第5話 引きこもりの息子に「やってはいけないこと」

引きこもりの息子に「やってはいけないこと」


――それでも、今日は生きている――


 


「……おはよう」


 文子は、できるだけ声を小さくして言った。

 朝の光はもう十分に明るいのに、廊下は薄暗い。

 カーテンを閉め切ったままの部屋が、一つ、息をひそめている。


 返事はない。


 わかっている。

 返事がないことは、拒絶じゃない。

 まだ、世界に触れられないだけ。


「牛乳、冷蔵庫にあるよ」


 独り言みたいに言って、文子は台所へ戻る。

 やかんが鳴る。

 ピーッという音が、少し大きすぎて胸がざわつく。


「うるさかったかな……」


 誰にともなく謝る。


 


 息子は、強度行動障害がある。

 精神障害者年金2級。

 通院は月に一度。

 訪問看護は週に三回。


 それを説明しなくていい人になりたい、と文子は思っている。


 


 昼前。

 訪問看護師の鈴木さんが来る日だ。


「こんにちはー」


 明るすぎない声。

 靴をそろえる音が、丁寧。


「今日はどうですか」


「……昨日よりは」


 文子は、そう答えるしかない。


「昨日より“は”、ですね」


 鈴木さんは笑う。

 この笑いに、何度救われただろう。


 


 息子の部屋の前。


「○○くん、鈴木です。入っていい?」


 少しの沈黙。


「……いい」


 かすれた声。


 文子は、その一言で、胸がきゅっとなる。

 今日は扉が開く日だ。


 


 午後。

 看護師が帰ったあと、家はまた静かになる。


 文子は、言いたくなる。


「今日は顔色いいね」

「昨日よりマシだね」

「そろそろ外、出てみる?」

「このままで大丈夫なの?」


 ――全部、やってはいけないことだと知っている。


 だから、言わない。


 代わりに、湯のみを二つ、テーブルに置く。


「お茶、置いとくね」


「……」


「飲まなくてもいいから」


 息子は、布団に座ったまま、うつむいている。

 肩が、少しだけ揺れている。


「母さん」


「なに」


「……何も言わないで」


 その言葉が、刃みたいに胸に刺さる。


「……うん」


 文子は、ただ頷く。


 やってはいけないこと。

 “良かれと思って、言葉を足すこと”。


 


 夜。


 テレビの音を小さくする。

 換気扇を止める。

 足音を忍ばせる。


 文子は、ふと呟きそうになる。


「このままじゃ、先が見えない」


 その瞬間、台所の流しに手をついて、飲み込む。


 やってはいけないこと。

 “親の不安を、子どもに背負わせること”。


 


 深夜。

 息子の部屋から、物音。


 ガタン。


 文子の心臓が跳ねる。


「大丈夫?」


 声が震える。


「……大丈夫じゃない」


 文子は、ドアの前に座り込む。


「そっか」


「……」


「今、話せる?」


「……無理」


「そっか」


 それ以上、言わない。


 やってはいけないこと。

 “今すぐ答えを出させようとすること”。


 


 しばらくして。


「母さん」


「なに」


「……怒らない?」


 文子は、息を吸う。


「怒らない」


「……今日、生きてるだけで、疲れた」


 その言葉に、涙が出そうになる。


 でも、泣かない。


「うん」


「……それだけ言いたかった」


「言ってくれて、ありがとう」


 


 朝が来る。


 また返事のない「おはよう」。


 それでも、文子はコップを洗う。

 洗濯物を干す。

 訪問看護の予定を確認する。


 


 文子は知っている。


 引きこもりの息子に、

 やってはいけないことはたくさんある。


 でも、

 やらなければいけないことは、たった一つ。


 ――今日も、ここにいること。


 息子が息をしている。

 自分も、息をしている。


 それだけで、今日は合格だ。


 文子は、そっとカーテンを少しだけ開けた。

 光が、床に細く落ちる。


「……今日は、これでいい」


 誰にともなく、そう言って、文子は静かに椅子に座った。


***


強度行動障害とは、自分の体を傷つける「自傷」や、他人を叩く・物を壊すといった「加害行為」などが非常に高い頻度で発生し、現在の家庭生活や社会生活において著しい困難を伴う状態を指します。


医学的な診断名(病名)ではなく、特定の行動によって**周囲の支援が非常に困難になっている「状態」**を示す言葉です。


1. 主な行動の例

自傷行為: 自分の頭を壁に打ち付ける、自分の手を噛む。


他害行為: 周囲の人を叩く、髪を引っ張る、噛みつく。


破壊行為: 家具を壊す、衣服を破く、窓ガラスを割る。


その他: 激しいパニック、睡眠障害、異食(食べられないものを食べる)、多動など。


2. なぜこのような行動が起きるのか

強度行動障害は、本人の「わがまま」や「性格」ではなく、主に以下の要因が重なって起こると考えられています。


コミュニケーションの困難さ: 自分の気持ち(「嫌だ」「疲れた」「これが欲しい」など)を言葉で伝えられないストレスが、激しい行動として表れます。


感覚の過敏・鈍麻: 音や光、接触に対して異常に敏感だったり、逆に痛みを感じにくかったりすることで、パニックを引き起こします。


環境への不適応: 急な予定変更や、自分のこだわりが邪魔されることへの強い不安。


3. 支援の考え方

力で抑え込んだり、罰を与えたりすることは逆効果であり、本人の苦痛を増大させます。現在の支援現場では、以下のようなアプローチが重要視されています。


環境調整: 視覚的に分かりやすいスケジュール表を使ったり、静かな個室を用意したりして、本人が安心して過ごせる環境を作ります。


代替コミュニケーション: 言語の代わりに絵カードやタブレットを使い、自分の意思を伝えられる手段を増やします。


構造化: 「いつ・どこで・何を・どのくらい・どのように」やるかを明確にし、見通しを持てるようにします。


現在、日本各地で専門的な研修を受けた支援者の育成や、受け入れ施設の拡充が進められていますが、家族の負担は依然として大きく、社会全体での理解とサポートが求められています。


この分野の専門的なケア方法や、自治体で受けられるサポート制度について詳しくお調べしましょうか?


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