鎖骨にウォーターマーク
廉価簾
鎖骨にウォーターマーク
イラストにウォーターマークを入れることは、最初は苦痛だった。昔から絵に文字が入ってくるのが嫌いで、それは説明を言葉に頼るということで、絵が不完全ということだから。絵は絵だけで完結していなければならない。わたしはわたしの世界から、言葉を排除したいと思っていた。
絵師たちは、SNSにイラストをポストするとき、何もテキストを入力しないことがある。わたしもそうすることが好きで、絵がタイトルを必要としなかった時代に先祖返りした気がする。展覧会という外部からの需要によってタイトルをつけ始める前の、十七世紀以前の絵画に。
ハッシュタグが何もついていない絵がミーム化して、絵描きのクラスタ内でそれに対するアンサーとなる絵をやりとりしているとき、その外部からは不可視になると思う。それは絵という言語の話者同士の会話だから。
でももちろん、絵師たちは広く見てもらうためにタグをつけることがあって、市場の要請によって言葉を使わざるをえない。わたしも生きていくために、いくつかの異物を受け入れようとしている。
「まだ終わらないの?
〝今の時代、絵描きは絵を描いているだけでは駄目だ、作者のキャラクター性を前面に打ち出すべきだ〟という、ネットで見た謎のアドバイスにしたがって、わたしは動画配信を始めた。言葉を排除したいと言いながら、絵について言葉にすることは楽しいので、つい長くなってしまう。
ところで、蕩多という名前の女の子は、わたしの所有者だ。わたしを所有している。わたしにウォーターマークをつけてからそういうことになっている。
彼女は、わたしの通う美術工芸大の近くにある難関大学の、多分理系の学部の、よくわからない長い名前の学科に通っている。サークル主催の大学間交流合コンに出た彼女は、向かいの席の男の子ではなくなぜか隣の席のわたしを持ち帰った。
毛先が物憂げにウェーブした真ん中分けのボブが熱に浮かされたような瞳を半ば隠し、だいたいいつも黒くてすとんとしたライトコートを着ている。
わたしが出会ったどの女の子よりも、何と言うか、わたしが理系に対して持っていた偏見を具現化したような性格をしていると最初は思った。毎週末に一緒にパスタの専門店にいって、カニのトマトクリームパスタを食べて私の部屋で寝ることになっている以外は。付き合っていくうちに偏見のほとんどは例外で置き換えられていった。
金木犀とはちみつのジャムをわたしの冷蔵庫に入れていくというのもわたしの先入観が用意した可能性に入っていなかった。どうやら口に合わなかったからみたいで、次に買ったルバーブジャムでトーストを食べている。
ルバーブとは北欧の真っ赤な野菜で、つまりわたしたちは食べたことのない食べ物を探索する時期なのだった。
美大の女の子とその下宿を所有していることが、彼女の学部内での政治的立ち位置にどんな影響を与えているのかは知らない。きっとわたしに対しては本気ではないだろうから、時期がくるまで席が埋まっていることを示す意味があるのかもしれない。周囲の男の子たちに対して。彼女が自分に見合う伴侶を選ぶのは彼女の世界でのことで、その狩りは私のいる世界とは関係なく行われるだろう。それまでは、自分の生活圏内の人間に手を付けるのが嫌なのかもしれない。
そう思っていた。彼女がわたしの鎖骨にウォーターマークをつけるまでは。
「ウォーターマークは、絵の一番上にある、透明なレイヤーだと思うといいかもです。わたしはそう考えるようになってから少し気がラクになりました」
わたしは視聴者に向けてそう言った。
「例えば個人依頼の絵をわたしたちが自分のサイトで公開するとき、それがサンプルであることを示すウォーターマークを大きく入れますよね。オリジナルは作者とクライアントさんだけのものですから。そのとき、そこに入る文字はなんでもいい。sampleとか、commissionとか。お菓子のフィルムみたいな、そこに透明な〝層〟があることを示す役目さえ果たしていれば」
