第10話 『還らぬ保険料と、一枚の救い 〜「わけわかめ」な制度の果てに〜』

「――ケアマネさん。これ、どうにかならないの。和俊の背中、もう見てられないのよ」


富子は、震える手でスマートフォンの画面をケアマネジャーの櫻井に見せた。そこには、和俊の痩せた背中に深く、赤黒く口を開けた褥瘡(じょくそう)の写真があった。


部屋には、消毒液のツンとした匂いと、和俊が荒い息を吐きながら眠る、澱んだ空気が満ちている。春。外は桜が舞い、浮かれたような陽気だというのに、この家の中だけは、出口のない迷路のようだった。


「和俊、何度もOD(過剰服薬)して……。寝たきりになって、床ずれがこんなに深くなってしまったの。私が借りているあの高反発マットレス、和俊にも借りられませんか? 和俊だって、年金から介護保険料、天引きされてるのよ。払ってるじゃない。なのに、どうして……」


櫻井は申し訳なさそうに視線を落とし、手元のバインダーを固く握りしめた。


「……富子さん。お気持ちは痛いほど分かります。でも、和俊さんは四十八歳ですよね。介護保険が使えるのは原則六十五歳からなんです。和俊さんのような四十歳以上六十五歳未満の方の場合、特定の『十六種類の老化に伴う病気』でない限り、介護保険のサービスは受けられない決まりなんです……」


「老化……? 冗談じゃないわ」


富子の声が、台所の冷たいタイルに跳ね返った。


「自立支援で精神科の薬はもらえる。訪問看護師さんも来てくれる。でも、この『穴』の空いた背中を守るためのベッド一台、マットレス一枚、この制度は貸してくれないって言うの? 保険料だけは、和俊の雀の涙のような年金から、一円の容赦もなく毟り取っていくのに?」


富子は、和俊の通帳の、天引きされた一行を思い出した。 「わけわかめよ。本当、わけわかめ……。生活保護を受けて、切り詰めて、やっと暮らしている私たちからお金だけ取って、いざという時は『あなたは対象外です』なんて。和俊は、何のために保険料を払っているの?」


櫻井は何も言えなかった。制度という名の巨大な壁が、二人の間に立ちはだかっていた。


「……いいわ。もういい。制度に期待した私が馬鹿だった」


富子は、吐き捨てるように言うと、居間の古びたパソコンを開いた。 七十一歳の指先が、怒りに震えながらキーボードを叩く。『アマゾン マットレス 高反発』。


「……富子さん、それは自費になりますが……」


「分かってるわよ! 買えばいいんでしょ、買えば。和俊の背中が腐っていくのを、黙って見てろっていうの? 厚生年金と生活保護の、来月の食費を削ればいいだけの話よ」


カートに入れる、というボタンを、富子は親の仇を討つように強く叩いた。 カチッ、という無機質な音が、静かな部屋に空虚に響く。


数日後。大きな段ボールが届いた。 中から出てきたのは、ビニールの匂いが鼻を突く、新品のマットレスだった。 富子は和俊を起こさないよう、細心の注意を払って、彼の体の下にそのマットレスを滑り込ませた。


「……ん、母さん……?」


「いいから、寝てなさい。これ、いいやつだから。背中、痛くないからね」


和俊の体が、沈み込むようにマットレスに預けられる。 富子は、自分の要介護1の体で、必死に彼の巨体を支え、位置を整えた。 汗が額を伝い、腰に鈍い痛みが走る。


「……柔らかい。……母さん、これ、いいよ」


和俊の掠れた声。その一言に、富子の張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。 制度は助けてくれなかった。介護保険は、お金を取る時だけ家族になり、助けを求める時は赤の他人になった。けれど、アマゾンから届いたこの一枚のスポンジの塊だけが、今、和俊の背中を、この家の絶望を、辛うじて支えてくれている。


「……そう。よかったわね。和俊」


富子は、和俊の細い手を握りしめた。 自立支援も、介護保険も、生活保護も、全部がパズルのように噛み合わず、隙間から和俊がこぼれ落ちそうになる。 けれど、この五分間だけは。マットレスの上の静寂だけは、誰にも奪わせない。


窓の外では、春の嵐が吹き荒れている。 富子は、暗い部屋の中で、自分たちを「救わない」世界を静かに見つめ返した。 「一陽来復なんて、嘘っぱちね。……でも、このマットレスだけは、和俊の味方よ」


富子の「心のコップ」は、怒りと悲しみで泥水のようだった。 けれど、和俊の穏やかな寝息を聞きながら、彼女はその泥水を、じっと見つめていた。 いつか、この泥が沈み、また透き通る日が来るまで。 七十一歳の母親は、日陰のインパチェンスのように、静かに、強く、そこに根を張るしかなかった。


――完。


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