第7話 年金日の匂い
年金日の匂い
その朝、文子はポストのふたを開けた瞬間、冬の冷気より先に、紙の匂いを吸い込んだ。
インクと封筒と、どこか古い制度の匂い。
「……今日は、年金の日」
言葉は玄関に落ちて、誰にも拾われずに消えた。
廊下の奥、カーテンを閉め切った部屋が、今日も息をひそめている。そこにいるのは、48歳の息子だ。
文子は足音を抜いて台所へ行った。
蛇口の水が金属に当たる音が、やけに大きい。
「……うるさいかな」
独り言みたいに呟き、火を弱める。
テーブルの上には、三つの封筒。
年金の通知。
生活保護の支給明細。
家賃の引き落とし予定。
医療費の請求書は、ない。
訪問看護も、通院も、自立支援と公費でまかなわれている。
それでも、封筒は軽くならない。
軽いのは、紙だけだ。
「……足りる、はず」
文子はそう言ってみる。
自分に向かって。
*
昼前、インターホンが鳴った。
訪問看護師の鈴木さんだ。
「こんにちは。寒いですね」
「……寒いですね。財布も」
文子が笑おうとして、途中でやめる。
鈴木さんは、笑わずに頷いた。
「年金日ですね」
「ええ。私のと、息子のと……あと、足りない分は、生活保護で」
「ちゃんと、使える制度を使ってます。それでいいんですよ」
“それでいい”
その言葉が、今日は胸に残った。
息子の部屋の前。
「○○さん、鈴木です。入っていい?」
沈黙。
文子は息を止める。
「……いい」
かすれた声。
扉が開く日は、うれしいより先に怖い。
鈴木さんが入っていく間、文子は廊下で待った。
壁紙の模様を数えながら、自分の不安が漏れないように。
部屋の中から、息子の声。
「……外、うるさい」
「うん。じゃあ、静かにしよう」
カーテンを引く音。
それだけで、世界が一段、弱まる。
しばらくして鈴木さんが出てきた。
「今日は、呼吸が落ち着いてました」
「……それが、いい日なんですね」
「はい。とても」
文子は頷いた。
“生きている”の基準が、ここまで下がった世界に、まだ慣れない。
*
午後。
文子は封筒からお金を分けた。
家賃。
光熱費。
食費。
医療費の欄は、最初から空白だ。
それでも、ペン先が紙をこする音は、骨に響く。
封筒が薄くなるたび、背中が丸くなる。
「……これで、今月は」
計算機の音を、手で覆う。
音を消しても、現実は消えない。
夕方、湯のみを二つ、息子の部屋の前に置いた。
麦茶の匂いが、ほんの少し、夏を思い出させる。
「お茶、置いとくね」
「……」
「飲まなくてもいいから」
少しして、畳が鳴った。
文子は呼吸を止める。
「母さん」
「なに」
「……年金、入った?」
喉が詰まる。
「入ったよ」
「……足りる?」
文子は、正直に言いそうになった。
でも、数字は刃になる。
「……制度があるから、大丈夫」
息子は鼻で笑った。
「制度って、母さんの背中に乗ってるやつだろ」
「……乗ってない。分け合ってる」
息子は湯のみを持った。
底が畳に当たる、小さな音。
「俺さ」
「うん」
「……俺がいなければ、もっと楽だった?」
背中に冷たい汗。
「楽じゃない」
「……即答」
「それだけは、即答できる」
息子は目を伏せた。
「でも、俺、何も生み出してない」
正論が喉まで来る。
文子は、飲み込む。
「今日、お茶を飲みに出てきた」
「……それが?」
「それが、私には十分」
息子の喉が動いた。
「……基準、低すぎ」
「うん。低くていい」
*
夜。
新聞の切り抜きが、引き出しから出てくる。
「8050」
太い字。
他人事だった言葉。
「……うちのことだ」
文子は折りたたんで、しまった。
泣く代わりに、息を整える。
息子の部屋から、物音。
「大丈夫?」
「……大丈夫じゃない」
文子はドアの前に座り込む。
床の冷たさが、現実を教える。
「母さん」
「なに」
「……親が死んだら、俺、終わりだと思ってた」
言葉が、重い。
「……怖いね」
「怖い」
「うん。だから、外の手を借りよう」
「……怒らない?」
「怒らない」
「……市役所とか?」
「うん。支援センターとか。鈴木さんにも」
沈黙。
息子の呼吸が、細く続く。
「母さん」
「なに」
「……助けてって、言っていい?」
文子の目から、涙が落ちた。
これは、背負わせる涙じゃない。
「いいよ」
「……じゃあさ」
「うん」
「今日、生きてるだけで、疲れた」
文子は目を閉じた。
「うん。それで、今日は合格」
*
朝。
返事のない「おはよう」。
それでも洗濯機を回す。
水の音が、今日は少しやさしい。
窓を、指一本分だけ開ける。
光が床に細く落ちる。
「……年金だけじゃ、無理なこともある。母さん一人じゃ、無理なこともある」
だから。
「……外の手を借りる。今日も」
ドアの向こうで、布団が擦れる音がした。
小さな音。
でも、確かに、前に進む音だった。
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