第32話 音楽の優しさ
私は、ロンドンのストリートでギターを弾いているミュージシャン、リアムの前に立ち、彼を観察し続けた。
「ちぇ。面倒くさい」
彼は金にならない音楽を、黙々と演奏し続けていた。
葉弍が私の隣に立ち、緑と金のスカジャンが陽光に反射していた。
「おい、リアム。アンタ、なんでこんな金にならねぇことをやってんだ」
葉弍はタメ口で、ストレートに尋ねた。
リアムは、ギターを弾く手を止め、困惑したように私たちを見た。
「ええと……なんで、って言われても。歌うのが好きだから、かな。それに、通り過ぎる人がちょっとでも穏やかな気持ちになってくれたら、それでいいんだ」
「フン。穏やかな気持ちか。それは優しさの標本だな」
私は言った。
葉弍は、リアムの足元にある、古びたアンプとマイクを指差した。
「穏やかな気持ちにさせるにしても、効率が悪すぎる。その古い機材じゃ、音が小さすぎて、誰も立ち止まらねぇよ。アホライダーの優しさの探求を邪魔してるんだよ」
葉弍は、ボクシングで得た賞金が入ったバッグを開いた。
「いいか、リアム。俺はアンタに、新しい機材を買ってやる。高性能なアンプとマイクだ。最高の音で、もっと大勢の人間を穏やかにすれば、アホライダーは効率よく優しさの探求ができるだろ」
リアムは、驚きと戸惑いで目を丸くした。
「えっ?そんな、お金は受け取れません。僕は金のために歌っているわけじゃないから」
「金のためじゃなくていいんだよ!」
葉弍は言った。
「これはビジネスじゃない。アンタの『穏やかな気持ちを配る優しさ』を、世界に広げるための投資だ。アンタの優しさを、最も効率的に多くの人間に届けるためのツールだと思え!」
葉弍の「優しさの効率化」という、矛盾した理屈に、リアムは反論の言葉を見つけられなかった。結局、私たちは新しい機材を買い与えることに成功した。
効率化された優しさ
翌日、リアムは葉弍が用意した高性能な機材を使って、再びストリートに立った。
音量が上がり、音質は劇的に改善した。
リアムの穏やかなメロディは、ストリート全体に響き渡り、昨日とは比べ物にならない数の人々が足を止めた。人々は笑顔になり、目を閉じて彼の音楽に聴き入っている。
「ちぇ。面倒くさくないな。多くの人間が、穏やかになった」
ギターケースの中には、みるみるうちにコインと紙幣が増えていった。リアムは、生まれて初めて、金銭的な成功を収め始めたのだ。
葉弍は満足そうだ。
「どうだ、アホライダー!これが効率だ!アンタの探求も進むし、リアムも金が稼げる。一石二鳥だ!」
しかし、私は、リアムの顔を観察した。彼は、以前のようにぼんやりと穏やかな表情をしているのではなく、演奏が成功していることに興奮しているような、緊張した顔をしていた。
そして、彼の歌声に耳を澄ませると、以前の無償の穏やかさではなく、「聴衆にウケているか」を気にしているような、微細なノイズが混じり始めているように感じた。
「おい、葉弍」私は言った。
「なんだよ。最高の気分だろ」
「違う。リアムの音楽に、金という要素が加わったことで、彼の『無償の優しさ』が、『有償の成功』という、別のものに変質してしまったのではないか?」
私は、優しさと金(効率)という、最も面倒くさい矛盾に、再び直面したのだ。リアムは、果たしてまだ「優しさの標本」であり続けるのだろうか。
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