第46話 澱みのない明日へ



​地響きを立てて横たわった潮鳴り様は、もはや暴れる気配を見せなかった。

葉弍が老漁師と少女を安全な場所へ運び終え、肩で息をしながら駆け寄ってくる。


​「おい、アホライダー……! 大丈夫か!? 妖怪は……」


​葉弍は、倒れた妖怪の姿を見て、言葉を失った。


潮鳴り様の目からは、黒いヘドロではなく、透明な、真水のような涙が溢れていた。


​「……こいつ」


葉弍が、泥だらけの手で妖怪の身体に触れる。


「村を襲いたかったんじゃねぇ……。身体に毒を流し込まれて、自分を制御できなくなって。このままじゃ村を滅ぼしちまうから、そうなる前に……自分を止めてほしかったんだな」


​潮鳴り様の身体が、端からゆっくりと、淡い白銀の光となって崩れ始めた。

それは、汚染されたヘドロが剥がれ落ち、本来の美しい守り神の姿を取り戻していく過程のようだった。


​「……う、あああ……」


​瓦礫の陰から、村人たちが一人、また一人と姿を現した。


彼らが見たのは、恐ろしい怪物ではない。自分たちの欲望の犠牲になり、それでもなお最後の一瞬まで村を傷つけるまいとした、かつての守り神の最期だった。


​「潮鳴り様……申し訳ねぇ! 私らが、私らが欲に目が眩んで!」


老漁師が地面に膝をつき、嗚咽を漏らした。


村長の大森も、札束の入ったカバンを放り出し、ただ呆然とその光を見つめていた。


​潮鳴り様は、何かを訴えかけるように、私の腕の中で一度だけ優しく震えた。


そして、数多の光の粒子となって、夜空へと昇っていった。

その光は、雨のように海へと降り注ぎ、一時的にではあるが、黒く濁った入江を清らかな蒼へと染め変えていった。


​「……ちぇ。最後くらい、文句の一言でも言えばいいものを」


​私の手のひらには、何も残らなかった。


葉弍は、鼻をすすりながら、真っ白になった夜空を見上げた。


​「……効率が悪すぎるぜ、神様。自分を犠牲にしてまで守る価値なんて、この村にあるのかよ」


​そう言いながら、葉弍は地面に落ちていた「不正の書類」を拾い上げ、村人たちに見せつけた。


​「おい、お前ら! 神様は死んだ! だがな、この海を汚した事実は消えねぇぞ! 今度こそ、自分たちの手で泥を啜って、この海を洗い直せ! そうじゃねぇと、あの神様は浮かばれねぇんだわ!」


​夜明けの光が、静まり返った海面を照らし始める。


そこには、もう奇跡の真珠も、嘘の楽園もない。


だが、ようやく「本当の再生」を始めようとする、泥臭い人間の姿があった。


​数日後。私たちは再び、あてのない旅の空の下にいた。


葉弍の懐には、あの老漁師から渡された、一粒の「真珠」がある。

歪な形をし、色も不揃いだが、それは人工的な加工を一切受けていない、本物の命の輝きを放っていた。


​「あーあ、大赤字だ。結局、報酬はこの不細工な石っころ一個かよ」


葉弍はぼやきながらも、その真珠を大切そうにポケットに仕舞った。


​「ちぇ。アンタの今日の働きは、その真珠一個分の価値はあったんじゃないか」


​私は、赤い複眼の奥で、あの妖怪が最後に見せた微笑みを思い出していた。

優しさとは、時に自分を殺してでも何かを守ろうとする、非効率極まりない「覚悟」のことなのかもしれない。


​「……さあ、行くぞアホライダー! 次はもっと効率的に稼がせろよ!」


​「……ちぇ。面倒くさい。次は、もっとマシな仕事を探せよ」


​二人の影が、長い影を引いて、次の街へと伸びていく。


アホライダーの「優しさの探求」は、まだ始まったばかりだ。

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アホライダーの冒険 ばにゃ @bannya

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