、て言うんですよ。バカ息子が娘の友達にあなたの息子の死因を探るとかいう内容の原稿を押し付けていまして。学校の前で待ち伏せしてカバンに無理やり突っ込んだらしいんです。本当に迷惑なことで、その子には謝っても足りないくらい申し訳ないんですけどね」
私は黙ったまま聴いていた。
「その原稿、見せてもらったんですよ。はぁ、本当にバカみたいな内容でした。自分をギリシャ神話の狼に見立てていて、愛するロキのため神々を飲み込むとかなんとか。そんなことを織り交ぜながら少年の死の真相は!とか盲目な世間の目を覚ますのは自分の使命だ!とかなんとかわざと事故を煽るように書かれていましてね。でたらめもいいところでしたよ。死の真相なんて町中の人が知っているのに、わざわざ同級生の子たちや先生を追っかけ回して話を聞き出そうとしていたらしいんです」
あの男は私の家にも来ていた。私は出られなかったけれど夫が対応していたはずだ。
「私が知っていたらやめさせたんですけど、もう家を出ていましたから。それでね、その原稿の内容を見た娘が、急に家を出て行きまして。私びっくりして追いかけたんですけど見失ってしまったんです。焦りましたよ、自殺でもするんじゃないかって。でもね、三時間くらいしてケロッとした顔で帰ってきたんです。驚きました。まるで何もなかったみたいにニコニコして。で、何をしたのか聞き出したんですけど、あの廃墟に行って落書きをしたんですって」
猫が二匹に増えた。娘の膝の上の子とは別に庭に一匹。娘さんは慣れない手つきで縁側に上がってきたの猫の頭を撫でていた。
「原稿に書かれていること、廃墟の壁に書いてきたって。大笑いしながら書いたよって。そう言って、なんでしょうね、吹っ切れたみたいに笑ったんです」
ふと疑問に思った。なぜそんなことをしたのだろうか。警察が調べた後とはいえ、あの廃墟にはまだ血の跡が残っているはずだ。とても気分のいい場所ではないだろう。
「結果としてね、警察は息子がやったことだと思い込んでくれたみたいですよ。息子の拙い言い回しそのままの文体で落書きされていたから当然なんですけど。倒錯した男が少年に固執していると思われたみたいです」
「倒錯…」
そうか、兄が異常者であると偽装するためか。いや、偽装するまでもなく異常者なのだが、わかりやすく示すためか。
「あのばか、母犬を殺すために一人で廃墟に乗り込んで返り討ちにあったみたいで。固執していることには変わりないですし、娘がそんなことをする必要なかったんですけどね」
あぁ、いや、違うか。そうか、息子に見せたかったんだ。きっと。唯一息子のことを思っている異常者がどれだけ愚かなことをしているか。愚かな死に方をした息子に、仲間の愚かさを示したかったんだ。バカにバカをわからせたのか。そしてバカだなと笑いに行ったんだ。
猫がにゃーと鳴いた。少女たちはかわいーと歓声をあげて笑った。その瞬間確かに私の家には穏やかな時間が流れていた。暖かな陽の光に包まれた少女たちと、喉を鳴らして腹を見せる猫。温かくて静かで、もう何年も感じたことのない穏やかな時間だ。
阿武さんと私は顔を見合わせて共に泣いた。彼女の夫が迎えに来るまで、私たちはずっと涙を堪えることなくただひたすら涙を流しながら娘たちを見ていた。
一七
この動画が皆さんの目に留まることを願って、投稿します。僕は家族に捨てられました。友人は僕を置いて天国に行ってしまった。警察も遺族も世間の人ですらも僕の話を聞いてくれませんでした。僕は一人です。僕はひとりぼっちなんです。
今、僕は中国、揚州のインターネットカフェにいます。某企業の日本人駐在員の協力を得て、やっとここまで来ることができました。僕の両親は、抵抗する僕を飛行機に乗せてたった三万円だけを握らせてこの揚州に連れてきました。自分たちはそのまま日本に帰り、僕を一人置いて行きました。
こんなことが許されていいのでしょうか。
殺人と変わらないのではないでしょうか。日本領事館に助けを求めようにも、僕は中国語が読めません。日本語がわかる人を探すのに四日もかかりました。手持ちの現金はそこをつき、もう後がありません。
でも、この動画があります。僕がクラウドに保存していたこの動画。原稿は警察か家族の手によっていつの間にか消されてしまったけれど、この動画には冷たく乱暴なJ君の家族と無関心な親戚たち、少年の死を受け止めず逃げまわる学校関係者の様子が映されています。まだ小学生だったJ君の死を、こんなにも多くの人が無視し、無関心を決め込むなんて許されるのでしょうか。僕は、彼の死に大きく関わるとある女性の存在をここに告発します。
