第11話 『裁きの声と、母の祈り 〜冬至の夜に灯す、小さな感謝〜』

夕闇が迫る部屋で、富子はパソコンの画面をじっと見つめていた。 掲示板の文字が、刺々しい針のように網膜に刺さる。


『親と同時に逝け』 『生産性を持て』 『軍隊並みの更生施設に入れればいい』


無機質な青白い光が、富子の刻まれた皺を深く照らし出す。 世間の声は、冬の夜風よりも鋭く、容赦なく吹き付けてくる。 「……甘え、か」 富子は小さく呟いた。その声は、乾燥した部屋の空気に吸い込まれて消えた。


奥の部屋から、ガタガタと何かが倒れる音がした。 和俊だ。 「あああああ! 違う、俺じゃない! やめてくれ、殺さないでくれ!」 獣のような叫び声。和俊はまた、脳内に響く「自分を裁く声」と戦っている。 中学一年。あの日、教室の隅で始まった執拗ないじめ。 それが彼の精神を粉々に砕き、自分を責め続ける『統合失調症』という牢獄に彼を閉じ込めた。


「和俊、大丈夫よ。お母さんがここにいるわ」


富子は、要介護1の重い足を引きずりながら和俊の部屋へ向かった。 部屋に入ると、和俊は自分の頭を拳で叩き、耳を塞いで丸まっていた。 「俺はゴミだ。生きてる価値がない。税金を食い潰すだけの、穀潰しだ……!」


掲示板に書かれていた言葉と、和俊の自責の言葉が重なり合い、富子の胸を締め付ける。 (この子は、甘えているんじゃない。……戦っているのよ。死にたい自分と、自分を殺そうとする声と、二十四時間休まずに)


富子は、和俊の震える手をそっと握った。 「和俊。……あなたはゴミじゃない。私にとっては、たった一人の大切な息子なの」


「……母さん、俺……軍隊に行かなきゃダメか? 叩き直されないと、人間になれないのか?」


和俊の瞳は、恐怖で大きく見開かれている。 富子は、彼の背中を優しくさすった。アマゾンで買った高反発マットレスが、和俊の痩せた体を静かに受け止めている。


「軍隊なんて必要ないわ。……あなたは、もう十分に戦ってきた。誰よりも厳しく、自分を裁いてきたじゃない。……これ以上の厳しさなんて、あなたを壊すだけよ」


富子は台所に戻り、キーボードに指を置いた。 画面上には、相変わらず冷酷な言葉が並び続けている。 『強制再教育施設を作ればいい』 『生産性のない奴は……』


富子は、深い、深い溜息を吐いた。 そして、震える指先で、そっとコメントを書き込み始めた。


「……中学1年でいじめから統合失調症になり、自分を裁いて責めて強度行動障害になっていく。……それでも、この子は生きています。……精神障碍者年金と、訪問看護師さんと、主治医の先生。そして、話を聴いてくれるカウンセラーさんに……心から感謝します」


一文字一文字、祈りを込めるように打った。 生産性。就労支援。 政府や厚生労働省が力を入れるべきなのは、彼らを「叩き直す」ことではない。 挫折しそうな心に寄り添い、厳しさと同時に、底なしの優しさを持って、彼らの立場に立った支援をすること。 無理やり引きずり出すのではなく、彼らが「ここにいてもいいんだ」と、自分の存在を許せるような、そんな場所を作ること。


「……送信」


カチッ、という音が、冬の夜の静寂に響いた。 富子は画面を閉じ、部屋の電気を消した。


暗闇の中で、和俊の寝息が聞こえてくる。 マットレスのおかげで、背中の褥瘡も少しずつ癒え始めている。 世間は冷たい。けれど、この小さな部屋の、五分間の洗い物や、温かなスープや、訪問看護師さんの「お母さん、頑張ってるね」という一言が、富子の、そして和俊の「救援力」になっている。


「和俊。……おやすみ。明日も、また五分だけ、お皿を洗おうね」


富子は和俊の額をそっとなでた。 一陽来復。 一番暗い夜の底で、富子は静かに、けれど強く、愛する息子を守り抜く覚悟を新たにしていた。 軍隊の規律ではなく、愛という名の、静かな秩序を持って。


――完。


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引きこもりの息子に「やってはいけないこと」 @mai5000jp

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