第6話 閉じた扉の向こうで

閉じた扉の向こうで


「……また、督促……」


 ポストの中の白い封筒は、紙なのに鉛みたいに重かった。冬の廊下は冷たく、スリッパ越しに足の裏がきゅっと縮む。文子は鍵を回しながら、わざと息を小さくした。音が、針みたいに刺さる日があるから。


「……おはよう」


 返事はない。カーテンを閉め切った部屋の前で、空気が止まる。ドアの向こうは、別の季節みたいに暗い。


「牛乳……冷蔵庫にあるよ。……飲めそうだったら」


 文子は言い終える前に、飲み込んだ。“言い方”が、いつも遅れる。遅れた分だけ、取り返したくなるのに。


 台所で湯を沸かす。やかんが鳴って、ピーッと鋭く鳴き、胸の奥がびくっと跳ねる。文子は火を弱めながら、独り言のように謝った。


「うるさかった……ごめん」


 誰に。息子に。自分に。部屋という部屋に。


 テーブルの上に、家賃滞納の紙。赤い文字。期日。数字。重ねた紙の角が、冬の乾いた空気で少し反っている。


「ねぇ……」


 文子は、ドアに向かって言ってしまう。言ってはいけないのに、言ってしまう。


「今月は、どうする? ……このままだと……追い出されるよ」


 沈黙が、薄い壁を通って戻ってくる。文子は言葉を足したくなって、喉の奥が熱くなる。


「働けとは言わない。外に出ろとも言わない。だけど、何か……何かして……」


 言葉が勝手に増える。一般論が、正義の顔で並び始める。


「世の中ってね、みんな、つらいの。母さんだって——」


 そこで、ドアの向こうから、布団が擦れる音がした。かすかな衣擦れが、火花のように耳に刺さる。


「……やめて」


 息子の声は小さく、けれど鋭かった。


「母さんの“みんな”を、俺に押しつけないで」


「押しつけてない……! ただ、心配で……」


「心配で言うなら、言わないで」


 文子は言い返しそうになって、台所の流しに指を食い込ませた。冷たいステンレスが、指先の熱を持っていく。


「……わかった。……言わない」


 でも、心臓だけは言い続ける。「このままじゃ、先が見えない」と。


 *


 それからの日々は、音がやけに大きかった。郵便受けが鳴る音、隣の部屋のドアが閉まる音、冷蔵庫のモーターのうなり。文子はそれらを、息子の耳の痛みだと思って、全部小さくしようとした。テレビの音量を下げ、換気扇を止め、足音を忍ばせる。


 だけど、家賃の紙だけは小さくできない。


 ある日、ドアの外に立つ男の靴が、やけに新しく光って見えた。革の匂いが鼻を突き、文子の喉が乾く。


「退去の手続きになります。お荷物は——」


「待ってください……! 息子が……」


 文子が言い終える前に、息子の部屋から「うるさい!」と叫ぶ声が飛んだ。乾いた怒りが、壁を突き抜ける。


「ここは俺の部屋だ! 出てけ!」


 男は困ったように目を逸らし、文子は頭を下げ続けた。額の骨が痛くなるほど、何度も。


 引っ越しの段ボールは、紙の匂いがした。ガムテープのべたつき。畳に残る粘着の音。息子の部屋のカーテンは最後まで閉じたまま。文子は、段ボールに「衣類」「食器」と書きながら、心の中で何度も同じ字を書いた。


「ごめんね」


 誰に。息子に。生活に。自分の知らなさに。


 *


 追い出されたあと、息子は折れた木の枝みたいに静かになった。静かさが怖かった。何も起きない時間が、いつ壊れるかわからない薄氷みたいで。


 夜、息子が小さく言った。


「母さん……病院、行く」


 文子は息を止めた。


「……行くの? 本当に?」


「……俺が望む。もう……無理」


 その言葉に、文子の胸がぎゅっと縮んだ。喜んじゃいけない。安心しちゃいけない。でも、光が一瞬だけ差した気がして、涙が喉に溜まった。


「わかった。……一緒に行こう」


 病院の廊下は、消毒液の匂いがした。白い光が眩しくて、天井の蛍光灯のジジジ…という音が、文子の頭の中で膨らむ。息子はフードを深く被って、目だけを床に落としていた。


「医療保護入院で、しばらく——」


 医師の言葉が、ガラス越しに聞こえた。文子は頷いた。頷きながら、胸の奥で何かが冷えていくのを感じた。“これで助かる”という期待と、“閉じ込める”という恐怖が同じ形をしていて、区別がつかなかった。


