第二話
湯けむりの中でそびえ立つ富士山の壁画に見下ろされ、私は湯をすくい取った。裸足を濡らして湯船の状態を確認する私の手は、未だこわばって震えている。
お婆ちゃん達が入浴している状況には慣れていたが、私のすぐそばで美人なお姉さん達がありのままの姿をさらけ出していると考えると、柄になく緊張してしまう。
「番台さ〜ん、少しいいかな?」
測定器から排水溝に湯を捨てた私は、背後から声を掛けられた。凛々しく透き通った声質から、赤いコートの鳴美さんだろう。
「は〜い!ただいま〜!」
「忙しいところ、すまない。背中を流して貰ってもかまわないだろうか?」
「はいっ!よろこんで流させていただきます!」
「すまない、頼むよ」
意気ごんで柔らかめのタオルを手に取ったはいいが、私のような人間が麗しい彼女の肌に触れてよいのだろうか。とてもおこがましいような気がするが、勇気をだして私はボディソープを泡立て始めた。
触れれば崩れていってしまいそうなほど美しい背中に、まずはぬるめのお湯をかけて伸ばした。すべりが良くなってきたと感じた時、手元の泡を優しく当てる。鳴美さんが痛がっていないのを確認して、肩甲骨の部分から腰までゆっくりと撫でていった。
「ど、どうでしょうか」
「ああ、気持ちいいよ」
普段は年寄りの肌しか触らないせいか、彼女の身体が寒天で構成されていると錯覚してしまうほど心地よい。洗い方もお気に召されたようで、嬉しくなった私は夢中で目の前の背中を撫でた。
余分な垢や老廃物が落ちた頃合いで鳴美さんの反応を知りたくなった私は、鏡越しに彼女の表情を確認しようと覗き込む。鏡は湯気で結露しており、はっきりと全貌は見えない。なんとしてでも表情をこの目に焼き付けたかった私は、泡の付着した手の甲で瞼をこすった。
しかし、その軽率な行動が私を後悔させることになるとは夢想だにしなかった。
再び開いた私の目に飛び込んで来たのは、濃い口紅を塗っているかのごとく赤く染まった口元だった。番台で出会った瞬間を思い返してみると、確かに鳴美さんは素敵な口紅を塗っていた。しかし、このようにシャワーを浴び続けていると、いくら頑固な紅でも薄くなるはずである。眼球を狙って跳ねる飛沫をふさぎながら鏡を注視すると、あまりの恐怖に私は腰を抜かしてしまった。
「ひ、ひぃっ!?」
鏡に映っていたのは、常人であり得ないほどに裂けた血みどろの口であった。鏡越しの彼女の口が両側にぱっくりと裂け、それも両耳にまで到達するように深い。信じられない光景を目の当たりにして尻もちをつくと、お気に入りのスカートが湯にさらされてしまった。
「ど、どうしたんだい!?そんなに怯えて…」
「い、いえ…少し、疲れてるみたいで」
「お疲れのところ悪いのだけれど、私にもお願いできますか?」
隣でトリートメントを髪に馴染ませていた神羅さんも、こちらに振り返る。鳴美さんよりも少し座高があるように思える彼女は、申し訳なさそうに眉を下げながら私に微笑みかけた。
「わ、わかりました…」
疲労のせいか、脳裏にこびりついた衝撃を払拭しようとするも、なかなか離れてくれない。泡のついた鳴美さんの背中を流した後、すぐさま私は隣の神羅さんの背中を濡らし始めた。彼女の背中は広く、壮大な海洋を想像させるぬくもりが感じられ、先ほどよりも洗いがいのある背中だ。
「番台さん、お上手ですね」
「ありがとう…ございます」
吐息まじりに褒めてくれた神羅さんに、私はぎこちなく言葉を返した。また同じように鏡越しに怖い物を見てしまうのではと、警戒心が芽生えてしまったのである。しかし人間の好奇心は恐ろしいもので、彼女の表情を確かめたい自分がいた。
怖いもの見たさに負けて鏡を覗くと、そこには何の
顔の正面に鏡があるのにも関わらず、顔が映らないとはどういうことなのか。神羅さんの頭の位置と見比べてみるも、本来あるべき顔面が鏡に映っていない。鏡には、血を抜いたように青白い胸腹部だけがこちらを覗いている。
得体の知れない恐怖に見舞われていると、番台の方からチーン…と
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