第9話 『日陰のインパチェンス 〜五分間の大冒険と、一陽来復の影〜』

窓の向こうで、冬至の低い太陽がじりじりと西の空を焼いている。


富子は、キッチンのタイルの上に立って、庭に咲く冬のパンジーを見つめていた。光を浴びて、紫の花びらが誇らしげに胸を張っている。 (私は、あそこに行きたい。あの光の中にいたい) 七十一歳の体には、まだ外の風を吸い込みたいという、乾いた渇望がある。


背後から、ずるり、と重たい足音が聞こえた。 和俊だ。四十八歳になった息子は、今日も遮光カーテンで閉ざされた部屋の主だった。中学一年のあの冬、心に深い傷を負ってから、彼の時間は止まったまま、ひどい濁流のような病に飲まれてしまった。


「……母さん、眩しい」


和俊の声は、湿った土の底から響くような、重く粘り気のある響きだ。 和俊は窓を睨むようにして、手で目を覆った。彼の肌は透けるように白く、浮き出た血管が青い網目のように走っている。


「ごめんね、和俊。でも、もうすぐお日様も沈むから」


智恵子はカーテンを少しだけ引いた。 和俊は、強度行動障害のような、激しい衝動に駆られることがある。壁を叩き、自分を責め、獣のような声を上げてのたうち回る。そうなった時の彼は、富子の愛する息子ではなく、得体の知れない「苦しみの塊」そのものに見えた。


「和俊……これ、洗ってくれる?」


智恵子は、流しに置かれた数枚の皿を指差した。 訪問看護師の言葉が、耳の奥でリフレインする。 『お母さんにとって和俊さんのいい状態と、和俊さんの病気の安定とは違うかもしれないですよ』


富子にとっての「いい状態」は、彼が外に出て、太陽を浴びて、元気に働くことだった。けれど、和俊にとっての「安定」は、この薄暗い部屋で、刺激のない凪のような時間を守ることなのかもしれない。


「……洗い物?」


「そう。お母さん、少し腰が痛くて。……五分で終わるわ」


和俊は、躊躇いながらも一歩、光から逃げるようにシンクの前に立った。 蛇口をひねると、冷たい水が跳ね返り、和俊のシャツを濡らした。


「……ううっ」


「大丈夫、お湯に切り替えて。ゆっくりでいいのよ」


和俊の指先が、スポンジを掴む。 彼は、まるで壊れやすい宝物を扱うように、皿の汚れをなぞり始めた。 彼の集中力は、長くは持たない。五分。それが彼にとっての「大冒険」の限界だ。 外が好きで、インパチェンスのようにはなやぎを好む富子とは、根っこが違う。和俊は、暗い日陰を好むシダ植物か、光を浴びると萎れてしまう繊細なインパチェンスの変種のようだった。


「……母さん。……外、行ってきたのか」


「ええ、買い物ついでに少しだけ。……空が綺麗だったわよ」


和俊の動きが止まった。 「……俺には、毒だ。あの光は、強すぎる。目が潰れるんだ」


「……そう。……ごめんね、無理に誘って」


富子は、隣で和俊の濡れた袖をそっと捲り上げた。 彼の腕は、筋肉が落ちて細い。けれど、皿を洗うその手つきは、どこまでも丁寧だった。 智恵子は、彼が洗った皿を布で拭きながら、その「ゆっくりとした時間」の中に、自分の意識を沈めてみた。


(ああ、そうか。私はいつも、彼を自分の『光』の中に引っ張り出そうとしていたんだわ)


和俊にとって、五分間シンクに立って皿を洗うことは、富子がエベレストに登るほどの重労働なのかもしれない。 外の光を愛する自分と、影の中にしか居場所のない息子。 インパチェンスは日向では数分で萎れてしまう。けれど、木漏れ日の下なら、あんなに美しい花を咲かせる。


「……終わった。……もう、いいか」


和俊が、肩を激しく上下させながら、最後の一枚を置いた。 彼の額には、冷や汗がにじんでいる。たった五分の家事で、彼は魂を削り取ったような顔をしていた。


「ありがとう、和俊。……お疲れ様。あとの一陽来復(いちようらいふく)の準備は、お母さんがやるから」


「……いちよう、らいふく……?」


「冬が終わって、春が来るっていう意味よ。……でもね、和俊。春が来ても、あなたは影の中にいていいのよ。無理に太陽の下に出なくていい。……お母さんが、影の中に、美味しいスープを持っていくから」


和俊は、何も言わずに部屋へ戻っていった。 バタン、という静かなドアの音。


富子は、和俊が洗った皿を、食器棚の奥へと片付けた。 窓の外は、もう藍色に沈んでいる。 富子はあえて、電気をつけなかった。 和俊が守ろうとしている、この静かな、刺激のない、暗い凪の時間。 その心地よさを、富子も少しだけ、自分の「心のコップ」に注いでみた。


「……暗いのも、悪くないわね」


独り言が、冷たい空気の中に溶けていく。 富子は知った。 彼を「治す」ことよりも、彼の「日陰」を認めて、そこに一緒に座ること。 それが、七十一歳の自分にできる、最高に贅沢な「救援力」なのだと。


冬至の夜。 暗闇の中で、親子の異なる命の呼吸が、静かに、けれど確かに、重なり合っていた。


――完。


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