第2話

 彼女が、リモコンを手に取った。

 その仕草は、やけに静かで──どこか品があった。


 彼女は、軽く肩を上げてイヤホンを外す。

 画面には「melty voice/YUKI*」の文字。


 イントロが流れた瞬間、ブースの空気がガラッと変わった。

 ひと呼吸──そして。

 彼女の声が、部屋に降りてきた。

 それは、歌というより“魔法”だった。

 やわらかくて、まっすぐで、少し儚い。

 下手に言葉にすると陳腐になってしまいそうなくらい、ただただ“聴かせる”声だった。

……これ、知ってる

 背筋がすっと伸びた。

 曲も、歌声も、何度も聴いたことがある。

 SNSで話題になってた、顔出しNGの謎の歌い手──“YUKI*”。


 その声が、今。ここで。

 すぐ隣で、歌ってる──?

 曲が終わると、彼女は静かにマイクを置いた。


「あの……」


 気づいたら、口が勝手に動いていた。止める間もなかった。


「もしかして……その、YUKI*さんだったり、します?」


 フードの奥で、彼女の目がわずかに細められた。


「……なんで、そう思ったの?」

「いや、えっと……声が、そっくりで。っていうか、本人ですよね?」

「ふーん」


 彼女は、ほんの少しだけ体を傾けて。

 いたずらっぽく笑った。


「じゃあ、ばれた罰に──録音してるの、消してくれる?」

「えっ?」

「もし消してくれたら……もう1曲、歌ってあげる。内緒にしてくれたら、ね」

「ろ、録音? してないけど──あっ……!」


 言いかけた瞬間、僕のスマホから、かすかな操作音が鳴った。


 ──録音中。


「うそだろ!?」


 慌てて身を乗り出そうとして、リモコンのコードに足を取られた。


「わっ……あぶ──っ!」


 バランスを崩して前のめりに倒れ、そのまま──

 彼女のほうへ、勢いよく突っ込む形になった。

 ドスッ。

 ……数秒の沈黙。

 僕の顔のすぐ下には、彼女の肩があった。

 柔らかい髪の香り。わずかに震える気配。


「す、すみませんすみませんすみませんっ……!」


 慌てて体を起こそうとして、スマホを探す。

 そのとき──

 ガタンッ!

 テーブルの上にあったアイスレモンティーが、スマホに向かって倒れた。

 バシャ。


「うわああああああ!!?」


 とっさにハンカチを取り出し、スマホとテーブルを必死で拭きまくる。

 水音、焦り、そして──

 ゴンッ!


「いっ……!」


 頭を上げた瞬間、天井の梁に思いっきり額をぶつけた。

 その反動で後ろに倒れかけて──

 ドン。

 咄嗟に彼女を庇うように手をついて、壁に腕を突っ張る。

 静かすぎる密室。

 顔を上げれば、彼女と数センチの距離。

 ──壁ドン。

 彼女の身体が、僕の腕の中で固まってる。


「……ちが、違うんだ、これは……! 事故で、あの、ほんとに……!」


 真っ赤な顔で手を引っ込めた。背中に汗がにじんでる。

 沈黙。

 そのあとで、くすっ──と小さな笑い声がこぼれた。


「……なにそれ。コンボすぎ」

「えっ?」

「音痴で爆音で、足引っかけて、押し倒して、飲み物ぶちまけて、おまけに壁ドンて……」


 彼女は、ゆっくりとフードを取った。


 そこには、想像していたよりあどけない顔と、笑いをこらえる口元があった。


「……バカすぎて、ちょっと笑った」


 僕は頬を赤くしながら、苦笑いで頭をかく。

 ──たった数秒前まで、壁ドン未遂からのレモンティー噴射、そしてスマホ落下という三連コンボを決めたばかりだった。

 なんとかテーブル周辺の混乱をおさめ、ふたりで軽く後片づけをしたあと、ようやくソファに腰を下ろす。

 深く息を吐いたそのとき──

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