第8話 意志がほどける午後

午後の光は、少しだけ斜めだ。

窓から入るそれは、朝ほど清潔ではなく、夜ほど重くもない。

中途半端で、だから安心できる。


私はソファの端に座っている。

前足をきちんと揃え、背中を丸めすぎない。

犬として「落ち着いている」姿勢。

この身体は、均衡を好む。


美咲はテーブルに向かい、何かを書いている。

企画書のようでもあり、日記のようでもある。

文字は途中で止まり、しばらく動かない。

考えているのか、考えるふりをしているのかは分からない。


私は耳を動かす。

遠くで車の音。

近くで、紙が擦れる音。

世界は常に、大小の刺激を投げてくる。

犬はそれを選別しない。

すべてを受け取る。


生前、私は意志を盲目的だと呼んだ。

目的も理由もなく、ただ欲する力。

だが今、この身体で感じる意志は、少し様子が違う。

欲する前に、もう満ちている。


私は床に降り、ゆっくり歩く。

爪が鳴る。

自分の音だと分かる。

それだけで、安心する。


美咲がこちらを見る。

何も言わない。

私は視線を返し、軽く首を振る。

それ以上の意味はない。


自由とは、理解されることではない。

誤解されることですらない。

ただ、過剰に意味づけされない状態のことかもしれない。


私は再びソファに戻る。

丸くなり、呼吸を整える。

光は少しずつ移動している。


この午後に、名前はない。

評価もない。

ただ、続いている。

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