 入院が決まった。息子はサインをした。自分で、望んで。


 それなのに——


 夕方。病棟の扉が閉まった瞬間だった。金属の「カチャ」という音が、息子の背中を叩くみたいに響いた。


「……出せ」


 声が低く、ざらついた。


「○○くん、落ち着こう。ここは安全——」


「出せ!!」


 息子は突然、廊下の壁を拳で叩いた。ガン、と乾いた音。もう一度。ガン。白い壁が震えるみたいで、文子の視界が揺れた。


「人権はどうなってるんだ!! おい!! 鍵を開けろ!!」


 看護師が数人、距離を取って近づく。靴底が床を擦る音。無線のかすれた声。息子の息が荒くなり、目がぎらぎらと光った。


「母さん! 母さん、言えよ! 俺を出せって! 俺は閉じ込められるのは——」


 言葉が切れて、息子の肩が震えた。文子はその震えの意味を、やっと“恐怖”だと理解した。怒りじゃない。わがままじゃない。狭さと閉鎖が、皮膚の内側から彼を焼いている。


 文子の喉が、凍った。


「……ごめん……ごめんね……」


 息子が叫ぶ。


「謝るな! 謝るなら、最初から——」


 そこまで言って、息子は息を詰めた。目が泳いで、空気を探すみたいに口が開く。


 文子の胸に、言葉が溢れた。「生んだことが間違いだったのか」と、何度も何度も自分を殴ってきた言葉が。


 でも、その瞬間、文子は気づいた。これは母の罪じゃなく、息子の“反応”だ。拘禁反応。閉鎖に対する、体が起こす悲鳴。いちばん苦しいのは——彼だ。


 文子は、床の冷たさが膝に染みるのも構わず、その場にしゃがんだ。視線を下げ、声を小さくする。息子に刃を向けない速度で。


「○○、ここ、怖いんだね」


 息子が一瞬、言葉を失う。怒りの熱の隙間に、息が落ちる。


「……怖い……」


 かすれた声。泣く寸前の声だった。


「閉じられるのが、怖いんだね」


「……うるさい……」


「うん。うるさかったね。ごめん。……でも、母さん、今、ここにいる」


 看護師が、少し距離を保ったまま頷いた。誰かが、刺激を減らすように周囲を静かにした。足音が消える。無線が止まる。空気が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


 息子が唇を噛み、声を絞った。


「母さん、俺……生きるの、疲れた」


 その一言は、叫びより重かった。文子は涙が出そうになって、でも、泣かなかった。泣くと息子が背負うから。


「……うん」


「……母さん、怒らない?」


「怒らない」


「……俺、望んで入ったのに……扉の音で……頭が——」


「うん。身体がびっくりしたんだね。怖かったんだね」


 息子は、ようやく壁から手を離した。拳が赤い。文子はその赤さを見て、胸が痛んだ。痛みは、叱責になりそうになる。文子は痛みのまま、息を吐いた。


「……母さん、知らなかった。強度行動障害のことも……拘禁反応のことも……」


 息子が、ほんの少しだけ首を振った。


「知らないのが悪いんじゃない……でも、説教は……やめてほしい」


 文子は頷いた。喉の奥が、熱い。


「うん。やめる。……“良かれと思って言葉を足す”の、やめる」


 息子の肩が、ふっと落ちた。怒りが消えたわけじゃない。でも、息子は息を吸えるようになった。


 文子は、掌を握りしめる。爪が食い込む痛みで、今ここにいると確かめる。


「……今日さ」


 息子が言った。


「今日、生きてるだけで、疲れた」


 文子は、息子の目を見た。ほんの一瞬だけ。


「……うん。それだけで、今日は合格だよ」


 息子は鼻で笑ったのか、泣きかけたのか、判別できない表情をした。


「……母さん、変なこと言う」


「うん。変でもいい。……今、ここにいる。あなたも、息をしてる」


 病棟の窓の外は、冬の空が薄く青い。ガラス越しの光が、床に細い線を引いていた。文子はその線を見て、心の中で呟いた。


(知らなかった。だから、失敗した。だけど、今は——知った。知ったから、次は、少し違う)


 息子が小さく言う。


「……母さん」


「なに」


「……今日は、帰らないで」


 文子は頷いた。椅子に座り直すと、背中に冷たい空気が触れた。冷たいのに、確かに現実の温度だった。


「帰らない。……ここにいる」


 息子は目を閉じた。呼吸が、少しだけ整った。


 文子は、もう説教しない代わりに、ただ、息子の呼吸の回数に自分の呼吸を合わせた。

 閉じた扉の向こうで、世界はまだ怖い。

 それでも——今日だけは、ここにいる。


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