第5話

「うん。音程とかリズムとか、めちゃくちゃだったけど──」

 彼女は小さく笑った。どこか、懐かしそうに。

「でもね、すっごく楽しそうに歌うの。大きな声で、間違えても気にしないで、何回でも歌って……。聴いてるこっちが、笑っちゃうくらいに」

 

 ふいに、彼女の指先が止まった。


「……あの子の歌、好きだったな。うまいとかじゃなくて、“まっすぐ”だったの」


 僕は黙って頷いた。


「でも──突然、来なくなっちゃった。引っ越したのか、何かあったのか……わからないまま」


 彼女の声が、少しだけ揺れていた。

 僕はそっと彼女を見た。その横顔には、笑みの名残と、少しだけ──寂しさの影が残っていた。


 言葉の先を、彼女はゆっくりと飲み込んだ。


「──それから、誰かに歌を教えるの、ちょっと怖くなったのかも」


 しばしの静けさ。僕は口を開く。


「……僕も、音痴だけど、今日が一番楽しかったです」


 その言葉に、彼女の表情がほんの少し和らいだ。


「……じゃあさ」


 彼女が立ち上がって、マイクを手に取る。


「最後、私が歌う番ね」

「え?」

「今日だけ特別。無料サービス。……でも、録音は絶対禁止」


 曲が流れる。

 彼女の声が、そっと重なって、部屋を包んでいく。

 それは、初めて聴いたときよりもやさしくて、あたたかくて。

 そして何より、やっぱり──美しかった。

 彼女は、曲のラストを静かに締めくくったあと、小さく息を吐いた。

「……やっぱり、歌って、いいな」


 その言葉は、まるで彼女が、ずっとしまい込んでいた気持ちを、自分自身にそっと語りかけるようだった。


 僕は、何も言わずにうなずく。

 この夜が、彼女にとっても“何か”を始めるきっかけになればいい──そう願いながら。


 少しの沈黙が流れたあと、彼女がふと僕を見た。


「……え?」


「ううん、なんでもない。ただ──もうすぐ、時間かもね」


 彼女はそう言って、ゆっくりと視線を落とした。

 カラオケの画面には、残り時間の数字が静かに減っていた。

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