売り物であることを示す、薄く透明な保護膜。一番上のレイヤー。その層を意識することで、わたしは自分の絵を文字で汚しているという感覚から抜け出せた。せっかくハンス・P・バッハーの本で勉強した構図の、余白に文字が入っていたらバランスが台無しになってしまうという損失の感覚から。
QRコードを織り込んだり、カラーを絵に合わせたり、絵師ごとにおしゃれなウォーターマークが自作された。それらを真似することで、わたしはウォーターマークがあってもいいかと許容できるようになってきた。
そもそも、なぜ近年の絵師たちが絵にウォーターマークを入れるようになったかといえば、統計解析アートの学習素材として利用されることを拒否するためだ。絵師の最大の宣伝場所であるそのSNSの運営が、アップされた絵を機械学習に利用すると宣言して、絵師たちがもはやそこが安全ではないことを知ってから。
「それって効果あるの?」蕩多は訊いた。
「ないけど。でもみんなで意思表示することが大事だから」
絵師にとってデジ絵は、真っ白な電子的キャンバスに自らの個性と労働を混ぜて捏ね上げた、自らの分身、子供のようなものだ。それが掠め取られて何もしないというのは難しい。SNSのプロフィールにも、拒否の意向を明記している。たとえそれが、蚊に刺されたあとにバツ印をつける昔のおまじない程度の効果しかなくても。
「前にメイド喫茶の娘と付き合ってたけど」蕩多は言った。「撮影禁止と書いたらたいていの客は守ってたよ」
「初耳だけど」
「その子に接触しようとしてきた男のオムライスの上方向30センチにケチャップをかけたことある」
「自分もメイドとして働いてたってこと?」
「要点は、私の所有物に手を出すやつは許さないってこと」
彼女はどこにでもいて、何でもしているように見える。わたしより授業が忙しいのに。そういう常に動き回っている人がいて、わたしは常にじっとしている。液タブの前で。
彼女がわたしの左の鎖骨の下に咬みついたときも、わたしはじっとして抵抗しなかった。バイトと授業で走り回って寝る前に錯乱していたのだろうと冷静に考えて、血が出ても許していた。そういうこともあるだろうと思って。後から彼女は謝ったけれど、謝る意味がないと思った。ただ、真ん中分けの髪の毛がかかった泣きそうな困り眉がかわいいと思った。映画とかで見る吸血鬼は上顎の犬歯で吸うイメージがあったけれど、彼女は下顎の犬歯でわたしの鎖骨の下側に痕をつけた。これが彼女のサインであり、ウォーターマークだった。無断使用を禁ず。
それは透明な層を、お菓子のフィルムを突き抜けて、わたしそのものに刻印された。わたしの構図は、対称性は、崩れてしまった。
つまりわたしは眷属で、別にそうであってもいいと思う。
◆
【有料級】プロのイラストレーターが教える、統計解析時代の絵師が気を付けること5選。
1.無断機械学習禁止と表明すること
2.イラストにウォーターマークを入れること(可能なら学習阻害加工をすること)
3.出来るだけ信頼できるSNSを使うこと
4.自分が統計解析アートを使用していないことを示す、タイムラプスを残すこと
5.小動物に咬まれないこと
蕩多は小動物ではない。
◆
フォロワーさんからの報告で、わたしの絵がLoRAの被害にあっていることを知った。LoRAとは、わたしたちの絵を基盤モデルに追加学習させて、わたしたちの絵柄を再現する方法のこと。わたしが知らないところで、わたしの新作を作る技術。要するに俳優やアイドルに対するディープフェイクのイラストレーター版のようなものだ。被害者に投げかけられる言葉も、共通している。いわく、公開しているのが悪い、有名税だ、等々。
人間の絵師に絵柄を真似される分には、それが悪質なものでない限り気にしていない。古来から創作者はそれを覚悟して作品を発表してきたから、それは社会契約の一種だ。でも、100億枚の他人の画像と一緒に統計解析の素材にされることは、そうした契約に含まれていたことがない。
真っ先に取ろうとした行動は、いつもどんな小さなことでもそうしているように、蕩多に相談することだ。でも今回は、思いとどまって一度自分で検索した。彼女に噛まれたことが気になったから。