乃亜子、僕の妹です。そして彼の姉のEさん。
この二人の女は彼の人生を大きく狂わせました。Eさんは弟であるJ君の人格を否定し、間違った方向へと矯正しようとしました。自分だけが恵まれた幸せな人生を歩みながら、J君が不幸になるように彼の思想を捻じ曲げて、彼本来の考え方を否定しました。幼い彼は姉からの圧力に悩み、屈折して行ったのです。そう、かつてギリシャ神話に描かれた悲劇の神ロキのように。
そして、乃亜子。僕の妹は本当にどうしようもない女です。彼の好意を無碍にして傷つけたからです。
僕はここに、彼女たちがいかに彼を傷つけ、歪めていったのかを証明したいと思います。僕はフェンリル。彼の眷属であり、そして彼のために生きる獣なのだから。まるで聖母のように、慈悲の象徴のように扱われる女たちの化けの皮を剥がし、あいつらの神話を壊す存在なんです。
彼は誰からも愛されるかけがえのない存在でした。あんな死に方をしていい存在ではない。こちらの動画をご覧ください。
僕はここまでの文章を書き上げてから、動画の最終確認と原稿のアップロードの準備を始めた。さて、どこにあげようか。あまりに多方面に公開すると嘘っぽくなってしまうだろう。このドキュメンタリーは、この告発文はなるべくたくさんの善良な人に見てもらいたい。SNSはそれぞれ特徴があるから、一番効果的に広がる媒体を探さなければならない。動画投稿サイトに字幕付きで投稿することは決めていたが、文章がメインとなるSNSにも投稿しておいた方がいいだろう。さて、どこにしようか。僕は、作っただけで動かしていなかったSNSを立ち上げた。同級生がくだらない承認欲求を満たすために作ったアカウントが表示される。確か高校に入学したときに付き合いで作成してフォローしあったんだった。三十二人のフレンドがいまだに何かしらの発信を続けていた。友達ですか?というポップアップが目に泊まったのでクリックすると、違うクラスの連中までずらずらと表示された。懐かしい、そうだこんな奴もいたし、こいつはこういうやつだった。僕がまだ、普通という擬態に必死になっていた時の友人たちだ。
ふと、僕のことをフォローしている人の人数がやけに多いことに気がついた。三五〇九という異様な数字に、僕は思わず二度見した。僕は高校生以来、一切このアカウントを動かしていない。「最後の体育祭おつかれさま」とコメントしたのが最後の投稿だった。ではこの人数はなんだ。
心臓がドクンドクンと脈を打ち始める。嫌な予感に冷や汗が吹き出してきた。なんで僕はこんなにフォローされているんだ、この人たちは一体、僕のアカウントの何を見にきているんだ。
フォロワーのアカウントをひとつづつ見ていくことにした。が、どれもこれもとても知り合いとは思えないアカウントばかりだった。中にはアフィリエイト目的のものや都市伝説の専門家だなんて人のアカウントまであった。ざわざわと胸騒ぎが止まらない。アカウントを一つ一つ見ていくうちに喉がカラカラに乾いてしまって息が詰まるような気がした。水が飲みたかったが、買い方がわからない。ユースホテルの冷蔵庫に入っていたボトルはとっくに空になっているし水道水は腹を壊すだろう。
僕は仕方なく喉の渇きを無視してアカウントをクリックした。たくさんある投稿に紛れて、僕に関する投稿は見つけられなかった。だが、その中の一つが僕のアカウントを引用した投稿をしているのを見つけることができた。たまたま表示された投稿に、僕の名前が書かれていたから気が付いたのだが、その内容はひどいものだった。
「変態少年の師匠の本名、阿武叶生」
何度読み直しても、このひどすぎる文章と僕の本名だけの投稿に三百以上のgoodボタンが押されていた。僕は自分のアカウント名を検索ボックスに入力して、震える手で検索ボタンをクリックした。マウスを握る手に汗が滲んで滑ってしまいそうだ。
二五六〇二件の投稿。
信じられない数字が表示された。二万を超える投稿に僕のアカウントが紐づけられていたのだ。正確に言えば、僕のアカウントが紐づけられた投稿にコメントが寄せられていた、ということになる。
心臓が口から飛び出しそうだ。吐き気が込み上げるが、吐く物が何もなくてただ気持ち悪さだけが体を駆け巡る。目の前の液晶に表示された、見ず知らずのアカウントが投稿した文章がどんどん醜悪なものに変わっていく。
「子犬殺しの少年の師匠はこいつです」
