第3話


「……濡れてない?」


 彼女がぽつりとつぶやいた。


 僕はスマホを胸に抱きながら、ソファにへたり込んでいた。濡れたシャツが肌に張りついて気持ち悪い。でもそれより、頭の中が真っ白だった。


「たぶん……ギリ、セーフ。画面も割れてないし。むしろ、僕の精神が割れた」


「……コンボだったもんね」


 くすりと笑う声が、さっきよりもやわらかく響いた。僕はその声に、少しだけ救われた気がした。


 彼女は紙ナプキンを持ってきて、テーブルの上を拭きはじめる。僕も慌てて手伝おうとしたけど、手を止められた。


「いいよ。こっちの失態だし」

「……いや、僕が転んだからで……」


 気まずい空気が流れかけたけど、彼女がふっと息をついて、リモコンを手にした。


「ねえ、さっきの曲……もう一回、歌ってみて?」

「えっ、いま? 無理ですよ。恥ずかしいし……僕、さっきけっこうひどかったじゃないですか」


 彼女は、ほんのり笑いながら首をかしげた。


「……ひどかった、とは言ってないよ?」

「いや、顔に出てました。めっちゃ出てました」

「そっか。じゃあ、今度は出さないように聴く」


 さらっと毒を盛ってきた。けど、そのあと、少しだけ真剣な目をした。


「……でも、歌は気持ち。音が外れても、ちゃんと伝わるよ。歌いたいって気持ちは」


 ……こんなこと、誰かに言われたの、初めてだった。


 僕はそっとマイクを受け取る。冷たいはずのそれが、じわりと手の中で重くなった。

 伴奏が流れ始める。さっきと同じ曲なのに、今は少し違って聞こえる。

 僕は、震える声で歌い出した。声は揺れて、ブレスも足りなくて、リズムも微妙にズレる。それでも、歌った。

 彼女は、静かに聞いてくれていた。

 途中でそっと近づいてきて、僕の手元を直す。


「ここ、もうちょっとだけ、力抜いて」


 そして、ほんのワンフレーズ──彼女が代わりに、歌ってくれた。


「──風が 揺らす心に あなたの名前が 落ちてくる……」


 その瞬間、胸の奥が不意に跳ねた。どこか、触れられてはいけないところに、そっと手を差し伸べられたような。


「……こんなふうに?」

「うん。でも、真似しようとしなくていい。あなたの声でいいから」

「……自分の声?」


 小さくつぶやいて、僕はもう一度、マイクを握り直した。

 不格好な歌が、でも僕だけの形で、そこにあった。

 曲が終わる。

 しばらく、彼女は何も言わなかった。

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