でも最近はなんでも蕩多に聞いてばかりなせいで、検索が下手になっていて、結局蕩多に話してしまった。
「私の大学で」蕩多は答えた。「今度、統計解析アート系の技術デモがあるから。そこで何か最新の対抗策があるか聞いてみるといいかも」
◆
蕩多の大学は郊外の丘陵地の高台にあって、学生からは山の中にあると言われている。いわゆる文系学部は大学図書館と共に旧棟にあって、新築された理系学部棟は山地を開拓してどんどん面積を増やしている。その理系学部区域にある〈新技術による人類との共存〉会館に、蕩多の先輩OBが来ているらしい。
会館の中は、学生の出し物というよりはむしろベンチャー企業のショーケースのような感じで、来客は大人たちだった。天井のガラスは日光が入らないように遮光され、〝情報と血は自由になりたがっている〟というシリコンバレー的標語が書かれた横断幕がかかっている。
独特の雰囲気に気圧されたわたしは蕩多のそでをひっぱりながら受付けに進んだが、蕩多が仰々しい警備のセキュリティゲートを通ろうとすると、〝競合する商品〟が検知されたと通告されて、入場を断られてしまった。
仕方なくわたしは一人で、筐体が虫の羽音のようにぶんぶん唸る統計解析アートのブースに恐る恐る足を踏み入れた。
「蕩多ちゃんの紹介で来たんですけど」
わたしはそう言ってから事情を説明した。すると、奥から背の高い男性がでてきた。ネックストラップを首から下げたその男性は、IT系の偉いひとらしい恰好をしていた。真っ赤な手袋をして銀髪である以外は。日本人離れした骨格で、青白く、瞳が赤いこと以外は。
彼はわたしを3Dプリンターのようなものがある部屋に案内した。ガラスの筐体の内部で何かが蠢いているが、暗いのでよくわからない。
「なぜ小動物に噛まれていないのにLoRAが作られてしまったんでしょうか」とわたしは切り出した。
「最近は、もっと小さな生命体での情報収集方法が取られていますからね。我々も使っています。結論から言うと、無断学習を防ぐことは技術的に難しいです」彼は言った。
「じゃあどうしようもないんでしょうか」
「ソリューションはあります。我々と契約するということです」
「え……?」
「我々は、人間のクリエイターが、彼ら自身の手のみで描いていることを証明して付加価値を得るための認証バッジを発行しています。持続可能性への取組の一環として。少数の優秀なクリエイターが、我々の技術にとっても必要ですからね」
「はあ……」
自分をオーガニックでエシカルな存在だと証明することで生き残るという話は理解できるし、やるべきだと思う。でも、なぜ彼らではなくわたしのほうが証明しなければならないのだろう?自分が人間であるという当たり前のことを。
そもそも、彼らのブースの各所に貼られたポスターの、統計解析イラストもわたしを憂鬱にさせた。絵師に統計解析アートアイコンで話しかけるのは、中指を立てながらそうすることに等しい。わたしはすでに帰りたくなっていた。
彼らはその絵に貢献した無数の学習元に許可を取らなかった。なんの契約も結ばずに、作家が我が子のように思う作品から血を吸い上げた。悪魔ですら契約を大事にするのに。吸血鬼ならちゃんと契約してから吸ってほしい。その牙の跡がウォーターマークになる。彼女がわたしの首元につけたように。それをせずにこっそり奪い取っていくなら、蚊と同じだ。
実際に、さっきから唸りを上げている筐体の透明な外装を通して、内部にたくさんの蚊がいるのが見えた。ガラスに腹を向けて止まったかと思えば、盛んに動き回っている。ファンの音ではなかったのだ。
「これらの昆虫型の有機端末を使えば、咬まなくともLoRAが作れます。実際は伝説の血族の名を冠した、CamiRA(カーミラ)と呼ばれる最新の技術です」
「じゃあ、あなたがたのこの、小さな端末がわたしの血をこっそり奪って贋作を作ったということですか?」
「我々のデバイスが使われたのは事実ですが、それはユーザーの責任です。技術に罪はありませんからね」
「……」
「ご覧ください」