「小学生に付き纏って、家まで入ろうとした変態。なお小学生男子が大好物な模様」
「女教師をバス停まで一キロ追かけたらしい。大人から子供までがストライクゾーンとか変態の極み」
「こいつ、高校の時から目つきやばかったよ。階段登る時、絶対女子のスカート覗いてたもん」
「小学生の女の子とよく遊んでるのを見た。確か、死んだ子のお姉さんだったはず」
「え、やばいってこいつ実の妹を襲ったらしい。家族に縁切られてる噂ある」
「この人の家の前で小鳥の死体落ちてるの見たことある。やっぱりやってたんだな」
「ご両親をよく知っています。とても常識的で温和な方々です。彼だけがいつも家庭で不穏な存在でした」
ひどい、ありえない、なんなんだこれは!僕はひどい人間でもないし変態でもない!J君だって子犬殺しだなんて呼ばれていい存在じゃないんだ。彼は、彼と僕は人と少し違う価値観を持っているだけでとても純粋で善良な人間だ!乃亜子や野良犬が傷ついたからなんだ。あんな奴ら死んだって誰も困らないだろ。僕たちが少し人と違うってだけで、何が変態だ!くだらない価値観を押し付けるなよ。
震える手で、僕は数々の投稿を読み進めた。読みたくないと思っているのに、その手を止めることができなかった。なぜなんだろうか、全部読まないといけないような気持ちになっていた。
そして、僕は見つけてしまった。いつか見た名前、取材したときに確認したとある少年の本名をもじったアカウント名だ。プロフィールの写真にはJ君が所属していた野球チームのユニフォームを着てバッティングしている姿が映されていた。背番号は、あのA君のものと一致していた。
「俺、この人から取材受けました。すげー必死な顔してたからかわいそうになっちゃって。でも正直気持ち悪かったです。っていうか、あいつもキモがってたし。本当に変態、変態すぎて面白いって言ってた。面白いけどキモいって。大人のくせに小学生と遊びたがるとか頭おかしい、毎日あいつから誘われて困るから一緒にいることにしてくれってよく頼まれてました。金持ってるから色々してもらってたみたいだけど、やっぱりあぶない人だったんですね。俺も危なかったのかな笑」
A君のこの投稿には四三件のgoodと五件のコメントが寄せられていた。
「マジ?こいつ学校とか公園で不審者情報流されてた人よな。やっば、阿武ってことはのあこの兄貴だったんだ」
「のあちゃん可哀想。告白断ってからいじめられてるって悩んでたよ。あいつ死んだから学校戻ってきてくれるかと思ったけど、学校転校しちゃうんだって。お兄ちゃんもあいつと一緒になっていじめてたのかな」
「大人が気付いてないだけで嫌な奴だってみんな知ってたのに、変な大人と遊び出してからもっとヤバくなったよね。散々利用しておいて金蔓とかキショいとか言いまくってバカにしてたし、マジで頭おかしい。しんでくれてよかった」
「それな」
「なんか、毎日連絡くるうざい、ってキレてんの見た。乃亜子の兄貴だから一緒にいたけど、乃亜子いなくなったからもういいやって言ってたのに家の場所とか知られてるから逃げ場ないとか」
僕はこの投稿から後が読めなかった。
取材を受けている時のA君の姿を思い出す。快活で利発そうで、まるでJ君と話しているようだった。そう、僕はあの時、確かにA君に彼を重ね合わせて話をしていた。そうだった。だからこそ、A君の言葉はJ君に重なってしまった。コメントの内容も、J君の言葉に聞こえてしまった。いや、これこそがJ君の言葉なのかもしれない。
あぁ、もうダメだ。
僕は、本当にひとりぼっちになってしまった。僕の心から彼がいなくなった。残されていた僅かな面影を、A君の投稿がかき消してしまった。
僕は動画を消去した。しばらく考えてから、文章も全て削除してしまった。動画と文章と、彼の思い出の全てを削除した。僕はひとりぼっちで、そして何も無くなってしまった。
僕も、全部、いなくなってしまえたら。
インターネットカフェに適当にお金を支払って外に出た。聞き慣れない言葉、知らない街並み、知らない人たち。いつの間にか目の前には荒削りなコンクリートの階段が続いていた。十段程度の短い階段。ここを転がり落ちたとて死ぬことはできない。彼のように、死ぬことはできないんだ。あの野良犬と僕と、どちらが惨めだろう。せめて僕の方が少しまともであれと願いながら、僕は雑踏へと足を進めた。
フェンリルの咬傷 ジョージ @Mt_George
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