第8話 『泡の温もり 〜「やってはいけない」の向こう側〜』
夕闇が台所の窓にへばりつき、換気扇の低いうなりだけが、狭いリビングに響いていた。
智恵子は、シンクの前に立ち尽くした。目の前には、二人分とは思えないほどの食器の山がある。油でぎとついたフライパン、カピカピに乾いた納豆の鉢、そして、息子・悠真が昼間に自室で使ったであろう、ソースの跡が痛々しい皿。
「……はぁ」
智恵子の口から、湿ったため息がこぼれた。 この三年間、智恵子が自分に課してきた「やってはいけないことリスト」が、頭の中で古びたカレンダーのようにめくれる。
一、無理に部屋から出そうとしない。 二、説教をしない。 三、そして――彼が自分でやろうとしない限り、家事を手伝わせない。
それは、カウンセラーに言われた言葉だった。「彼に罪悪感を持たせないことが、回復への近道です」と。 けれど、今夜の智恵子は、何かが限界だった。足の裏から伝わる床の冷たさや、手にこびりついた洗剤のヌルつきが、耐えがたいほどの重荷に感じられた。
背後で、パタパタとスリッパの音がした。 冷蔵庫を開ける音。ペットボトルを掴む音。悠真だ。 智恵子は振り向かなかった。振り向けば、ひげ面の、覇気のない二十三歳の顔を見て、また何か「正論」をぶつけてしまいそうだったから。
「……ねえ」
気づけば、声が出ていた。
「悠真。これ、洗ってくれる?」
空気が凍りついた。 悠真の動きが止まる。智恵子の心臓が、耳元でドクドクと警鐘を鳴らす。 (やってしまった。追い詰めてはいけないのに。彼を壊してしまうかもしれないのに)
「……俺が?」
低く、掠れた声。三年間の沈黙を凝縮したような、棘のある響き。
「そう、あなたが。お母さん、もう指先が痛くて動かないの」
智恵子は嘘をついた。本当はまだ動く。けれど、心の一部が、もう「完璧な母親」を演じることに飽き飽きしていた。 智恵子は手に持っていたスポンジを、無理やり悠真の手に握らせた。 彼の指は驚くほど白く、細かった。日光に当たらない生活が透けて見えるような、不健康な白さ。
「……やり方、忘れた」
「忘れるわけないでしょ。蛇口をひねって、お湯を出して。……ほら」
悠真は、戸惑いながらもシンクの前に立った。 ジャー、という水の音が、静かな台所に爆音のように響く。
「熱っ……」
「四十二度にしてあるから。油汚れは、その温度じゃないと落ちないのよ」
悠真が、おずおずとフライパンにスポンジを当てた。 シュルシュルと、洗剤の泡が茶色の油を包み込んでいく。 智恵子は隣で、彼が洗った皿を拭く役割に回った。
「……もっと力を入れて。そこ、焦げ付いてるから」
「わかってるよ。……うるさいな」
反抗的な言葉。けれど、その指先は必死に鉄の肌をこすっている。 ゴシゴシ、という硬い音が、二人の間の沈黙を埋めていった。 立ち上る湯気が、悠真の頬を赤く染める。 智恵子の鼻腔を突くのは、レモンの香料が混じった洗剤の匂いと、長い間部屋にこもっていた、埃っぽい息子の匂い。
「……重いんだな、これ」
悠真が、重厚な鉄のフライパンを掲げて呟いた。
「そうよ。毎日、それを持って振ってるんだから」
「ふーん……」
悠真は、それ以上何も言わなかった。 ただ、一枚、また一枚と、汚れを落とし、水で流していく。 蛇口から流れ落ちる水の透明さが、蛍光灯の下で真珠のように輝いた。 智恵子は、差し出された濡れた皿を、乾いた布で受け止める。 キュッ、という小気味よい音。 それは、三年間、家の中に溜まっていた「淀み」が、少しずつ流されていく音のようにも聞こえた。
最後の一枚を洗い終えたとき、悠真の服の袖はびしょ濡れになっていた。
「……終わったぞ」
彼は、赤くなった自分の手を見つめていた。 ふやけた指先。爪の間に入り込んだ石鹸カス。 それは、三年間、何の役割も持たなかった彼の手に宿った、小さな「生活の証」だった。
「ありがとう。……助かったわ」
智恵子がそう言うと、悠真はふいっと目を逸らした。 けれど、部屋に戻ろうとする彼の背中は、さっきより少しだけ、重心が低く、地に足がついているように見えた。
「……明日も、やっていい?」
ドアの取っ手に手をかけたまま、悠真がボソリと言った。 智恵子の胸の奥が、熱い湯気に包まれたように震えた。
「……やってはいけないこと」を、壊してしまった。 けれど、壊した破片の隙間から、ずっと求めていた「生身の息子」の体温が漏れ出してきた。
「ええ。お願いするわ」
智恵子は、再び蛇口をひねり、自分のお茶を淹れるために湯を沸かした。 シュンシュンと鳴るケトルの音。 台所を漂うのは、汚れが落ちたあとの、清々しい空気。 智恵子の「心のコップ」は、もう溢れることはなかった。 そこには、新しく、温かな、未来への予感が一滴、また一滴と注がれ始めていた。
「……明日も、来るかな」
「……来るだろ。洗い物、あるんだから」
壁越しに聞こえたその声は、もう独り言ではなかった。 冬の夜の静寂の中に、親子の、新しい呼吸の音が重なり合っていた。
――完。
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