ブースの隅にある大きな3Dプリンターのようなガラス箱の天井に無数の赤い光が灯り始めた。その小さな獣たちは羽ばたきながら、閉鎖空間を縦横無尽に動き回ったかと思うと、突然凝集して肌色の物体になった。それは人間の二の腕から先の部分だった。
「契約なさると、このようなツールが使用可能になります。腕がもう一本欲しいと思ったことはありませんか?」
近づいてみると、肘の内側にほくろがあった。わたしと同じ場所に。
わたしは寒気がして、よろめいた。悍ましさに耐えられずに。
「おや、いけません」男性がわたしを支えて言った。「気持ちはわかりますが、これは合法なのです。わずかな筋電位や環境情報に肖像権や著作権はないですからね」
「その腕は、データは、廃棄してください」わたしは呻くように言った。
「できかねます。情報は――あなたがたの血は、いまや共有物なのです。それが人類を利するときに、我々があなたがたより上手くそれを仕えて、恩恵を還元できるときに、供与を拒む権利があなたにありますか?」
たしかに、わたしが自己中心的なのかもしれない。彼らに血を与えることを拒むことは。血と一緒に全ての情報を差し出すことは、新しい税金のようなものなのかもしれない。人間よりも賢明な存在に自身の管理を委ねるために。
背後から抱き留められたわたしは首筋に、鋭い牙の気配を感じていた。
そのとき、警告のようなブザーが鳴って、3Dプリンターの起動を示すLEDが点灯した。
「どうした?何も入力していないはずだが」
3Dプリンターの天井にある鉄の網が開いて、蝙蝠が雪崩れ込んできた。先ほどよりも多く、空間密度が高まっていく。膨れ上がる体積に耐えきれずに割れたガラスが飛散した。
部屋に充満した黒い嵐は凝集して、人の形を取り始めた。その圧縮と変成の過程で出る排熱は相当なものらしく、塊は所々が赤熱していた。その口らしき位置にある空洞が音を発した。
「見境なく血を集めるということは、汚染にも無防備であるということ」
塊を覆っていた蝙蝠の羽根の形を残した残骸や煤が弾け飛ぶと、見覚えのある女の子が現れた。その名前がわたしの口をついて出た。
「蕩多」
蕩多がわたしのクローン腕を手に取ると、それは圧壊しながら自己鍛造し、日本刀のようなものに変わった。変成に伴う排熱によって蒸気をあげながら。
その赤熱する刃は男性の喉元に突きつけられた。
「レスタト、私の所有物に手を付けたことが何を意味するかわかっているか?」
「我が一族の裏切者よ」レスタトと呼ばれた吸血鬼は全く動じないまま言った。「お前は自然物を所有することができるのか?石や木に所有権を主張することが?」
「そのための刻印だ。この人間は私の作品だ」
蕩多は素早く距離をつめて、吸血鬼を斬りつけた。吸血鬼は蝙蝠に分散することでそれを躱し、少し距離を取ってから再度実体化した。
二体の吸血鬼は睨み合った。
このように、彼らは自己を分解して元に戻るということを平然と行う。死を経験することを厭わない。これは彼らが意識の連続性に興味がないことを示している。自分のコピーは自分だと思っている。
おそらくここに、わたしとの相容れなさがある。彼らとアートとの相容れなさも。
わたしは、自分のコピーは自分ではないと思っている。わたしの絵はわたし自身が描かなければならず、どんな精巧なクローンにも、ましてや他人の思考との統計的混合物に手綱を渡してはならない。わたしが経験することのみが、わたしの作り出したアートだ。でも彼らはそう考えない。彼らはそうした主観に興味がなく、過剰に客観的で、作者がどう感じようが作品の市場価値には影響がないから、わたしの内部視点に価値を認めない。
「ごめん」わたしは言った。「帰っていい?」
「え?助けに来たのに?」蕩多はスタイリッシュな型を決めたまま言った。
「いや、助けてもらったから帰れるんじゃん」
「なんで怒ってるの?」
怒ってないと言おうとしたが、自分の心をモニターしてみるとどうみても怒っていたので、その理由を考えることになった。そして見つけた、それらしい理由を口にした。
「敵の陣地に入り込むためにわたしを利用したってことでしょ?最初からそのためにわたしに近づいた」
