第3話 夢の跡 柚月葉波
更年期を目の前にして、若いアイドルに夢中になった。彼を追いかけるようになって、何故か自分の気持ちが前向きになった。思春期の子育てに必死で、いつも眉間にシワを寄せていた自分では考えもしなかったこと。「やりたいこと」を妄想するようにまでなった。
夢というほど大げさではないが、カフェの店員になるといういつの頃からか芽生えた妄想は、自分が魅力的な女性でいなければいけないという思いにも繋がった。若いアイドルを追っかけたところで、所詮こんなおばさんは相手にされる筈も無いのだから、若者のトレンドを知って若ぶってるに過ぎない。だが、推しを持つことで自分にエネルギーが湧いてきたのは確かだ。
ある時、ひょんなことから、週に4回喫茶店でパートをすることになった。散歩途中で見つけた可愛いお店。理想通りとはいかないものの、決まったお客様がゆっくりと時を過ごすその店は居心地が良かった。
サイフォンで美味しく淹れるコツもすぐに覚えた。この店は殆どが常連客で成り立っているので、その人達の好みを覚えるのが一番の仕事と言えた。
そんな中で水曜と金曜の10時に必ず来るカズマさんという人とは特に話があった。水曜日に出勤すると、すぐにカズマさんがいつも座るカウンター席に好きそうな雑誌をおいた。「お、今週の新刊、これゆずっちゃんが用意しておいてくれたの?」カズマさんは私の名前の結月をもじって「ゆずっちゃん」と呼んだ。そして水曜日発売の雑誌を嬉しそうに眺め、珈琲より先に出てくるナッツを受け取って私の顔を見て微笑んだ。
週に2回カウンター越しに1時間ほど大して内容のない話をして「またね」と帰っていくその人を、待つようになるまで長くは掛からなかった。
カズマさんは幾つだろう。少しだけ年上のようでもあり、10歳位上なのではないかと思う時もあった。彼との会話では、家族のことを言わないようにした。誰かの奥さん、誰かのお母さんではない自分でいられる、唯一の時間だったから。
見に行きたい絵画展の話、おじさんロッカーのライブの話、行ったことのない高級レストランの話、どんな話をしてもカズマさんは調子を合わせるだけではなく、嫌味にならない程度の知識を私に教えてくれた。
金曜日はランチタイム過ぎの14時までのシフトだったので、彼が好きそうなメニューをマダムに提案して、作る手伝いもやるようになった。カズマさんに金曜日は自分がランチを作るので食べに来てください、と言ってみると、いつもの時間を1時間遅らせて来てくれるようになった。私が作ったランチをおいしそうに食べて、食後の珈琲は格別だと喜んで帰った。
水曜日の仕事終わりに、マダムに金曜日のランチメニューのアイデアのメモを渡すのも習慣となり、マダムも喜んでくれた。
ある日、私はアイドルの推しが居ることを彼に話した。そうするようになってエネルギーが湧いて新しい仕事に挑戦もできたと。
カズマさんは、ちょっと眉を上げて驚いたようなおどけたような顔をして
「おやおや、やはり生きの良い若い男が好みなんですね」
と笑った。
「そうではないけど」
予想してなかった答えに戸惑って
「若い男の子を可愛いと思う自分はもう若くないからですよね」
と笑って返すと
「実は俺も、女房には内緒だけど、いまだにマッチングアプリを解除してないんですよ。もうマッチングすることは無いと思ってるけど、そこに登録をしている女の子たちを見るだけで元気がでるからね」
と、へへへと笑った。
私はこめかみに冷たいモノが流れるような感覚を覚え、気がつくと、カウンター越しに「スケベオヤジ」と声を上げていた。
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