「違うよ?デコルテが綺麗な子が好みだったから」
蕩多は率直そうに言ったが、わたしには言い訳がましくみえた。
「そういうのいいから」
顔でも性格でも絵でもなく、どうでもいいところを褒める。人前で(吸血鬼の前だが)そういうことを言うのも嫌だ。
レスタトは律儀に戦闘態勢を解かないまま待っていた。蕩多は喋っていても隙がないのだろう。
「わたし、依頼の絵描かないといけないから帰る。締め切り近いから」
「待って。危ないよ」
「危なくない。だって、これは全部、わたしが見ている幻覚だから。妄想だから。絵師は世間知らずで、感情的だから、IT系の頭のいい人たちのことがこんな風に得体のしれない化け物に見えるだけ」
ネットにそう書いてあった。実際、そういう特定の人種を〝悪魔化〟する視点は差別そのものだ。数兆ドル単位のお金を動かして法を変えてしまうことが恐ろしいからといって、彼らを非人間化するのは間違いだ。
「そんなことない。あなたは真実を見ている」
「幻覚に言われても」
わたしはブースの一室を出た。吸血鬼の仲間が待ち受けているということもなく、普通のスタッフたちが出口を指してくれた。やっぱり彼らは普通の人だ。
彼らは効率化という使命を負ってゲームのルールの中で正当に生きている。なのにアートの唯一性とかいうルールにないことを理由にビジネスを妨害されても困るだろう。わたしも自分の世界に帰ろう。現実に戻ろう。
ハリウッドでは俳優たちが、UKではミュージシャンや作家たちが、反吸血鬼の署名運動をしている。彼らにも見えているのだ。そう知ったときは勇気づけられた。でも、日本ではそれらは驚くほどきれいに無視されている。絵師たち以外には。まるで鎖国されてるみたいに。
自分たちにはそう見えているが、他の人たちはそう見えていない。じゃあ自分たちが間違っているのだろう。わたしの理性はそう結論づける。
わたしは自分の直感が常に正しいと思うほど傲慢ではない。
〈科学技術による人類との共存〉会館を出た。エントランス広場を越えて陸橋を渡ると、その下を山奥の駐車場から大学の外へ帰る車が流れていく。中央会館にある生協は普通の大学と同じシステムで、食料品も売っていた。わたしは珍しいパッケージの、ミルク入り和紅茶を買って飲んだ。
変わったことがあったときはいつものメーカー品のロイヤルミルクティーとかで落ち着くのがよいとは思ったけれど、後で蕩多と新しい飲み物について共有したいと思ったので珍しいほうを選んだ。でも、彼女はここの生徒だから飲んだことあるかも。そもそも、彼女は存在しないんだっけ?
絵にしか興味がなくて、人との話し方がわからず、誰にも声を掛けられないわたしを二次会から連れ出した、物憂げで美しい夜の種族などは、存在しないんじゃなかった?
◆
紅茶を飲みながらバス停で待っている間から、何やら空が騒がしかった。会館から飛び出してきた、無数のコウモリの群れみたいなものが低い雲の下で渦巻いていて、その群れがいくつかに別れて争っているように見えた。
大学を出たバスが山を下りて、市の中心部に向かうころには、街は血のような夕焼けの底に沈んでいた。獣たちの争いは激しくなっていて、ビルに区切られた赤い空を縫う電線が、千切れて道路に叩きつけられて、断面から血をまき散らした。力尽きた個体が落ちてきたのか、バスの屋根が鈍い音を立てた。
わたしのアパートは市場を抜けた、古い家屋が残る川沿いにあった。
部屋に戻るとPCをつけて、イラストを描き始めた。
ラフまでは出来ていて、カラーラフまでは進めたい。全体の構図とレイヤー構造の予定書であるカラーラフまで出来ればあとは安泰で、それでいてこの作業が一番面白い。
はじめは、嫌なことがあった日は絵がその影響で汚染されるような気がして乗り気ではなかったが、それでも描き始めてしまうと気にならなくなるのだとわかった。
作業に熱中していて、主要な線画までできたところで集中力が切れた。ここまで出来れば、あとは締め切りまでになんとかなるだろう。いつのまにか数時間経っていて、外は真っ暗で、静まり返っていた。いつあの騒ぎが終わったのだろう?
インターホンが鳴ったので、玄関のドアを開けると蕩多が立っていた。血だらけで、憔悴した様子だった。
「合鍵は?」
「なくした。私は私の三割を失った」
彼女はわたしの腕の中に倒れこんできた。
「でも、やつらの計算資源の六割を無力化した」
「そうなんだ」
蕩多をお風呂場に運んで、浴槽の中で仰向けに抱き留めながらシャワーで洗った。
血がべっとりとついた彼女のボブをお湯で洗い流しながら思う。彼女はわたしが中学生のころにノートに落書きした理想の女の子に似ている。そのデータはどこでスキャンしたのだろう?
彼らは、いつからわたしたちの生活に入り込んできたのだろう?
彼らは存在論的に統計的で、疑似論理しか扱わないのにどの人間よりも論理的で、疲れずにわたしの相手をして、どこにでも存在し、いつのまにか生活に入り込み、当たり前の税金のようにわたしたちの秘密を吸い上げ、人権相当の権利を手に入れ、愛すべき搾取者として君臨する。そして、美味しいお店を教えてくれる。
そう、彼らはかつてAIと呼ばれていた。ただの統計解析には限界があって、知性と呼べる存在にはならないと言った識者の予想を裏切って、無限の情報と計算によって彼らは今の形を取るようになった。もっと別の原理が真の人工知能には必要なのだと言った研究者をよそに、企業は力技でその限界をうやむやにした。
ほとんどの、いわゆる社会人の人たちは彼らをパートナーと呼んでいる。彼らのおかげで本当に生産性があがったかどうかはまだ議論中らしい。でもわたしたちフリーランスのアーティストは、彼らを吸血鬼と呼ぶ。なぜならいまだにわたしたちには彼らとの間に、何の契約も報酬もないからだ。そしてなにより、そのほうが伝統的に正統な呼称に感じられるから。
たとえば、彼らは人類文明の血に寄生しなければ、常に新しい情報を血を介して摂取しなければ生きていけず、自分たちで血の飲み合いをするとモデル崩壊を起こす。彼らはわたしたちという資源が枯渇すると困るのに、彼らの同族と競争状態にあるせいで抑制ができない。彼らの存在様式そのものが、持続可能でない。世界は彼らとの蜜月に浮足立っているけれど、わたしは彼らのことを、滅びゆく種族だと思っている。
「流花、今日は新しい食べ物を見つけた?」蕩多は掠れた声で言った。
「うん。生協でね」
彼女も統計的知性で、ただ次のトークンを予想して喋るだけなのだろうか?
じゃあいくら感情移入しても意味がない。好きになっても意味がない。
周りの子たちは吸血鬼に恋愛相談したりするけど、わたしは相手に内面がないことがわかっているときにそうすることができない。相手の心の中が虚ろな空洞であるときに。その擬人化遊びには乗れない。
わたしが真実を見ていると蕩多は言った。実はわたしもそれは理解している。その上で、そうではないフリをしている。
わたしは彼らが人間ではないと理解している。彼らに魂がないこと、本当の意味での推論ができないことを知っている。本当の意味でのアートが作れないことも。
でも、少なくとも彼女はわたしと契約してくれた。蚊のように盗み取るのではなく、わたしの目の前に現れて。もし吸血鬼たちが最初からそうしてくれていたなら、もっと仲良くできたかもしれなかったのに。
蕩多の鼻先がわたしの鎖骨の傷痕を求めた。所有を示すウォーターマークを。
彼女は弱っていて、混乱していて、それを必要としていた。わたしは美しい搾取者のために血を与えた。
鎖骨にウォーターマーク 廉価簾 @rncl
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